「被害者である町民の側ではなく、加害者である東電の側に賠償の決定権があるかのような状況は、賠償のあり方として倒錯している。」
「復興の号令の下、国は2017年度で賠償を終える方針を打ち出したが、救済は終わっていない。賠償指針やADRなど、あらゆる仕組みが被害者本位なのか、原発事故から五年の節目に見直したい。」
原子力発電所の事故を起こし、周辺自治体、住民に避難、放射能汚染による健康被害と重大な生活困難をもたらしたのは東京電力そのものです。その東京電力が居直り、被害者への補償、交渉を誠実に行わない態度は許せない。東京電力は事故は、自然災害、地震による津波であり、東京電力の経営陣、企業としての責任はないと主張していることに関係しています。また、その態度を容認している安倍、山口自公政権の政治姿勢によっています。本当にふざけた政治的態度と東電です。このような政権と企業経営者を許してはなりません。バス事故で経営者の刑事責任を追及しているのも関わらず、これだけの巨大事故を引き起こしてもまったく刑事責任が問われない。日本は本当に、司法が機能しているかが問われている。
安倍、山口自公政権が民主主義、自由を口にしていますが、彼らが言う自由とは企業が自由に利益を追求し、国民を奴隷のように収奪することを容認する自由です。また、その権利擁護は富裕層と大手企業の権利であり、多くの国民、弱者、貧民の権利は擁護すべき対象とはなっていません。本当に許せない連中です。
原子力発電所の事故が起きる可能性については、何年も前に指摘されていたではありませんか。また、現在だって、多くの科学者が忠告し、稼働させないでと提案しているではありませんか。そして、司法の場でも福井地裁がそのような判断をしているではありませんか。まったく安倍、山口自公政権は、科学的な知見を馬鹿にし、独善的な政治姿勢をとり続けています。そのうえで、事故が起きればその事故費用は、全国民に負担させる。ふざけるなと言いたいです。
<東京新聞社説>浪江町のADR 救済の原点を忘れるな
福島原発事故の賠償をめぐり、福島県浪江町の住民が国の紛争解決機関に行った増額の申し立ては、東京電力が和解案を拒んでいるため解決できない。東電は加害者として救済の原点に戻るべきだ。 浪江町の町民は東電から正当な理由を示されないまま、二年近くも解決を放置されている。
被害者である町民の側ではなく、加害者である東電の側に賠償の決定権があるかのような状況は、賠償のあり方として倒錯している。
原発に近い浪江町は五年前の原発事故で全町避難を強いられた。各地に離散して避難生活を送る町民の声を聴き、町は2013年5月、町民15,000人の代理人となり、国の「原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)」に対し、一人に月10万円が支払われる精神的慰謝料の増額を申し立てた。
放射能汚染で町の面積の大半が帰還困難区域とされた。弁護士らで構成するADRの仲介委員は現地調査も踏まえて翌年三月、「一律五万円の増額」を盛り込んだ和解案を示した。これを町は受諾したが、東電は「個別事情が反映されず、集団に対する一律増額には応じられない」と拒んでいる。
たしかに和解案には強制力がない。しかし、甚大な事故を招いた後も存続を許された東電は、その事業計画で「和解案の尊重」を約束した。この件で、ADRが「和解案受諾勧告書」を出したのは異例の対応といえる。東電に対して和解案の受諾を迫り、「拒否する合理的理由はない」と断じた。
申し立てに参加した浪江町民のうち、440人以上が亡くなった。かつての公害裁判などもそうだが、人権救済を訴えた被害者が、解決の日を待たずに世を去ることが、どんなに無念なことか。
東電は一刻も早く和解案を受け入れ、賠償を果たすべきだ。賠償を認めないと、被害者は諦めるか、訴訟を起こすしかない。訴訟という時間も労力もかかることを、被害者に負わせてはならない。
原発ADRは、被害者が泣き寝入りしないように設けられた救済機関だ。飯舘村民の半数が参加する集団申し立てなど、他の自治体住民からも増額要求が相次ぐ。この第三者機関が機能しないと、被害者は頼れるものを失う。
復興の号令の下、国は2017年度で賠償を終える方針を打ち出したが、救済は終わっていない。賠償指針やADRなど、あらゆる仕組みが被害者本位なのか、原発事故から五年の節目に見直したい。