“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

集団的自衛権 どこか人ごと なぜ議論がもりあがらないのか

2014年06月26日 12時59分58秒 | 臼蔵の呟き

憲法とは国家の基本的なあり方を規定する最高法規です。同時に、権力者を縛る法規です。ところが、その憲法を権力者である安倍、自民党中枢は公明党、維新の会、民主党一部を巻き込み、国会での議論を抜きに、密室で解釈変更を行う、閉会中に合意して、閣議決定すると報じています。

これで本当に良いのでしょうか。??????

<毎日新聞夕刊>

集団的自衛権 どこか人ごと なぜ議論がもりあがらないのか

 集団的自衛権の行使容認が閣議決定されそうな勢いだ。解釈変更による「改憲」が国民投票も経ないまま、時の内閣の判断で決まっていいのか。安全保障政策の大転換なのに議論は今一つ盛り上がらない。大事なことがすうっと決まってしまいそうなこの感じ、何なのだろう。

 ◇「政治の話はタブー。大人だってそうでしょ」と大学生

 ◇白井聡さん「戦後のツケ」 赤坂真理さん「政治の消費者はダメ」

 前半16分、日本代表の先制ゴールが決まると、客席は総立ち。サッカー・ワールドカップ(W杯)の日本初戦、対コートジボワール戦が行われた15日、東京ドームのパブリックビューイングに約3万5000人が詰めかけた。人の集まる場所で「解釈改憲」について聞きたくて「大事な日にそんな取材をするな」という反発を覚悟して出かけた。だが、みな驚くほど親切に答えてくれる。

 サムライブルーのユニホームを着た男性(23)は「集団的自衛権? もちろん関心があります。行使容認に賛成。平和憲法だ、戦争放棄だ、と言っても中国が攻めてきたらどうするんですか」。孫と観戦中の男性(69)も「行使容認、大賛成」。閣議決定による解釈「改憲」という手続きに反対の人はいるが、行使容認には賛成が多い。

 別の日、今度は慶応大湘南藤沢キャンパスへ。3人の総合政策学部生に話を聞いた。行使容認にも解釈改憲にも賛成。「護憲派の上の世代の理想主義って既得権を守ろうとする人と同じにおいがする」という。

 3年生(20)は「このままじゃ自衛隊の人に申し訳ない。法整備のないまま手足を縛られて」と嘆く。少子化の日本ではいずれ徴兵制が必要になるかも、と話を向けると「こういう大学に通う僕が戦場に駆り出される可能性はないと思う。この国で徴兵制は無理。若者は竹やりより弱い。専門性の高い軍隊に国を守ってほしいから、戦闘員が足りないなら移民を。そのために相当のカネを投入し、法整備も必要」。

 それって雇い兵ってこと? 何だろう、この「誰かに守ってもらいたい」的な当事者ではない感じ……。思わず「身内の戦争体験を聞いたことは?」と尋ねると、「全然ないですね」。

 別れ際、彼らは言った。「正直、僕らの世代で行使容認に反対の人、ほとんどいないと思いますよ。W杯の時期で愛国心、すごいですから」。本当にそうなんだろうか。

 2日後、同じ学部の別の3年生(21)から話を聞いた。「僕は行使容認にも解釈改憲にも反対。『敗戦後、日本は戦争で一人も殺さず殺されもしなかった』という事実を壊してしまったら、先の戦争で死んだ人々の思いを踏みにじる」。周囲の友人もみな反対という。同じ学部内でも互いに異なる意見をぶつけ合う機会はないのか。

 「だって政治の話はタブー。『この教授のゼミを選んだからにはこういう考えの持ち主か』と推察し、少しずつ距離を詰めるのがせいぜいです。政治の話ができるのは親友だけ。でも大人だってそうでしょ。僕が政治に関心を持てたのは政治的な意見を述べる予備校教師に出会えたから。そんな先生は大学にもめったにいない」

 反対だが行動には踏み切れない。「脱原発の集会やデモに行ったが違和感の方が強かった。結局、投票くらいしかないのかな。大きな流れに逆らえない」。昨年の特定秘密保護法成立直後は友人と「ひどい」と話したが、その後は話題に上らない。「解釈改憲もきっとそう」

 深いあきらめが漂う。日々のニュースがすごいスピードで流れていく。最近インタビューした作家、半藤一利さん(84)の言葉が思い浮かんだ。「戦争への道を後戻りできなくなったノー・リターン・ポイントはいつなのか、その時代に生きていた人は、意外とそれに気づけない。今がその時ではありませんか」

 なぜ、こんなにも議論が盛り上がらないのか。文化学園大助教(社会思想・政治学)で「永続敗戦論」の著者、白井聡さん(36)は「枝葉末節の細かい議論に持ち込み、国民をけむに巻く。事例を次々に増やし、議論をテクニカルにする。安倍晋三政権のぼやかし戦術です」と批判する。確かに、政府が現行法制では十分に対応できないとする「15事例」や集団的自衛権に関わる「8事例」を列挙できる人はまずいない。最近は自公がどこに妥協点を見いだすか、政局の話になっている。

 白井さんはもう1点、「戦後のツケ」を挙げる。

 「日本は『敗戦』を『終戦』と言い換えることで敗戦を否認し、戦前の支配層が戦後の統治者として居残った。東西冷戦中、米国の保護下で経済発展を謳歌(おうか)できたことで、国民は思考停止し、いくつものタブーを棚上げしてきた。『平和憲法と非核三原則を掲げた唯一の被爆国』という建前を守る一方、米軍による核兵器持ち込みは見逃した。自衛隊創設からイラクへの派兵まで、憲法解釈の変更によるつじつま合わせの繰り返しを受け入れた。だから今、解釈『改憲』は立憲主義に反する、という批判はどこかむなしく響く。こんな光景は実は見慣れたもの。解釈変更によるつじつま合わせは、戦後の保守政治の王道だったからです」

 新著「愛と暴力の戦後とその後」を出した作家、赤坂真理さん(50)は「議論が盛り上がらないのは、憲法が私たち国民の血肉ではないから。もし血肉となっていれば、内閣の話し合いだけで憲法解釈を変えるのはおかしい、という反対の声が改憲・護憲の立場を超えて出てくるはず」と指摘する「日本人にとって『憲法』は上から来たものです。国民が勝ち取ったことは一度もない。だから『憲法は国家権力を制限するもの』という西欧風の立憲主義に現実感がないのです。それでも戦後、平和憲法が尊重されてきたのは、戦争の怖さを肌身で知る世代がいたからでしょう」

 しかし、今、くしの歯が欠けるように戦中派が減っていく。赤坂さんは「今回の解釈『改憲』は賛成、反対で語れることではなく、もっと憲法の根幹に関わる問題。憲法って何か。国家って何か。素朴で率直な『子供の問い』を恐れず発しないと、私たちはいつまでたっても政治の『消費者』のままです」訴え、こう呼びかける。「確かに私たちは国政にものを言う癖がついていない。でも今から始めることはできます。民主主義の本質は多数決ではなく、『民が主』という考え方です。今回の議論、『わからない』ことがたくさんあるのに、それすらちゅうちょして言えない。『わかんない祭り』始めませんか。『わかんない』と正直に言いましょう。今言わないと。騒がないと。自分の言葉で。政治の『消費者』になっては絶対にダメです」

 消費者ではなく、主権者に−−私たちはなれるだろうか。


新成長戦略 奇策や禁じ手ばかりだ

2014年06月26日 10時58分17秒 | 臼蔵の呟き

石原環境担当大臣の暴言、都議会における自民党都議団幹部のセクハラ発言と傍若無人の自民党議員の発言が続いています。安倍、自民党政権の独裁、暴走が常態化する中で、国民無視、愚弄する態度が頂点に達しているのだと思います。彼らは、衆参のねじれ解消でどんな法案でも議席数との関係で強行採決できることを過信し始めています。まさに、ブレーキがない自動車のような状況に陥っています。彼らの周りには御用学者、茶坊主が集まり、歯止めが利かなくなっています。経団連、大手企業は安倍、自民党政権を政権ごと丸抱えしたような関係になっています。千載一遇のチャンスとばかりに、労働時間規制の撤廃、労働法規の空洞化、農業分野への企業参入、零細農業者の排除、医療保険制度を大手保険会社への開放などを成長の名の下に公然と開始しました。

このようなことは、自民党型政治の閉塞感を打開する道が、有効に打てないことから来る自暴自棄的な政策に行き着いているのだと思います。自民党型政治経済の問題点が分からないはずはありません。しかし、自民党の政治基盤である経団連、大手企業、富裕層の要求を受け入れるしか自民党としての存在価値はないのであり、政治的選択肢が限定され、限界に達していることを示しています。

社説でここまで酷評される成長戦略などは何のではないかと思います。経済政策などというような代物でないことはあきらかです。

<東京新聞社説>

 株価さえ上がれば何をやっても許されると思っているのだろうか。安倍政権が閣議決定した新成長戦略は、なりふり構わぬ手法が目立つ。国民の利益を損ないかねない政策は成長戦略といわない。

 国民の虎の子の年金積立金を株式市場に大量投入する「官製相場」で株価つり上げを狙う。

 財政危機だと国民には消費税増税を強いながら、財源の裏付けもない法人税減税を決める。

 過労死防止が叫ばれる中、残業代ゼロで長時間労働につながる恐れが強い労働時間規制緩和を進める。

 低賃金など劣悪な環境で「強制労働」との批判もあがる外国人技能実習制度を都合よく活用する。

 昨年の成長戦略は安倍晋三首相の発表会見中から株価が急落、大失敗に終わった。今回はその経験だろう、株式市場とりわけ外国人投資家の関心が高い法人税減税や労働市場改革を柱にすえた。国民の財産の年金資金による株価維持策という禁じ手まで使うに及んでは株価上昇のためなら何でもありかと思わざるを得ない。日々の株価に一喜一憂する「株価連動政権」と揶揄(やゆ)されるゆえんである。

 新しい成長戦略は「企業経営者や国民の一人一人が自信を取り戻し、未来を信じ、イノベーションに挑戦する具体的な行動を起こせるかどうかにかかっている」と最大のポイントを挙げている。しかし、この成長戦略でどうやって国民が自信を取り戻し、未来を信じればいいのか。

 二十年近く続いたデフレの大きな要因は、非正規雇用の急増などで国民の所得が減り続け、それが消費減退、企業活動の低下を招くという「賃金デフレ」であったことは通説だ。正社員の給与も伸び悩み、中間層が消失、一握りの富裕層と大多数の低所得者層に置き換えられたのである。

 だとすれば、まずは非正規労働の増大や長時間労働に歯止めをかける。人材教育や訓練に力をいれることによって生産性を高め、働く人への適切な分配を進める。成果主義によって報酬を決める労働時間規制の見直しでは、生産性向上よりもかえって長時間労働を生む懸念の方が強いだろう。

 原発再稼働を目指し、トップセールスと称して原発や「武器」を世界に売り歩き、今度はカジノ賭博解禁に前のめりだ。どうして、こんな奇策ばかり弄(ろう)するのか。正々堂々と経済を後押しし、国民が納得する形の成長戦略でなければ、いずれ破綻するであろう。

<河北社説>新成長戦略/「実感できる豊かさ」どこに

 「地方が元気を取り戻し、国民一人一人が豊かさを実感できるようにすること」。きのう閣議決定された新成長戦略は、自らの最終目標をそう規定する。
 その目標に向けた第一歩として、企業の「稼ぐ力(収益力)」を強化することが不可欠だとし、法人税の減税をはじめ、国が「世界に誇れるビジネス環境」を整えてサポートするとうたう。従って、戦略には企業寄りの政策が並ぶ。
 だが、狙い通りに稼ぐ力が向上したとして、その収益を「豊かさ」の形で家計にどう波及させるのか。戦略目標を実現するその道筋は描かれていない。
 国民の目からは、実感できるようになるはずの豊かさが見えてこない。目標を掲げてはいても、企業が第一で、国民の暮らしは二の次なのではないか。そうした疑念が消えない。
 新戦略づくりで安倍晋三首相が手柄のように誇ったのは、自らが「岩盤」と呼ぶ農業、雇用、医療分野の規制緩和である。いずれも、大企業を中心に経済界が強く要望していたものだ。
 医療では、保険診療と保険外の自由診療を併用する「混合診療」を拡充する。新薬や医療機器の開発が活発化し、患者にとっては治療の選択の幅は広がろう。ただ、自由診療は効果や安全性が未確認だ。安全をどう担保するのか、懸念がある。
 雇用では「時間でなく成果で評価される制度」を打ち出した。残業代ゼロの仕組みで、対象は年収1千万円以上の専門職。だが、人件費を抑えたい経済界は対象の拡大を求めており、そうなれば、長時間労働に歯止めがかからなくなる恐れがある。
 医療でも雇用でも企業にメリットがある。だが、そうした改革が、多くの国民にとって有益なのかどうか。医療格差が拡大し、労働者保護は後退する。そうした不安が拭えない。
 残る農業は、観光などと共に「地方に元気を取り戻す」ための柱とされた。農協・農業生産法人・農業委員会改革が盛り込まれた。企業の農業参入を促すための規制緩和といえる。
 それらを通じて、今後10年間で所得倍増を目指すという。ただ、注意すべきはその対象が「農業・農村」であり「農家」ではないことだ。企業が農村に入り、そこで作った農産物を加工し売って稼ぐ。それでも農業・農村の所得増となろう。
 だが、その収益が農村にとどまって農家の家計を潤し、地域経済の好循環につながる保証はない。元気を取り戻すのは農家や地方ではなく、企業だけということにもなりかねない。
 企業優先の競争原理がまかり通れば、格差拡大という副作用が広がりかねない。そのことは、国民一人一人の豊かさにつなげるという成長戦略の目標と相いれないのではないか。
 戦略の目玉政策とされる法人税減税にしても、減税に伴う「果実」を国民にどう還元するのかが見えない。政策効果を広く社会に行き渡らせる道筋さえ示せない戦略は、戦略の名に値しない。そう言わざるを得ない。


日本はなぜ戦争の記憶を恐れるのか

2014年06月26日 07時34分41秒 | 臼蔵の呟き

 

人民網日本語版 

シンガポールのリー・クアンユー元首相はかつて、次のように指摘した。戦後ドイツの実業家や資本家の履歴には、戦時中の経歴がすべて残っている。戦争に参加したことがあるか、捕虜になったことがあるかなど、包み隠さず記載されている。だが日本人の履歴は1937年から1945年までが空白で、まるでその日々がなかったかのように扱われている。文:劉少華。人民日報海外版掲載)。

 「まるでその日々がなかったかのように」扱われているのは、日本人の一部が自らに直面する勇気を持たないためだ。歴史教科書の強引な修正、歴史問題に対する歯切れの悪さ、被害を受けたアジアの国からの真っ当な要求への否認や回避は、すべてその表れである。

 例えば菅義偉官房長官は最近、南京大虐殺資料の世界記憶遺産への申請を「日中関係の過去の一時期の負の遺産をいたずらに強調するもの」と退けた。この件に対する安倍首相の考えはわからないが、アジアの人々の思いを踏みにじって靖国神社参拝を強行した安倍首相を非難しているようにも聞こえる。

 中国人が経験したこの重い歴史は、どの角度から言っても、全人類が共有すべき記憶の一部であるはずだ。世界は、アウシュヴィッツ収容所を記憶せねばならないように、南京大虐殺を覚えておかねばならない。世界は、「アンネの日記」を必要とするように、「程瑞芳日記」(南京大虐殺を記録した日記)を必要としている。世界は、ナチスの犯罪の証拠を永久に保存せねばならいように、旧日本軍の南京での暴行のフィルムや証言、判決書を永久に保存しておかねばならない。

 ルース・ベネディクトは有名な著書「菊と刀」で、「恥の文化」を基調とした日本文化においては、間違いを認めたり懺悔したりすることで人は解放されることはない。逆に、間違った行為があからさまにならなければ悩むこともないと指摘した。

 つまり一部の日本人の「1937年から1945年までの空白」は、彼らの記憶の空白を示しているのではなく世界の記憶においてこの間が空白であってほしいという彼らの願いを示しているのである。こうした人々が恐れるのは、間違ったことをするということ自体ではなく、間違ったことをしたことを覚えている人がいるということなのである。

このような国民性には恐るべきものがある。ファシスト側にあって同じく敗戦国となったドイツでは、ナチスの犯罪の証拠を世界から集める専門の係が今でも置かれ、謝罪と補償の努力が尽くされている。かつての首相のウィリー・ブラントがユダヤ人犠牲者の記念碑の前で跪いたことは世界のニュースとなった。だが南京の犠牲者30万人は70年余りが過ぎた今も、日本の政治家の言い逃れを聞き続けなければならないのである。

 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」。人類を襲った悲惨を前に、哲学者アドルノが語ったこの言葉は、この時期の苦難の歴史に対する西洋世界の眼差しを示す古典的反省として知られる。さらにノーベル賞作家のギュンター・グラスは、「アウシュヴィッツ以降の創作は、詩であれ散文であれ、歴史を覚えておくため、不幸の再演を防ぐため、歴史を終わらせるためというあり方でしかあり得ない」としている。

 「南京大虐殺以降」はどうだろうか。詩を書くことは同様に野蛮である。中国人の心の中で受け止めきれない重さを持つからだ。だが記憶は伝えなければならない。私たちが伝えていくべき記憶は、観点でも主張でもない。一枚一枚の写真、一件一件の文書、一本一本の映像である。事実を前に観点は余計だ。

 もしも世界にこうした記憶を残さなければ、未来の人々は、これら30万のこの地を生きた者たちを語るすべをなくすだろう。真実の記憶を残しておかなければ、こうした殺戮がこれからの世界を害することをいかに防ぐことができるだろうか。

 日本の一部の人々が恐れるこの時期の記憶は、その記憶が存在しないことを示してはいない。日本がその国民性においてこの記憶を回避しようとすることは、私たちがこうした無理な要求に耳を傾けるほどの善良さを持ち合わせなければならないことを意味してはいない。編集MA)

 「人民網日本語版」2014年6月24日