“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

中日関係の悪化

2014年06月18日 10時57分30秒 | 臼蔵の呟き

中日関係は、中国政府、安倍、自民党政権だけの問題ではなく、東アジア各国、日米関係にも大きな影響を与える外交関係です。靖国参拝、尖閣列島領有権問題、歴史認識の改ざんなど様々な政治問題がありますが、外交関係を改善することは中日両国にとって非常に重要なことです。

中日関係

中国政治の権威、東京大学の高原明生教授によると、日本と中国の関係は「闘争モード」に入った。絶え間ない緊張のリスクが急速に高まっているという。高原氏は10日、東京で記者や外交関係者らを前に講演し、日本では隣国を「怖い」国だと思い始めている人が多いと述べた。これが、不信の循環に油を注いでいるという。中国政府の言葉と行動にはギャップがあると高原氏は述べる。その最たる例が、同国の習近平国家主席の発言だ。同主席は、昨年10月、地域外交の原則として「親、誠、恵、容」を掲げたが、そのわずか数週間後、係争水域を含む水域の上空に独自に防空識別圏を設定し、日本は意表を突かれた。

高原氏はこうした言行不一致を説明する3つの仮説を示した。

仮説1 ―中国政府の部署間で調整ができていない。外務省が従来、融和的なアプローチをとってきたのに比べ、政府のプロパガンダを担当する当局者たちは対立的だ。近年、人民解放軍とエネルギー政策担当者が影響力を増しているようだ。ベトナムと中国が互いに領有権を主張する南シナ海の海域に中国が石油掘削装置を設置し、両国の対立が続いていることからもそれがうかがえる。新設の国家安全委員会が部署間の調整役になるとみられるが、「まだうまく機能していない」ようだと高原氏は述べた。

仮説2―中国の指導者たちにしてみれば不一致はない。高原氏によると、指導層は「自己中心的」に自らの姿を描いており、「大国病」にかかっている可能性もある。高原氏は、習氏が昨年発表した「親、誠、恵、容」の地域外交政策は、隣国という一般的な表現ではなく、周辺国という表現をあえて使っているところにも、自国中心的な世界観が表れていると指摘する。

仮説3―矛盾する政策目標が同時に追究されている。中央政府の当局者らは、地域の平和と繁栄を促進するうえで隣国との協力が欠かせないと考えながら、対立的な政策を追求する傾向がある。高原氏によれば、中国共産党には国を団結させる手段として闘争を使ってきた歴史がある。毛沢東政権下の階級闘争、米国やソ連に対する闘争、時には台湾政府との対立だ。現在も、隣国との闘争は効果的な手段だとみられているという。


集団的自衛権/どこまで無理を重ねるのか

2014年06月18日 06時00分05秒 | 臼蔵の呟き

敗戦後の数十年で、ベトナム戦争、朝鮮動乱、中東でのイスラエル、近隣諸国の戦争、イラン、イラク戦争など大規模局地戦争を組めて、かなり多くの戦争が発生し、終結を見てきました。これらの戦争に日本が自衛隊、軍隊を派遣せずに今日まで、至ったことは不幸なことではなくて、幸せなことでした。また、そのことは日本だけが平和で安全であれば良いとの利己主義からではありません。日本が敗戦後、平和憲法をもち戦争を放棄した国であることを世界に向かって宣言した国であることは良く知られていることです。スイスは永世中立国として、戦争には参加をしない。また、スイスに対して言いがかりをつけて戦闘行為も行ってはならないと世界の各国は知っています。このスイスに卑怯だとか利己主義といわないのと同じです。

地域紛争は宗教対立、資源分配をめぐる対立などが主に発生をしてきました。しかし、その発生が最近、多くなっているわけではありません。そして、アメリカ、ロシアなどの核大国が紛争に介入して紛争が減少しているわけでもありません。むしろ、アメリカ、ロシアなどの政治軍事的威圧が衰えたほうが紛争の拡大は抑えられているようにも感じます。

ASEANのように紛争を武力で解決せずに、話し合いで解決することを基本ルールとする地域連合体が注目されるにいたっています。人間と国家がある以上、紛争は絶えないのかもしれません。しかし、その紛争を解決するのに武力行使、戦争に訴えるのは正当性を持たないのだと思います。国連が出来、世界各国が加盟し、その中で、お互いの主張を明らかにして、徹底して議論し、紛争解決、利害調整を行うことで、武力行使は限りなく抑えられることは歴史の進歩と言うことができます。

<河北社説>集団的自衛権/どこまで無理を重ねるのか

 見直しの根拠を求めて検討を重ねれば重ねるほど、不都合があらわになる矛盾。限定の枠を狭めたように装いながら、拡大の抜け穴を潜り込ませる欺瞞(ぎまん)。率直な印象を言えば、そうなる。安倍晋三首相が今国会中の閣議決定に向けて躍起になる、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認のことである。

 その決着をめぐって自民、公明の両与党による協議が大詰めを迎えている。反対姿勢が強く先送りを模索してきた公明党が条件闘争に転じたからだ。
 平和国家を象徴する憲法9条の制約で「権利は保持しているが行使はできない」とされ、歴代政権が踏襲し定着している憲法解釈を変更するとなれば、最低限、確固とした論拠が要る。
 「長年の政府見解との整合性」を重視する公明党の意向をくむ形で、自民党がたたき台として示したのが、1972年の政府見解を盛り込んだ自衛権発動のための新たな3要件だ。
 政府見解は「わが国への武力攻撃で国の存立が脅かされ、国民の生命、権利が根底から覆される急迫、不正の事態」を前提に、個別的自衛権の発動を認めつつ、集団的自衛権は専守防衛を逸脱し、憲法上、認められないと明確に結論付けている。

 新3要件は(1)排除する他の手段がない(2)必要最小限度の実力行使にとどめる-を加えた従来の3要件の核心部分、「わが国への武力攻撃」に「他国」の文言を付け加えて、集団的自衛権の行使を可能とした。
 要件の一部をいかにも都合よく切り取って、全く逆の結論に導いており、その理屈立ては評価に耐えない。
 公明党は「国民の生命、権利が覆される」との部分を厳格に受け止めれば、行使の範囲を狭められて容認の「高い壁」を越えられると読んだとされ、提案はあうんの呼吸でなされた。
 ただ、自民案は「覆される」に「おそれ」を添え「覆されるおそれ」とし、行使拡大の余地を残した。限定への期待も事実上、解釈次第となるわけだ。
 公明党の抵抗でたたき台を修正し、行使に厳しい枠がはめられれば、その分、自衛隊の活動は制限されて「外交・安保環境の激変」に対応するため、日米同盟の深化を図って抑止力の強化につなげる、との狙いを実現しにくくなる。自公の綱引きがぎりぎりまで続こう。
 もっとも、憲法の縛りを外してしまえば、今後の安保法制の改正で活動範囲を広げていくことはでき、当初の限定や歯止めが機能し続ける保証はない。第一、有事に際して実力行使を必要最小限度に抑えきることの困難さは指摘するまでもない。
 憲法解釈変更のよりどころを、最高裁・砂川事件判決に見いだそうとした時期もあった。迷走ぶりは、集団的自衛権行使の容認をそれに求める「解釈改憲」の手法に無理がある、何よりの証しではないのか。
 理屈をこねても「針の穴」は通し難く、肝心の国民の理解も広がるまい。必要ならば、憲法改正の正攻法で臨むしかない。