小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

644 蘇我氏の登場 その10

2019年05月04日 02時14分08秒 | 大国主の誕生
 皆さん、お久しぶりです。
 ちょっとした事情からこのブログの編集画面にアクセルできない
状態が続いておりまして・・・長らく更新できずでした。
 今回ゴールデンウィークで時間があったのでやっと環境を復活
させることができた次第です。


大国主の誕生644 ―蘇我氏の登場 その10-


 この時代、難波が重要視されていた理由は主に2つのものが考えられます。
 ひとつは、中国や朝鮮半島との交易が活性化されたため。ふたつ目は吉備や紀伊、それに
阿波を含めた瀬戸内のネットワークを堅固なものにするためです。どちらかと言えばおそらく
後者の方が重要な意味合いを持っていたと考えられます。造山古墳から推測される吉備と
大和の関係性、葛城氏の系譜に紀伊が大きく関係していることなどから、大和政権と地方勢力
との連帯を強くする目的があったと思われるのです。

 これらは、主に葛城氏にとって意味のあることだったわけですが、一方、物部氏にとっても
難波の進出は意味を持つこととなったのです。
 それは、難波の枕詞が「押し照る難波」であることも関係します。この時代、大和政権では
太陽信仰が公的に行われていたと考えられ、難波の地から臨む朝日は生駒山の方角から昇ります。
物部氏の本拠は東大阪市だとされており、それも生駒山の山麓ではなかったかとも言われて
います。つまり、物部氏の本拠はまさに「日の下(もと)」あるいは「日の本(もと)」だった
わけです。
 実際、東大阪市には日下(くさか)という地名が存在しますが、古くには現在よりも広い範囲が
日下と呼ばれていたと言われており、中臣氏ゆかりの枚岡神社(ひらおか神社)も日下に含まれて
いたと言います。(枚岡神社の現在の地名は出雲井町)
 物部氏はニギハヤヒの子、宇摩志麻遅命(ウマシマヂノミコト)を祖としますが、枚岡神社に
近い東大阪市石切町にはウマシマヂを祀る石切剣箭神社が鎮座します。

 難波や瀬戸内海から見て日の下を治める物部氏はその利を生かして瀬戸内の海人たちに対する
影響力を強めていこうとしたのです。と同時に進められたのが渡来系氏族の掌握だったのです。
 そもそも葛城氏が大和政権の河内進出に際して大和の渡来系氏族を河内に移住させたのは彼らが
専門技術者たちを擁していたからなのです。
 ちなみに昭和の頃は、朝鮮半島から移住してきた渡来人たちによって最新技術や最新の文化が
古代日本にもたらされた、と考えられていました。昨今では、当時の日本は中国から直接それらを
取り入れていたと考えられるようになりましたが、それでも『日本書紀』に朝鮮半島から技術者を
つれて来たとする記事があることなどからも、朝鮮半島から移住してきた技術者たちは重宝された
ようです。

 少し前に河内にいた渡来系氏族をピックアップしましたが、丹比郡には船氏、津氏など海に関係
した氏族名を有した渡来系氏族がいました。
 直木孝次郎は『大阪府史 第二巻』の第一章第二節「政治と文化の展開」の中にある「渡来人の
活動」の項で、船氏は関税または港湾税の記録を担当し、津氏は港の管理に関する職務を担当した
のではないか、と考察しています。
 なお、『日本書紀』の欽明天皇十四年の記事に、船氏の祖である王辰爾(おうじんに)が登場します。
その内容は、天皇の命を受けた蘇我稲目が王辰爾を船長(ふねのつかさ)にして船の賦(みつぎ)を
記録させたことで、王辰爾は船史(ふねのふびと)の姓を賜わった、これが船連(ふねのむらじ)の
祖である、というものです。
 直木孝次郎の考察もこの『日本書紀』の記事からよるものです

 ちなみに津氏は王辰爾の弟の牛が敏達天皇三年に津史(つのふびと)の姓を賜わったことから
始まります。
 船氏と津氏に関する記事は応神・仁徳朝よりもずっと後の時代のものではありますが、このように
専門的な知識や技能を持った渡来系氏族を掌握することは葛城氏にとって自身の勢力や影響力を増す
ことになったでしょうし、その葛城氏滅亡後は物部氏がポスト葛城氏の地位を狙ったと推測されるの
です。

 大和政権が取り込もうとした渡来系氏族の技術のひとつが製鉄です。製鉄に関しては古くより日本
も行われていたのですが、それでも渡来系氏族が擁する製鉄の技術者たちは重宝されたようです。
っとも、最新の技術が他勢力に流出するのを防ぐ目的で囲みこもうとした面も否定できませんが。
 そして、国内の製鉄について語る時に徳島県阿南市の若杉山遺跡を外すわけにはいきません。
 若杉山遺跡は辰砂(しんしゃ)の採掘跡で、すなわち鉱山遺跡です。辰砂は水銀と硫黄の加工物の
ことで丹(に)とも呼ばれます。そして、国内で発見された辰砂の採掘遺跡は若杉山遺跡ただひとつ
だけなのです。
 平成三十一年(2019年)2月、若杉山遺跡から弥生時代後期の土器が発見されました。それまで、
国内で発見された採掘遺跡は山口県美祢市の永登銅山跡(ながのぼり銅山跡)がもっとも古いものと
されていましたが、この永登銅山遺跡が8世紀のものと見られているのに対し、弥生時代後期の土器が
発見されたことで若杉山遺跡は古くて1世紀、新しくても3世紀には存在していたことになります。
 しかも、若杉山遺跡からは山陰や近畿といった地域の特徴をもった土器も発見されているので、
れらの地方とも交易があったとみられるのです。

 徳島県と言えば吉野川市川島に、物部氏の祖であるイカガシコオとイカガシコメを祀る伊加加志神社
(いかがし神社)が鎮座し、また愛媛県今治市にもイカガシコオを祀る伊加奈志神社(いかなし神社)も
鎮座します。
 そして、今治市には三三島のひとつ大山祇神社(おおやまつみ神社)が鎮座します。三三島(三みしま)は
以前に考察したように、製鉄に関係し、かつ鴨氏という葛城の氏族とつながりがあるのです。

幼い頃の歌詞まちがい

2019年03月10日 01時21分11秒 | 日記
2013年12月6日(土)(5歳8か月)


 今回は春奈のことではなく僕自身の話をしようと思う。

 その前に。
 歌の歌詞というのは間違って覚えている、ということが往々にしてある。

 たとえば『アルプス一万尺』の歌詞で「小槍の上でアルペン踊りをさあ
踊りましょう」という一節があるけども、この「小槍」を「子ヤギ」と
間違えて覚えていたという人は少なくない。


 で、僕の場合だけども。

 幼い頃、まだ幼稚園にも通い始める前の時分に、従兄弟のお兄ちゃんが
何枚かのレコードを譲ってくれた。僕が生まれる少し前くらいの時代に
放送されていた子供向けテレビ番組の主題歌の、いわゆるドーナツ盤と
呼ばれるレコードだった。

 その1枚に『怪奇大作戦』のレコードがあった。

 この番組も僕が生まれる前の時代のものなので内容は知らない。たぶん
オカルトものではないかと想像している。でもこの時の僕は幼かったから
そんなことはまったく気にしていなかったし、そもそも「怪奇」という
言葉の意味もよくわかっていなかった。

 そして、このレコードのB面に収められていた歌が、『怪奇ソング』と
いう歌で、これの歌詞の中に、

 「月が泣いて星が笑う」

という一節があった。

 ただし、メロディの関係で、「つきがないて ほーしがわらう♪」と
歌っていた。
 それで幼い僕はこれをてっきり「法師が笑う」だと思い込んでいたのだ。

 このことでちょっと不思議なのは、幼い僕がどうして「法師」なんて
言葉を知っていたのか、ということだ。
 たぶん、日本の昔話によく法師が登場するからだろうと推測している。


 普段の生活の中においては縁がないと思える言葉でも、たまたま耳に入る
機会が多ければ自然と体の中に意味つきで入り込むものだ。

 春奈だって、なんでそんな言葉知ってんだよ?と思わせることがあるけど、
これも春奈の周りで使われている言葉なのだろう。春奈の場合、ヒッポの
関係で大人と接する機会が他の子供たちに比べても多いから。

 幼児の言葉の不思議というのは、大人もまた同じで、自分が幼い頃はやっぱり
不思議をしていたのだ。

643蘇我氏の登場 その9

2019年02月27日 00時47分08秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生643 ―蘇我氏の登場 その9―


 それでは、現在の東大阪市にいたとされる物部氏がいつ頃現在の富田林市や河南町、羽曳野市の
辺りにまで進出していったのか、というところを考えてみるべきだと思います。
 そもそも物部氏が台頭してきたのは雄略朝の時代と考えられているのですから、進出の時期は
雄略天皇の登場よりも以降ということになります。先にお話しした、物部目大連が餌香(えが)の
長野邑を賜った、という話も『日本書紀』の雄略天皇十三年の三月の記事ですから、やはり雄略朝
時代ということになります。
 むしろ、雄略朝時代よりも前ということの方が考えにくい。
 なぜならそれよりも以前は葛城氏がこの地域の渡来系氏族を傘下に収めていたと思われるからです。
 かつては絶大な力を誇った葛城氏でしたが、19代允恭天皇の時に葛城玉田宿禰が討たれ、
さらには20代安康天皇が殺害されて21代雄略天皇が即位する間の期間に葛城円大臣が討たれた
ことで歴史の表舞台から消えてしまいました。それに替わって登場してきたのが、物部氏、大伴氏、
中臣氏といった連(むらじ)の姓を持つ氏族たちだったわけです。

 葛城氏の本拠はその氏族名から大和国の葛城地方とされています。始祖は葛城襲津彦(かつらぎの
そつひこ)です。
 『日本書紀』の神功皇后摂政五年の記事にある、葛城襲津彦が新羅からつれ帰った桑原、佐穈(さび)、
高宮、忍海(おしぬみ)に住む渡来人についても、それぞれの居住地が葛上郡、忍海郡と、葛城地方
です。
 先に少し触れましたが、河内国の讃良郡の高宮という地名があり、河内国の石川郡とにも佐備(さび)
という地名があるので、このことからも葛城氏が管轄する葛城の渡来人が河内に移住してきたと考えられ
るのです。

 ところで、先に、石川郡の佐備については渡来人ではなく大和の忌部氏が関係しているとする説がある、
と言いましたが、これについても触れておかなくてはなりません。

 石川郡の佐備(現在の大阪府富田林市佐備)には佐備神社が鎮座しますが、ここの主祭神は天太玉命
(アメノフトタマノミコト)なのです。そして葛城にも天太玉命を祀る神社が存在します。それは奈良県
橿原市忌部町の天太玉命神社です。
 問題は、この天太玉命は大和の忌部氏の祖といわれる神だということです。
 つまり、このことによって河内国石川郡の佐備に進出したのは大和の忌部氏だとも考えられるわけです。
 もっとも、忌部氏に付き従うように、佐味の渡来人の子孫たちに一緒に移住してきた可能性も考える
ことができるのですが。

 しかし、佐備に進出してきたのが仮に忌部氏であったとしても、こちらも看過してはいけないことでは
あるのです。
 なぜならば、忌部氏には大和の忌部氏の他にも紀伊の忌部氏、阿波の忌部氏、讃岐の忌部氏、出雲の
忌部氏などが存在するからです。

 葛城襲津彦は、『古事記』では葛城長江曽津都毘古と記されていますが、その系譜は武内宿禰の子と
なっています。つまり、蘇我氏の始祖である蘇賀石河宿禰とは兄弟の間柄なのです。
 武内宿禰は七男二女をもうけたと『古事記』には記されていますが、葛城長江曽都毘古(葛城襲津彦)や
蘇賀石河宿禰の兄弟に木角宿禰(きのつぬのすくね)がおり、これが木臣(紀臣)の祖とあるのです。
 そもそも武内宿禰自身も母が紀伊国造の女性であり、紀伊とはつながりが深いのです。
 なお、少々蛇足かもしれませんが、紀臣と紀伊国造について、『古事記』の記載に従うなら紀伊国造が
紀臣の祖ということになるのですが、これとは反対に紀臣から紀伊国造が分れたとも言われています。

 さて、本題に話を戻しますと、葛城襲津彦が新羅からつれて来た渡来人を住まわせたのが葛城地方であれば、
大和の忌部氏の本拠も葛城という、いずれにせよ葛城氏の影響が非常に強いわけなのです。
 さらには、安宿郡には尾張郷が存在しましたが、葛城にも高尾張邑がありました。そもそも安宿(あすか)
という地名もそうですが河内の近つ飛鳥と大和の遠つ飛鳥など。
 このように、葛城と河内には共通した地名などが存在し、これが、葛城氏が河内に進出していった名残だと
いうのです。

 南河内の河南町と葛城の當麻町にはかつて日本最古の官道である竹之内街道が走っていました。竹之内街道が
作られたのは推古朝時代なので、葛城氏の本宗が滅亡させられたよりもずっと後の時代のこととなるわけでは
ありますが、その基となるものが葛城氏の全盛期に存在したのではないでしょうか。
 そもそも竹之内街道は現在の堺市堺区と當麻町を結ぶ道でしたが、葛城氏の全盛期は難波がクローズアップ
された時代でもあるのです。葛城氏が大和政権の中心に座るようになったのは応神・仁徳朝時代の頃で、
ちょうど大隅宮や難波宮の時代です。
 応神天皇は第15代天皇、仁徳天皇は第16代天皇ですが、その前の第14代仲哀天皇から継体朝誕生までの
歴代天皇の陵墓を見てみれば、実に12人中9人までが河内に陵墓を築いているのです。
 ちなみに河内以外に陵墓を築いたのは第20代安康天皇と第23代顕宗天皇と第25代武烈天皇なのですが、
顕宗天皇と武烈天皇はともに、當麻町に接した香芝市に陵墓を築いているのです。
 もちろん、これらの陵墓はあくまでも記紀に記述にされているというものであって、近年の調査によって
これらの陵墓が築かれた年代と被葬者とされる天皇の在位期間が一致しないといった結果も出されているの
ですが。しかし重要なことは、記紀の編纂者たちが14代から25代までの歴代天皇のほとんどが河内に埋葬
された、としていることです。
 このことは、ある時期に難波が重要視されたという史実があり、そこから作られた物語ではないか、と考え
られるのです。少なくとも古市古墳群や百舌鳥古墳群にみられる巨大古墳は一地方の豪族が造ることのできる
規模ではありません。明らかに国家事業と言えるものです。
 要するに、葛城氏あるいは物部氏の南河内進出は単独ものではなく大和政権としてのプロジェクトだった
可能性が考えられるのです。
 おそらく南河内には、葛城氏、物部氏、それに大伴氏、中臣氏、それに渡来系氏族たちが一斉に進出してきた
ものと思われます。その中でも中心となったのが葛城氏だったのでしょう。
 奈良県と大阪府の境界は、生駒山、葛城山、金剛山などといった山々が連なり天然の巨大な壁によって隔たれ
ています。大和の人々にとって大和の内がひとつの城に例えるならこの壁の向こう側は城外ということになり
ます。城外のその果てにある難波と大和の間に位置する南河内は当然盤石に治める必要があったと言えるでしょう。

642 蘇我氏の登場 その8

2019年02月14日 01時45分10秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生642 ―蘇我氏の登場 その8―


 まず、最初にみていきたいのが石川郡です。
 石川郡に佐備郷があったことは注目すべきことです。
 と、言うのも『日本書紀』の神功皇后摂政五年の記事によれば、新羅が、日本に人質に
出されていた新羅王子の微叱許智伐旱(ミシコチホッカン、「新羅本紀」では未斯欣)を
策略でもって新羅に脱出させたことで、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が新羅の早羅城
(さわらのさし)を攻撃し、これを落とすと、捕虜たちを日本につれ帰って、これが桑原、
佐穈(さび)、高宮、忍海(おしぬみ)に住む渡来人である、とあるからです。
 佐穈が現在のどこにあたるのかについては、この石川郡佐備郷とする説と大和国葛上郡
佐味郷とする説のふたつが有力ですが、どちらかと言えば佐味郷にやや軍配が上がるよう
です。それは、桑原が大和国葛上郡桑原、高宮が大和国葛上郡高宮、忍海が大和国忍海郡に
それぞれ比定されているからで、いずれもが葛城地方に比定されているわけです。そのため、
佐穈についても、桑原・高宮と同様に大和国葛上郡である、と考える方が自然だというわけ
です。
 ただし、高宮については河内国讃良郡の高宮とする説もあるので佐穈が河内国石川郡と
する説も安易に否定はできませんが。
 それでも、やはり『日本書紀』の神功皇后摂政五年の記事に登場する四邑は大和の葛城で
あったと思われ、その地から河内に移住したとする考えが主流です。

 ところが、移住したのが渡来人であったとは断定しづらい点もあるのです。佐備には
大和の忌部氏が大いに関係しているという説もあるのですが、このことについては後述する
ことにして、今はまず渡来人に焦点を絞っていきたいと思います。

 この地域一帯における渡来人の分布についての研究は、水野正好「河内飛鳥と漢・韓人の
墳墓」や山尾幸久「河内飛鳥と渡来氏族」(ともに門脇禎二・水野正好編『古代を考える 
河内飛鳥』に詳しいのですが、たとえば、石川郡山代郷(現在の南河内郡河南町山代)には、
漢人系の山城忌寸(やましろのいみき)がいたことが山代忌寸真作(まはぎ)の墓誌によって
確かめられています。
 昭和27年に奈良県五條市の阿太小学校に墓誌が保管されているものが発見されたのですが、
そこには「河内国石川郡山代郷従六位上山代忌寸真作」と記されていたのです。

 石川郡に近接する錦部郡(にしごり郡)には百済郷という百済の国名をそのまま用いた
地名が存在しましたが、この地には百済系の錦部連が居住していました。また、高向(現在の
河内長野市高向)には高向村主(たかむこのすぐり)がいました。

 『新撰姓氏録』の逸文には、阿智王が妻子と漢人の七氏族をつれて来朝したことが記されて
いますが、この阿智王と同一人物と見られるのが『日本書紀』の応神二十年九月の条にある
阿知使主(あちのおみ)です。こちらは、『日本書紀』の中で、

 「阿知使主(あちのおみ)、その子、都加使主(つかのおみ)、並びに党類十七県を率いて
帰朝した」

と、あります。
 『新撰姓氏録』にある七氏族は七姓漢人とも言われますが、この七氏族の中に高向氏がいる
のです。

 また、石川郡の北にあった安宿郡(あすか郡)では、上村主、上勝、上曰佐、下村主、下曰佐、
伯禰、飛鳥戸造、飛鳥部、田辺史といった渡来系氏族がいました。
 他にもこの周辺では、古市郡に西漢氏(かわちのあや氏)、武生氏、蔵氏がおり、丹比郡には
葛井氏(ふじい氏)、船氏、津氏などがいましたが、これらは渡来系氏族なのです。

 このように、南河内には多くの渡来系氏族が存在していたわけですが、ここで物部氏との関係が
関連付けられてくるのです。
 河南町の磐船神社が物部氏とゆかりのある神社であったとするなら、物部氏は南河内を掌握し、
かつ渡来系氏族を管轄していたものと思われるのです。
 そもそも物部氏の本拠は現在の東大阪市であったと言われているのですが、他にも大阪府下では、
先に紹介した八尾市の渋川に別業があり、『日本書紀』を見れば、物部目大連が雄略天皇から
餌香(えが)の長野邑を賜った、という記事があり、この餌香は大阪府羽曳野市恵我之荘に比定
されていますから、河内の広い地域に根を張っていたものと思われます。
 そこに蘇我氏の支流である蘇我倉氏が進出してきたわけですから、蘇我氏本宗が河内の渡来人系
氏族たちをその傘下に収め始めたということも十分に考えられ、その結果として物部氏と蘇我氏の
対立が生まれたのです。
 もちろん、蘇我倉氏の河内進出は物部氏滅亡後のことと考えることもできます。それに渡来系
氏族の帰属をめぐっての対立と結論づけるには仮説の上に仮説を立てる論法となる傾向にあるのも
確かです。
 しかし、近年言われているような蘇我氏と物部氏と対立が仏教を巡ってのものではなかったので
あれば、対立の原因は勢力争いと考えるべきであり、ではその勢力争いとは具体的にどのような
ものだったのか、と問われたなら、やはりそれは渡来系氏族を自分の傘下にしようとする争いで
あったと考えるべきではないでしょうか。

 それに、河内の渡来系氏族を影響下に置くにあたって、蘇我氏にはその下地があり、逆に物部氏の
方も完全に渡来系氏族を掌握するには至っていなかった事情があったのです。

繰り返すということ

2019年02月03日 01時38分26秒 | ヒッポファミリークラブ
 これまでにも何度か書いたけども、ヒッポファミリークラブでは「言葉を歌う」と
いうことをしている。これは、ヒッポのオリジナルストーリーCDの中のどこかの場面を
言うことなのだけども、「言う」ではなく「歌う」とヒッポでは表現する。
 それは、その場面の言葉を暗唱するのではなく鼻歌で歌を歌う感覚で口にするからだ。
 だから完璧に言える必要はない。それよりもその言葉の持つ独特のリズムをつかむ
ことの方がより大事と考える。ちゃんと言えなくても、何度も繰り返してやっている
うちに自然とCDソックリに言えるようになるし、知らないうちにその言葉の意味も
わかってくるようになる。

 この繰り返し言う、ということは学校の英語教育でも同じことが言えるだろう。
 英語の教科書を繰り返し声に出して読む、あるいは教科書の文章を繰り返しノートに
書き写す、など。

 これの何が大事なのかと言うと、言葉は先に意味や使い方を覚えるものではないからだ。

 たとえば、英語ならば、「ニューヨークにある店」と言う時は「in New York」
だけども、「角にある店」と言う時には「on the corner」になる。
 このinとonの使い分けについては「街の中にある店」、「道路の上にある店」という
解釈で理解し覚えようとする人もいるようだけども、これはあくまでも日本語に置き
換えた理解の仕方であって、英語と日本語ではいろいろ異なる点が多い。
 だから、繰り返して口に出してみたり書き写すことが効果的になる。
 繰り返すことで、inとonを間違えることがなくなるからだ。inでなくてはしっくり
こない、反対にonでなくてはしっくりこない、というようになる。

 日本語だって同じようなことが言える。
 「犬と散歩に行く」
と、言う時と、
 「犬を散歩につれていく」
と、言う時。
 この「犬と」と「犬を」の違いを考える人がいるだろうか?少なくとも日本に生まれて
日本語で生活している人は絶対に間違えない。
 だけど、そのような人の中でこの違いを学んでから話している、なんて人はまずいない。
 同時に、ここは「と」を使うべきか「を」を使うべきか、なんて頭で考えてから話す
人もまたいない。
 いつの間にか、知らないうちに、自然に使い分けができるようになっていたはず。

 日本語の環境の中で生まれ、日本語で生活してきた人は、それこそ数えきれないほど
今までに日本語を口にしてきた。そう、繰り返し、繰り返し、日本語を話してきたので
ある。
 その結果、「と」を「を」を間違えることはない。

 繰り返すことが大事と言うのはこのためなのである。