ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

児玉神社と義民兵内供養塔

2017年08月16日 10時03分51秒 | 歴史の小道

お盆で実家を訪れたついでに、自転車を借りて周辺を散策します。今回は八幡様と10月15日に村祭りが行われる児玉神社と近くの義民兵内の供養塔を散策してみました。鳥居です。65年前になりますが、10月15日の村祭りにはここのところに屋台がいっぱい出ました。正面が拝殿、右手に神楽殿となっています。

★ランドマーク児玉神社児玉神社の創建年代は不詳ですが、鎌倉時代に当所の修験者である関城院という人が修業のために大和国大峯山に籠り、満願しての帰途、鎌倉鶴岡八幡宮に通夜した時霊夢を感じて当所に帰村の後一社を創立して若宮八幡宮と称したと伝えられます。明治40年(1907)に合社により児玉神社と改称しました。江戸時代には関村の鎮守社となっていました。

また、境内には明和元年(江戸時代)に起きた明和の大一揆の首謀者として、明和345才の若さで獄門の刑に処せられた当地の名主遠藤兵内を祀った義民遠藤兵内お宮(関兵霊神社)があります。遠藤兵内は、児玉神社近くの関観音堂境内にあります。神楽殿

お祭りでは、神楽殿で川輪に人たちが神楽を演じていました。

拝殿

じいちゃんばあちゃんは八幡様と呼んでいました。私もそのように思っていたので、鳥居に児玉神社と書かれていたので違和感を持ちました。明治40年に若宮八幡宮から名称が変わった云うことで納得しました。明治20年前後の生まれの人に八幡様ですね。手水舎

戦略兵器奉納記念碑と書いてあります。ここの後ろで焚き火を炊いていました。

拝殿の前では獅子舞が舞われます。

兒玉神社の秋季大祭に、社前に奉納される獅子舞(ささら)は、江戸時代中期の享保年間、今からおよそ270年前に相模の国の人がこの地へきて、獅子舞の舞い方、笛、太鼓、謡曲の一切を教えたのが始まりと伝えられています。 現在は、地元・関の中学生が伝統を継承し、毎夜練習に励んだ成果を10月の大祭本番に披露しています。(美里町の文化財から引用)御神木の欅もだいぶ年期が入ってきました。

社殿の奥にある合祀社

明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀し、児玉神社と改称したということで、合祀した社が立っていました。

角にあるのは

義民遠藤兵内お宮と改築記念碑です。

★ランドマーク義民遠藤兵内お宮改築記念碑:義民遠藤兵内は、今からおよそ二百二十有余年前の明和元年に起きた明和の大一揆の首謀者として、明和3年45才の若さで獄門の刑に処せられ、刑場の露と消えました。文久3年、この地に神として祀られ、以来命日の2月13日には神霊祭が盛大に行われます。平成2年、兵内くどき保存会が県の文化ともしび賞を受け、ここに受賞記念事業としてお宮の改築をし、義民兵内の功績を長く後世に伝えるものです。(美里町史より)

ここの背景にあるところの近くの観音堂に義民遠藤兵内に墓があります。

義民兵内供養塔の概要:関観音堂にある、義民兵内の供養塔です。義民兵内は、関村の名主の家に享保10(1725)年生まれ、明和元(1764)年伝馬騒動の主導者となりました。伝馬騒動は、中山道の保守を負担する費用を巡って、使役の負担を嫌った中山道一円の村々による嘆願で、二十万人もの農民による騒動です。嘆願は受け入れられたものの、一部の農民が先鋭化し、村役人や高利貸の家を打ち壊したことから、主導者が処刑され兵内は獄門(さらし首)、首は3日間さらされたといいます。騒動の落ち着いた2年後の明和5年、関村で管理していた関観音堂に供養塔が建立されました。関観音堂境内石碑に由来が書き込まれています。

義民兵内供養塔の由来

この宝筐印塔は十八世紀のなかば関の名主であった兵内の供養塔です。兵内は享保10(1725)年関に生れ家は代々名主を勤めていました。徳川十代将軍家冶の時代である明和元(1764)年に武蔵上野下野信濃四カ国の中山道を中心とした一帯に伝馬騒動という百姓一揆が起りました。騒動の起りは中山道を通行する人馬がふえて宝暦年間(1750)になるとそれ迄奉仕していた伝馬を勤める人を出す助郷の村数が不足するようになりこのため中山道宿々の問屋では裕福な村役人層を資金元にして助郷の範囲を拡げるよう幕府に運動すすめていました。幕府は折柄明和2年の春日光において東照宮家康の百五十回忌の法要が行われるのを理由に中山道日光道中筋の村々の調査を始め街道から十里四方の村々に助郷の指名をおこない高百石につき人足六人馬三疋、遠路の村々は金六両を負担するよう村々に命令しました。しかし宝暦のはじめ頃から水害が多く収穫が減って農民達は生活は困っており、又その頃新しい将軍にお祝いを述べに来た朝鮮人の接待費用として高百石につき、金3両1分2朱という従来に較べると非常に高い税金をやっと払ったすぐ後でしたのでいくら幕府の命でもひどすぎるという不満の声が高まりました。そして本庄宿の助郷である今の秩父児玉大里多野佐波新田の各郡の村々の農民一万八千余人が年の暮に十条河原に集まり相談の結果、幕府に助郷を拡げることを取止めて貰うよう一同で江戸迄押掛けて願い出ることにきまり、数日後出発して本庄から上野信濃方面の農民と一緒になって江戸に向って進んでゆきました。この知らせを受けた幕府は非常に驚き関東郡代伊奈半左衛門に取鎮めを命令し、伊奈は農民の願いを無条件で聞き届け、助郷を拡げることを中止しました。農民達は要求がとおると日頃自分達を苦しめ、この事件の資金元となっていた村役人や高利貸の家を方端から打ちこわしに赴き二十数軒を打ちこわして漸く治まりました。この騒動に参加した農民や約二十萬人といわれる多勢の人々でしたが、兵内はこの人達の信頼の下に先頭に立って活動しました。豊かな生活、明るい日々を送るために起ち上った農民達でしたが幕府がこの人々に下したのは兵内の獄門(さらし首)をはじめとして三百六十名余におよぶ重い刑でした。兵内はこの地で獄門の刑に処せられたのは明和3年2月13日42才の時です。兵内の死後2年目の明和5年には早くも騒動に参加した人々の手によってこの供養塔が建てられて今日までもまもられてきました。この標札をみて観音堂ということがわかりました。観音堂です。

近くには庚申塚がありました。遠藤兵内の碑もありました。

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