ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

王子神社(王子権現)江戸名所図会めぐり

2017年08月21日 21時37分58秒 | 江戸名所図会めぐり

王子は飛鳥山や水無川、王子稲荷神社などと多く江戸名所図会に描かれているので、一度行きたいと思っていました。リハビリのために自転車で行くことを考えていたのでなかなか実現しませんでしたが、JRで行くことで実行することができました。江戸名所図会より、右上の川の奥にあすか山が描かれています。

キャプション  咲きにほふはなのけしきを見るからに神の心ぞそらにしらるる 白河院御製

鳥居

詳しい由来が書かれていました。

★ランドマーク王子神社:創建は詳らかではありませんが、源義家の奥州征伐の折、当社の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられ、古くから聖地として崇められていたと思われます。その後、元亨2年(1322年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神をお迎えして、改めて「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたといわれます。それよりこの地は王子という地名となり、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれています。 戦国時代、当地の領主となった小田原北条氏も当社を篤く崇敬し、朱印状を寄せて社領を安堵しております。

 徳川時代に入ると初代家康公は天正19年(1591年)、朱印地二百石を寄進し、将軍家祈願所と定めました。二百石は当時としては広大な社領で、それより代々将軍の崇敬篤く、「王子権現」の名称で江戸名所の1つとなります。

 三代家光公は寛永11年(1634年)、新たに社殿を造営、林羅山に命じて縁起絵巻「若一王子縁起」三巻を作らせて当社に寄進しました。その後も五代綱吉公が元禄16年(1703年)、十代家治公が天明2年(1782年)、十一代家斉公が文政3年(1820年)と造営修繕された社殿は秀麗な権現造りで、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も17社を数えていました。

 特に八代吉宗公は紀州徳川家の出自で、この地に紀州ゆかりの当社があることを大いに喜び、元文2年(1737年)に飛鳥山を寄進、桜を多く植えて江戸庶民遊楽の地としました。これが今に残る花の飛鳥山(現飛鳥山公園)の基となったもので、現在も桜の季節には多くの花見客で賑わっています。

 明治元年、明治天皇は新たに首都となった東京を守護し、万民の安寧を祈るため、准勅祭社を定めました。当社もこの東京十社に選ばれ、以来、東京の北方守護として鎮座しております。

 戦前は「太田道灌雨宿りの椎」と伝えられる巨木を始め、多くの樹木が茂り、勝海舟も修行したと伝えられますが、戦災で東京都指定天然記念物の大イチョウを残し、ほとんどを焼失したことは誠に残念なことです。

 戦後は氏子一同、復興に努め、昭和39年の第一期、昭和57年の第二期造営を経て、黒塗りと金箔をほどこした壮大な権現造りとして社殿を再建、境内を整えて現在の景観となっております。

★王子田楽:王子田楽は王子権現社(現在の王子神社)に伝承された民俗芸能で、始まりは、中世の頃といわれています。江戸時代には、旧暦の7月13日に境内の舞台(現在は滅失)で、花笠を被り、衣装を着けた躍り手が十二番の演目を奉納したことが、当時の地誌などに記されています。戦争で長らく中断していた王子田楽でしたが、地域の人々の努力により昭和58年に復興を果たしました。現在は毎年8月、王子神社の例大祭最終日の午後、境内の仮設舞台で、地域の子供たちが躍り手となって王子田楽が執り行われています。

「関神社」は関蝉丸神社の御神徳を敬仰する人たちが「かもじ(髪を結う時自分の髪に添え加える毛)業者」を中心として、江戸時代に王子神社境内に奉斎したことを創始としています。

「毛塚」は釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られた時、貧女が自らの髪の毛を切り、油にかえて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝いたという言い伝えから、毛髪を扱う業者によって毛髪報恩と供養のために昭和36年5月24日、建立されました。

 

★「髪の祖神」関神社由緒略記

御祭神
蝉丸公 神霊
逆髪姫 神霊
古屋美女 神霊

「これやこの 行くも帰るも 別れては
 知るも知らぬも逢坂の関」の和歌で有名な「蝉丸公」は延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又 髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社」として、ゆかりの地 滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代 ここ「王子神社」境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。 昭和二十年四月十三日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け浄財を募り昭和三十四月五月二十四日これを再建せり。

王子神社 宮司

毛塚の由来
釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝き世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。
毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和三十六年五月二十四日「関神社」境内に毛髪の塔を建立し永く報恩の一助 とする。

関神社奉賛会
東京人毛商工組合
東京床山協会
東京かつら協会
関西かつら協会

関神社手水鉢関神社由緒

王子神社拝殿

江戸名所図会 王子権現祭礼

キャプション:毎歳(としごと)七月十三日神前の舞台に置いて十二番の拍板打(ぴんさらさ)興行あり。この日同じ舞台へ、赤得水のかける番付を掲ぐる、左のごとし

。第一番 中門口。第ニ番 道行き腰筰(こしさらさ)。第三番 行き違い腰筰。第四番 背摺り腰筰。 第五番 中居り腰筰。第六番 三拍子(みつびょうし)腰筰。第七番 目礼腰筰 第八番 捻(ひね)り腰筰 第九番 中立ち腰筰 第十番 搗き腰筰 第十一番 筰流し 第十二番 子魔帰り

東京都指定天然記念物

王子神社のイチョウ

★ランドマーク王子神社のイチョウ:荒川に落ちる支流、音無川の左岸崖線の肩の部分に一番高くそびえたつ大イチョウです。幹囲は5.2m、樹幹の先端部分は欠損していますが、高さは24.2mあり、全体的にほぼ自然樹姿を保っています。王子神社の創建は元亨年間(1321-1324)といわれ、その頃に植えられたとすると600年近い樹齢と考えられます。

戦前は「太田道灌雨宿りの椎」と伝えられる巨木を始め、多くの樹木が茂り、勝海舟も修行したと伝えられますが、戦災で、この東京都指定天然記念物の大イチョウを残し、ほとんどを焼失してしまいました。

   八十三翁 大谷暁山句碑「暮際もなく 夜にうつる 桜かな」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする