ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

吉原神社(吉原弁財天)

2016年07月25日 21時40分30秒 | 社寺仏閣

リハビリ病院で受診した帰り南千住から浅草に入り、吉原神社に寄ってみました。前に一度行っていますが、吉原神社と飛び地境内地の関係などをじっくり見てきました。前回は飛び地から見ましたが今回は神社からでした。

鳥居です。

鳥居の左手に桜がありました。

逢初桜と書いてあります。

吉原神社の成り立ちなど書かれていました。

こちらの石碑は浅草出身で大正から昭和にかけて活躍した俳人・作家の久保田万太郎の句碑で「この里に おぼろ ふたたび 濃きならむ」吉原の賑わいの風景が懐かしく思われるとのことです。

お穴様で、地中の神様で神社の土地をお守りしているそうです。

★ランドマーク吉原神社吉原神社は、かつて吉原遊郭にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊郭に隣接する吉原弁財天を合祀した神社です。五つの稲荷神社とは玄徳(よしとく)稲荷社、明石(あかし)稲荷社、開運(かいうん)稲荷社、榎本(えのもと)稲荷社、九郎助(くろすけ)稲荷社の五社で、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を御祭神としています。
 また吉原弁財天の御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、吉原神社にお祀りされていると共に、現在でも本宮が大切にお祀りされていて信仰が続いています。 (神社のHPより)

こちらが吉原神社の飛び地境内地にある吉原弁財天本宮です。


関東大震災焼死者追悼記念碑 吉原観音です。

江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊廓が移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊廓街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。

 遊廓造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。
弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。」
 

吉原遊郭の歴史を永く止めようと昭和35年に地域有志の皆様によって建立された石碑のようです。碑文は共立大学教授で俳人の山路閑古氏の撰だそうです。

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