萩寺から向島百花園に向かいました。百花園は萩のトンネルが有名です。
昨年もちょうど同じころに散策しています。今回いくつか新しいことに気が付きました。
萩のトンネルの入り口に咲いている花
よく見ると名札に「とうごうぎく」と書いてあります。ルドベキアの一種ではないかと家に帰って調べたら、いろいろと書いてありました。
★ランドマーク東郷菊:英が東郷元帥に贈る
この花が、日本にやって来たのは明治四十四年(1911)二月。「英国のエドワド七世の戴(たい)冠式に出席された小松宮彰仁親王に同行した東郷平八郎元帥が、ロンドンのキュー植物園から種をプレゼントされ、日本に持ち帰った。付き合いのあった当時の向島百花園主、五代目佐原鞠塢(きくう)さんに寄贈、わが国に根をおろした。
ルドゥベキア・フルギダを学名とするこの花に、鞠塢さんは「東郷菊」と命名、由来を書いた立て札とともに、遠来の客として大事にもてなしていた。昭和十四年(1939)、東京市の公園となっても萩のトンネル近くで毎年花を咲かせ、かれんな姿が秋を彩っていた。
敗戦で一転不遇に
それが、戦後は運命が一変する。たくましい草花たちは、廃虚となった焼け跡からも新しい芽を吹き出し、人々を感動させた。地元の入たちの熱意が実り、二十四年(1949)には同園は都の公園復活第一号として復興、草花にも木礼が立てられた。しかし、東郷菊に復権の日はやって来なかった。もらった名前が災いした。
四年前(1980年)に名札復活
四年前、高さ六十㌢ほどの茎をまとめて十本伸ばした所を見つけ出された。三十五年ぶりに名札も復活、「来歴のある花だけに、大事に育てたい」という園の職員らの手で、丹精を受けた。
異国の土に根をおろし、数奇な運命をたどったこの菊から、七十数年の風雪をうかがい知ることはできない。やっと最初に植えられた萩のトンネルの近くに安住の地を与えられ、何事も無かったように、この秋もそっと種を落とすだけだ。
<昭和59年(1984)11月7日読売新聞「ショット 四季」より(抜粋)>http://www2u.biglobe.ne.jp/~bokutei/yomoyamabanasi/tougougiku.htm
この方のブログで見させていただきました。
これは昨年の写真です。
こちらは今年ものですが、萩はトンネルの中より外の方が元気に咲いています。入り口の左側にはザクロが実っていました。入り口の東郷菊のところには背の高いシオンが咲いています。昨年は気づきませんでした。
山上憶良の碑
山上憶良の「秋の七草」の碑
秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七種(くさ)の花
萩の花 尾花葛花(くずばな) なでしこの花 女郎花(をみなへし) また藤袴 朝貌(あさがほ)の花
ということで園内を見渡すと
萩の花と
女郎花と尾花(すすき)はすぐに見つかりますが撫子と葛花は見つかりませんでした。女郎花のとなりは藤袴でしょうか。
葛の花は荒川の河川敷きで見つけました。
この黄色い花はノカンゾウというもので、食用になるようです。
良い香りを漂わせている白い花はジンジャーだそうです。ジンジャーは日本語に訳すと生姜ですが食用の生姜とは違うようです。
だんぎくと書かれています。手前にさいている紫の花はカリガネソウで、シソ 科に分類される多年草の1種。ホカケソウ(帆掛草)とも呼ばれるそうです。
池と子の錦絵は関係あるのでしょうか。広重2、東都三十六景
向島花屋敷七草です。
上の若宮村のところに新花屋敷と書かれているところが今の向島百花園です隅田川沿いに出ると白髭神社があります。
吾亦紅最近覚えた歌に吾亦紅というのがありますがどんな花かと思ってました。この花のようです。
ハナノトラノオ
酔芙蓉の木。
モミジアオイ
これはピンクにならない白いフヨウでしょうか。
いつまでも咲き続ける百日紅
蓮の鉢植えがありました。
★ランドマーク向島百花園:百花園を造ったのは佐原鞠鵜で、文化元年(1804)のことでした。鞠鵜は宝暦12年(1742)仙台に生まれました。(一説に明和3年生まれ)。天明年間(1781-1788)江戸に出て、芝居茶屋に永年勤めたのち、日本橋住吉町で骨董店を開き北野屋平兵衛と改名し、諸大名に出入りして大いに繁昌しました。さらに長谷川町(中央区日本橋堀留町)に転居するとますます賑わい、茶人や文人・墨客の著名人が集まるようになりました。世才はもとより文才にもたけ、当時の文化人である加藤千蔭・村田春海・亀田鵬斎・大窪詩仏・蜀山人(太田南畝)・酒井抱一等にことのほか愛顧を受けました。
その後、故あって隠居して本所中之郷にひそみ、菊屋宇兵衛と改め、剃髪して鞠鵜と号し、寺島村の多賀屋敷跡三千坪を買い求めて百花園を開きました。この時、愛顧を受けた文人墨客に梅樹の寄付を求め、たちまち360本余りを得たといいます。そして風流第一ということで凝った囲いなどはせず、荒縄を結んで囲いとしました。そしてその伝統は守られ、今でも素朴で自然なたたずまいを残しています。
百花園という名は「梅は百花のさきがけ」という意味で、酒井抱一が命名したといわれています。そのほか臥竜梅で有名な亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷と呼ばれたり、花屋敷、七草園、鞠鵜亭などとも呼ばれました。やがて宮城野萩や筑波萩等の秋草をはじめ、しだいに草木の種類をふやし、四季花の絶えぬ庭園になりました。
こうした百花園の開園を何よりも喜んだ文人墨客たちは、何かと口実を設けて来園し、茶を喫したり談笑したりしました。そして蜀山人が「花屋敷」の扁額を掲げ、詩仏が左右の門柱に「春夏秋冬不断」「東西南北客争来」の聯をかけ、千蔭は「お茶きこしめ梅干もさむらふそ」の掛行燈を掲げる等して、百花園は江戸中にその名が知れわたり、庶民の行楽地にもなりました。なお、詩仏は「隅田川の土を以て製したる都鳥の香合云々」と角田川焼の看板を与え、園内で隅田川岸の土を使って楽焼きをし、香合のほか皿とか湯呑等素朴なものが作られました。
鞠鵜は天保2年(1831)8月に亡くなりました。辞世の歌は「隅田川 梅のもとにてわれ死なば 春咲く花の肥料ともなれ」の一首です。墓は近くの蓮花寺にあります。
この庶民の庭に、文政12年(1829)3月に11代将軍家斉が来園したことは当時としては破格のことでした。
この名園も、明治以来しばしば災難にあい荒廃に瀕しました。当時寺島村に別荘を構えた小倉石油の小倉常吉氏はこれを惜しく思い、私財を投じて園地を収め、旧景の保存に努めました。そして後々公開の意図を持って亡くなられ、未亡人がその遺志を継いで昭和13年すべてを東京市に寄贈されました。市は鋭意復旧にあたり14年公開にこぎつけました。しかし、今次の大戦ですべて焼失し、現在の姿にまでなったのは同33年頃以降のことです。たあ福禄寿の尊像だけは残り、隅田川七福神の一尊として人々から厚く信仰されています。なお、ふだんは白髭神社境内の小堂に祀られ、お正月だけ園内の福禄寿堂にお祀りします。
今回初めて気が付きました。多賀神社です。
百花園の由来が多賀屋敷跡ということで祀ってあるのでしょうか。七福神の福禄寿尊です。
右手前の花はミズヒキです。これも初めて気が付きました。
白い彼岸花
ひょうたんがぶら下がっています。
★ランドマーク隅田川七福神:文化元年(1804)向島百花園が開園してからここに集まる文人墨客たちが、園主佐原鞠鵜が、福禄寿尊を祀っているのを知り、この隅田川の東岸にも七福神がそろわないものかと考え、七福神にそれぞれ縁故をもる神社仏閣を探し出した。そして、初春七草の間に寿福を祝い、家門繁栄、家業隆盛を願う初参りの行事を創始したのが、隅田川七福神の始まりである。七福神の七という数は、陽を表す奇数であって、古くからめでたい数字とされている。七難即滅、七福即生、万性安楽という語句は七福神の語源ともいわれ、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つの神々を象徴するもので、心新たな年頭にあたって参拝し、その年の至福を祈念するならわしが七福神初詣でのいわれである(昭和45年11月3日 墨田区)
百花園には文化財があふれています。
今度は一つずつ撮ってみます。
向島百花園所蔵の文化財
- 福禄寿尊案内碑
- 松尾芭蕉の句碑(春もやや)
- 千樹庵益賀の句碑(鳥の名の)
- 亀田鵬斎「墨沱海荘記」の碑
- 雲山先生看梅詩の碑
- 茶筅塚
- 松尾芭蕉の句碑(こにやくの)
- 山上憶良の歌碑(秋の野に)
- 大窪詩仏の碑(詩仏老人碑竹記)
- 金令舎道彦の句碑(きょうの月)
- 其角堂氷機の句碑(朧夜や)
- しほふつか(忍ぶ塚)
- きやうけんつか(狂言塚)
- 飯島光峨翁之碑銘
- 井上和紫の句碑(紫の)
- 哥沢芝金之碑
- 矢田惠哉翁之碑
- 鶴久子の歌碑(空蝉の)
- 二神の碑
- 最中堂秋耳の句碑(限なき)
- 月岡芳年翁之碑
- 杉谷雪樵の碑(芦雁図)
- 螺舎秀民の句碑(芦の芽や)
- 七十二峰十湖の句碑(何事も)
- 雪中庵梅年の句碑(黄昏や)
- 北元居士の句碑(水や空)
- 宝屋月彦の句碑(うつくしき)