ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

根津神社(根津権現)江戸名所図会めぐり

2017年09月10日 23時34分54秒 | 江戸名所図会めぐり

一度行ってみたいと思っていた根津神社を散策しました。地下鉄や都バスから少し離れているので、思い切って自転車で行きました。光源寺までは8㎞程です。

光源寺から坂を下りて北口に着きましたが、境内を表門の鳥居まで歩きました。表門から見ています。突き当りのつつじが有名です。

古い神社の略記がありました。

★ランドマーク根津神社:御祭神は須佐之男命・大山咋命・誉田別命  相殿として 大国主命・菅原道真公

【由緒】日本武尊が1900年近く前に千駄木に創祀したと伝えられている古社で、文明年間(1469年-1486年)には太田道灌により社殿が造られた。万治年間(1658年-1661年)にこの地が太田氏の屋敷地となったため東方に移り、さらに団子坂上に遷座。現在の場所は、宝永2年(1705年)江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が兄綱重の子・綱豊(のちの第6代将軍・家宣)を養嗣子に定めた際、綱豊の産土神とされていたため綱豊の元の屋敷地を献納されたもの。社殿が宝永3年(1706年)に完成し、同年遷座。

 権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされていて、社殿7棟(本殿・幣殿・拝殿、唐門、西門、透塀×3、楼門、)が国の重要文化財に指定されている。

神橋と楼門です。戦災にも焼けずに残って国宝(国指定重要文化財)となっています。大人の塗り絵「江戸名所図会」より江戸名所図会に描かれたようなままに残っています。

水舎唐門

昔は国宝と言っていましたが、今は国指定の重要文化財といいいます。

唐門に続く塀は透塀というそうです。

これも国宝になっています。石燈籠(宝永3年記名)神社と一緒に納められたようです。

銀杏の木のところに東京10社めぐりの看板です。これで半数以上散策したことになります。

唐門を入ると左右に狛犬と銅灯籠があります。

西門も国指定の重要文化財です。
青銅灯篭(国指定重文)
社殿前に一対  藤堂和泉守高敏奉納こちらが拝殿です。

幣殿(重要文化財)とは拝殿と本殿の間の建物と書かれていました。

ツツジ山のところに乙女稲荷神社があります。

 

★徳川家宣胞衣塚:六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。

この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文2年(1662)4月5日ここで生まれた。

 胞衣とは、胎児(母胎の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。

この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚なあら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。

 本殿横には、明治14年に建てられた「胞衣塚碑」がある。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。

 家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。(文京区教育委員会掲示より)(文京区教育委員会掲示より)

庚申塚です。

 

★庚申塔(六基・根津神社境内):ここに六基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以後、道路拡幅などのため、根津神社に納められたものである。

 正面から左回りに刻まれた像、銘文を見ると、

①青面金剛・猿・鶏・寛文8戌申(1668)・駒込村・施主15名

②観音像・庚申供養・施主12名

③日月・青面金剛・猿・延宝8庚申(1680)願主1名

この中で、⑤の庚申塔は、寛永9年(1632)の建立で、区内の現存のものでは最も古い。都内で一番古いのは、足立区花畑にある元和5年のもので、これより9年前の建立である。青面金剛は、病魔・悪魔を払う庚申信仰の本尊として祭られる。猿は庚申の神の使いとされ、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿は、そのようなつつしみ深い生活をすれば、神の恵みを受けられるとされた。

 庚申信仰は、中国の道教から生まれ、60日ごとにめぐる庚申(かのえさつ・十干十二支の組合わせ)の夜は、人がねむると、三尸の虫がその人の体からぬけて天に昇り、天帝にその人の罪を告げて命を縮めると説かれた。これが仏教と融合してわが国に渡米し、古来の天つ神を祭るおこもりの習慣と結びついた。

 江戸時代に、特に盛んになった民間信仰で、庚申の夜は講の当番の家に集り、般若心経を唱え、和やかな話合いで一夜を過ごした。また、祭神も猿田彦神、塞の大神=道祖神であるとの説もある。(文京区教育委員会掲示より)

賽大神

《塞の大神碑》 「この塞の大神碑は、もと通称駒込の追分(向丘1-1)にあった。ここは現在の東京大学農学部前で、旧中山道と旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)との分岐点で追分といわれた。

この追分は、日本橋から一里(約四粁)で江戸時代一里塚のあった所である。今も角店は江戸時代から続く老舗の高崎屋である。この高崎屋よりに一里塚があり、榎が植えられていたが、明和3年(1766)に焼け、その跡に庚申塔がおかれたが、これも文政7年(1824)の火災で欠損した。

その跡地に、この塞の大神碑が、明治6年(1873)建てられた。同43年、道路の拡幅のため、碑は根津神社に移され、現在に至っている。礎石に移転の事情が刻まれている。

 塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で、みちのかみとも道祖神ともいわれる。

─郷土愛をはぐくむ文化財─   文京区教育委員会 昭和56年3月」

北門からの乙女稲荷の鳥居です。

右手に駒込稲荷神社

 

ここから入りました。

こちらが裏門でしょうか。

根津権現から登ったところに四季花屋敷と書かれたところがあります。その上が団子坂になっていますが錦絵に描かれています。広重 名所江戸百景
千駄木団子坂花屋敷

★文京区千駄木解説: 一帯はもともと千駄木御林おはやしと称した林地で、上野寛永寺創建の後、薪材の供給地として寄進された。千駄木の名は、一日千駄の薪を伐り出したことにちなむとされる。千駄木から谷中、上野に通じる団子坂は、坂上から佃沖が見渡せたため別名汐見坂とも言い、道沿いに団子屋が多かった。坂上には植木屋が多く、年中何らかの園芸植物が見られた。安政3(1856)年染井から菊栽培の植木屋が移り住み、菊人形で知られた。坂下には、本郷台地と上野台地の間を縫って谷戸川(藍染川)が流れていたが、関東大震災後に暗渠とされた。宇平治という植木屋が紫泉亭と称する花屋敷を開き、庭園には池を設けたという。(錦絵で楽しむ江戸名所より)

根津権現は浮世絵や錦絵などに多く描かれています。

歌川 広重 2代

江戸名勝図会   根津 より

小林清親・根津神社秋色

楼門がそのまま描かれています。

笠松紫浪・月の出根津権現

いまのままの西門ですね。

コメント (10)
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