ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

霞城公園

2013年09月04日 23時33分14秒 | 訪問地周辺

山形と秋田に訪問しました。3年前は秋田から山形のコースでしたが、今回は山形から先に訪問しました。前回は周辺を見る余裕がありませんでしたが、今回は少し早めに東京を出て向かいました。山形駅には40年前に初めて降りましたが、当時とはまったく様変わりして、山交のバスターミナルに向かおうと思いましたが迷ううほどでした。本町にある施設を確認してから、霞城公園に向かいました。途中豊烈神社というのがあったので寄ってみまあした。ここには水野元宣像がありました。この人は、幕末に山形の街を兵火による焼失から救った山形市民の大恩人と称すべき方だそうです。
神社の由緒には:文政4年(1821)遠江国浜松城主・水野忠邦公が、藩祖・水野忠元公を城内に祀ったことに始まり、朝廷より豊烈霊神の称号を賜わりました。弘化5年(1848)には、忠邦公の子忠精公が出羽国山形移封により霞ヶ城二の丸内に遷座されました。明治3年5月 忠精公の子忠弘氏が近江国朝日山移封の際、山川(茨城県)に遷座されましたが、明治13年10月 旧山形藩士達は勤請して分社を現在地に造立し氏神としました。明治41年5月、旧香澄町各所に鎮座していた八阪神社、稲荷神社を合祀し、大正2年4月には山川の本社を此処に遷座し併合しました。大正10年12月には水野藩中興の祖・水野忠邦公の霊を合祀しました。
 昭和30年10月 明治維新に際し山形市を兵火の災害から救った水野三郎右エ門元宣、また山形防衛戦で戦死した大久保伝平外22氏の霊を合祀しました。と書いてありました。
拝殿
ここから裏に抜けて奥羽本線の通っているところに着きました。霞城公園に渡るのはと考えていたら目の前に、ひっそりと古い蕎麦屋さんがありました。ちょうど12時ころだったので入ってみました。先客が10人ほどいましたが、品の良いおばあさんが注文を取りに来ました。初めてだと言ったら「芋子煮そば」を進めてくれたのでお願いしました。結構有名らしく芋子煮ほばネットでは山形名物の芋煮とそばが一緒に味わえる芋煮そば900円は、里芋・牛肉・山の幸が入った味わい深いそば。などと紹介されています。おいしくいただきました。
店に付近の地図があったのでそれを見て公園に入り口に向かいました。二の丸東大手門から入りました。中にはまたまた像が、最上義光の銅像です。公園のベンチには大きなネコさんが死んだように寝ていました。触っても起きる様子がありませんでした。
観光用に?次々と復原していますがここでは本丸一文字門の復原工事をしていました。奥にしゃれた建物がありました。済生館です。旧済生館病院本館で、1873年(明治6年)に私立病院として設立され、1878年9月に当時の県庁そばに本館が竣工しました。国の重要文化財となっています。
現在は山形市霞城公園内に移築され山形市郷土館として利用されているものです。

南大手門跡地から山形駅に方面に向かいました。



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