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ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

堅川河川敷公園から亀戸中央公園まで

2016年04月11日 19時31分13秒 | 近郊散策

リハビリで堅川河川公園を横十間川から旧中川まで自転車で通り抜けました。

★ランドマーク堅川堅川は旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河です。

竪川は1659年に起工された運河で、かつては小名木川とともに隅田川と中川を結ぶ直線航路として利用され、物資の輸送はもとより、成田山、香取、鹿島神宮への参詣路としても親しまれていました。

竪川の開削後すぐ、隅田川(大川)に近いほうから順に一之橋から六之橋まで単純に番号を振った橋が架けられました。これらの橋は通称として「一ツ目橋」「二ツ目橋」などとも呼ばれ、「三ツ目橋」「四ツ目橋」を渡る通りは後にその名を取って「三ツ目通り」「四ツ目通り」と名付けられています。なお、二之橋・五之橋を渡る通りは現在それぞれ清澄通り・明治通りとなっています。一之橋は回向院の南西に現存し、この橋を通る道路は墨田区によって「一の橋通り」と名付けられています。

今は、全区間で上空を首都高速7号小松川線に覆われています。

潮時は水深が1m近くとなり、かなり浅く、途中、大横川との交点から東は横十間川交点を除いてほぼ全区間が暗渠となっています。墨田区側は「竪川親水公園」、江東区側は「竪川河川敷公園」として整備されています。グラウンドゴルフ場、テニスコート、ゲートボール場などの施設ができています。

河川敷公園内は平たんな道路となっており、自転車に優しい通りとなっています。旧中川の河川にはタンポポがさいていました。

スギナとタンポポです。河川の道は風が強く自転車をこぐのが大変でした。途中の亀戸中央公園のところで河川から上がりました。ここで一休みして錦糸町に向かいました。。亀戸中央公園は新緑でした。

欅の新緑がなかなかでした。

ソメイヨシノも少しだけ散らずに残っていました。

八重桜が咲き始めています。

赤い石楠花もちょうど見ごろです。

ところどころに赤い皐月の花が咲いています。

途中で亀戸の公園に寄ったらここでは桜の散った花びらの中にハナズオウが咲いていました。

錦糸町ではテニス仲間のいる病院に見舞いにいきました。

面会室からの景色です。眼下は猿江公園、遠くは東陽町やら豊洲のビル街が見えます。

家に帰ったら、昔書いた本が届いていました。手元になくなってしまったので、通販で買いました。

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ベニバナトキワマンサク・ハナカイドウ・サクラ

2016年04月06日 17時19分19秒 | 近郊散策

外来でリハビリ病院に自転車で行ってきました。ようやく青空が見えて気持ちの良い日でした。桜の見ごろも今日までのように言われています。出かけに忘れ物をしたので、引き返そうとして転んでしまったり、少し時間に遅れていましたが、写真を撮らずにいられないということで、ちょっと撮りました。9時半頃でしたので人は少なかったです。

リハビリ病院では、歩行アシストを着けて外のスロープに行くと、先週までは枯れ木のようだったところにピンクの花が咲いていました。ハナカイドウだそうです。

病院からの帰りがけにも防災団地の中の公園を通りました。

昼ごろでしたが、多くの人が花見がてら昼食を食べていました。ここは東白髭公園の中です。

★ランドマーク【東白髭公園(ひがししらひげこうえん)】は、東京都墨田区堤通2丁目にある東京都立の公園で、隅田川に沿う南北に細長い公園となっています。

江東地区防災拠点の指定を受けている白髭東地区内に位置し、災害時用の各種設備が設置されています。白髭東地区には、他に私が通っている災害医療センターとしての機能を持つ東京都リハビリテーション病院があります。また、災害時に巨大な防火壁となる変形構造を持つ都営白鬚東アパート(防災団地)などの防災施設が集中的に建てられています。

公園は団地と隅田川とに囲まれていて、住宅地の大規模火災時に火の手から守られるように想定されています。
また、隅田川を挟んだ対岸には白鬚西地区市街地再開発事業によって整備された、同じく江東地区防災拠点の指定を受けている汐入公園があり、水神大橋によって繋がれています。

ようやく青空と桜のコレボが実現しました。

公園の花壇にチューリップが咲いていたので、自転車を降りて撮りました。

近くに花ももが赤白で咲いていました。

チューリップにつられて奥まで行くと

日陰を作っていたのはこの木でした。

ピンクの花が満開です。家で花の名前を調べたらベニバナトキワマンサクのようです。

公園を後にして、隅田川岸の桜並木に着きました。だいぶ散ってきました。右手に見えるのが人道橋の桜橋です。

ここを渡ると台東区浅草側に出られます。今日は渡ってみました。橋の渡り口から墨田区側です。

橋の真ん中に止まって撮りました。

上が隅田川上流です。この堤にある道を通ってきました。

台東区側上流に向かってみています。

橋の上からのスカイツリーです。

墨田区側の下流を見ています。

橋を渡って台東区側に出て浅草駅まで行きましたが、人が多くて自転車では写真を撮るチャンスがなく、あきらめて帰ってきました。

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錦糸公園の桜

2016年04月04日 21時53分17秒 | 近郊散策

 

最後の花見ではありませんが、晴れた6日も錦糸公園に行ってみました。

こちらの若木もお子さんたちが成長する頃には立派な大木になっていることでしょう。

錦糸公園の桜を見に3日と4日に自転車でリハビリを兼ねていってきました。3日の日曜日は雨が上がったの出かけてみました。

 日曜日ということもあり、雨上がりの後、すでに多くの方が楽しんいました。

桜はちょうど見ごろです。青空がないのが残念です。

★ランドマーク錦糸公園錦糸公園は1923年に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として隅田公園(台東区、墨田区)、浜町公園(中央区)と並んで計画されたものである。当地は元々は帝国陸軍の糧秣厰倉庫であったが公園として整備され、1928年7月に開園されました。

戦時中は空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用され、こと1945年の東京大空襲においては、1万余の遺体が当公園に仮埋葬されて。テニスコートの下にはお骨があるなどと言われていました。

戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池などが整備されてきました。70年代に桜がたくさん植えられました。娘や息子がちいさい頃でした。その桜も老木になり、北側には隣接してあった精工舎(SEIKO)の工場の再開発に合わせ公園も整備されました。精工舎の跡地はよりオフィスや飲食店などが入った商業施設「オリナス」として2006年にオープンしました。錦糸公園はレイアウトが変更になり体育館や野球場・テニスコート移転して整備されました。

最後にお世話になった会社の上司が、この再開発に銀行側の担当者であったことを聞かされ、人はいろいろなところでつながっていることを改めて感じたところです。

外国の方も家族で見えていました。

写真撮影を頼まれました。

3日は、まだスカイツリーは全体が見えていませんでした。後ろに見えているのは再開発されたオリナスです。左手が事務所ビル、右手が住宅棟です。住宅は億ションといわれましたが公園の桜がよく見えることでしょうね。

4日は、今週から毎日が日曜日になったので、月曜日ですが昼過ぎに買い物を兼ねて出かけてみました。こんどはスカイツリーの見える場所で写真を撮りました。さすがに月曜日は花見客は少なくなっていました。新しく整備された体育館です。

だいぶ花びらが散り始めていました。

体育館の前の通りに若い桜の木が植えてあります。体育館や公園が整備されたのにあわせて植えられました。だいぶ花がついてきました。奥の公園にある桜も息子や娘がちいさかったころはこんなような若い桜の木でした。

4月4日は私の誕生日で、娘家族女子3人で祝ってくれました。手巻き寿司とケーキです。

昨年の誕生日は脊柱管狭窄症の手術前で、最悪の誕生日となりましたが、今年も歩行やら背中の痛みで大変ですが、これ以上は悪くならないのではないということで、少しは気が楽になっています。

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谷中墓地桜・徳川慶喜の墓

2016年04月02日 15時38分39秒 | 近郊散策

友人の墓参りの帰りがけに谷中墓地に寄ってもらいました。

★ランドマーク都立谷中墓地谷中の寺町の中にあって、寛永寺や天王寺の墓地が入り組んで一団の墓域を形成し、霊園内には、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルになった天王寺五重塔の跡もあります。霊園の北側はJRの線路に接する高台となり、スカイツリーを望むことが出来ます。園内は明るく静かで、著名な画家や文学者、俳優なども眠っています。開設は明治7年で、面積は約10ヘクタール。開園は明治7年9月1日  

園路沿いにはたくさんのサクラが植えられています。特に、中央園路の桜並木は見事なものであり、墓参者の気持ちを和ませます。

ちょうど桜が満開でしたが、青空でないのが残念です。行き当たりばったりの散策なので目的の徳川慶喜の墓にたどり着くのに苦労しました。途中でこんな墓がありました。

ウイキペディアによると「高橋 お伝(たかはし おでん、本名:でん、嘉永3年(1850年) - 明治12年(1879年)1月31日)は、日本で最後に斬首刑に処せられた女囚とされる女性。仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなり、「明治の毒婦」と呼ばれた。

処刑の翌日から「仮名読新聞」「有喜世新聞」などの小新聞が一斉にお伝の記事を「仏説にいふ因果応報母が密夫の罪(「仮名読」)」、「四方の民うるほひまさる徳川(「有喜世新聞」)」といった戯作調の書き出しで掲載した。読売の自演により、口説き歌として流行した。これが後の「毒婦物」の契機となる。明治14年(1881年)4月、お伝三回忌のおりに仮名垣魯文の世話で、谷中霊園にもお伝の墓が建立された(遺骨は納められていない)。十二代目守田勘彌、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次、三遊亭圓朝、三代目三遊亭圓生らがお伝の芝居を打って当たったのでその礼として寄付し建てたという。」と書かれていました。

桜の木に珍しくカラスのつがいが止まっていました。

桜に囲まれた墓もいいですね。西行法師が「願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」意味は「死ぬときは春の桜の下で死にたいものだ。それも満月の夜に」。きさらぎは旧暦の2月。新暦のおよそ3月にあたります。望月(もちづき)はもちろん満月のこと。西行は1190年2月16日に本当に満月のもとで死んだそうですが、墓が桜に囲まれてるのもなかなかいいようです。

こんな墓があったのでこれかと思いましたが、

違いました。調べて見たら、「井上正鉄(いのうえまさかね)    寛政2年8月4日~嘉永2年2月18日(1790-1849)という幕末の国学者の墓でした。正鉄の墓は盛り土上の巨大石。正面「井上正鉄大人之墓」。父の名は、安真鉄ではなく安真鉄である。谷中霊園の中では、極めて大きな墓域にあり、「トウカミの井戸」跡がある。これは、「トウカミエミタメ」という祈りから呼ばれるようになったという。 」と書かれていました。

慶喜の墓の案内が出ていました。

大きな墓の囲いがあったのでここかと撮りました。調べてみたらこの一角は徳川家の菩提の寛永寺となっていました。

寛永寺でも慶喜はこの中ではなく少し離れたところに墓地があるようです。さらに行くと明治大学の創設者の墓がありました。

岸本辰雄(きしもとたつお)    嘉永4年11月13日~明治45年4月5日(1851-1912)

いろいろと調べている人がいるのですね。「明治大学の源流である明治法律学校を創立。幼名、辰三郎。父、鳥取藩士作事方下吟味役岸本平次郎尚義(三男)。因幡国南本寺町(島根県)出身。はじめ藩校「尚徳館」で蘭式兵法を修める。戊辰戦争で官軍に参加。 明治2年箕作麟祥塾に入門、フランス語を学ぶ。明治3年(1870)藩を代表し貢進生となり、大学南校(東京大学)に入学。明治5年(1930)8月新設の司法省「明法寮」に編入し、ボアソナードにフランス法を学ぶ。明治9年(1876)卒業と同時に選ばれて熊野敏三・宮城浩蔵らとフランスに留学、パリ法科大学で法律学士の学位を取得。明治13年(1880)帰朝後、東京大学理学部教授兼太政官御用掛。明治14年(1881)1月宮城浩蔵、矢代操(1852-1891)と共に明治法律学校を創立する。」ということだそうです。

ようやく慶喜の墓に近づきました。

門には葵の紋があります。

よくわからいけど写真を撮りました。

すると入り口にいた男性がいろいろと説明してくれました。ランドマークなので自宅で調べてみました。

★ランドマーク徳川慶喜の墓徳川慶喜(1837〜1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、慶応2(1866)年、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年大政を奉還し慶応4(1868)年正月に鳥羽伏見の戦を起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治35(1902)年には公爵を受爵しました。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2(1913)年11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3.6m、奥行4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石垣の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。
墓所内には、正室一条美賀子、女中頭(側室)一色須賀、側室中根幸、新村信と徳川慶喜家の墓があります。

その他御子孫の墓も周りにあったようですが、これ以上は写真を撮りませんでした。

途中に咲いていた石楠花真っ赤にさいていました。

1本単独に植えてある桜もなかなかでした。

墓地の中は二本杖で歩き、3200歩ほどになり、ちょうど良いリハビリなりました。

車に載せていただいたおかげて、墓参りと墓地散策ができました。ありがとうございました。

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木場公園河津桜

2016年03月05日 16時12分40秒 | 近郊散策

リハビリ病院から二泊三日で一時帰宅しています。土曜日の午前中、明日からシンガポールに修学旅行という孫娘と自転車で木場公園まで散策してきました。木場公園横の大横川の岸に河津桜が植えてあります。昨年は一人で散策しています。

こちらは色の濃いもので、

本来の河津桜はこちら、少し散りかけています。調べた情報によると1月には咲き始めていたようです。

写真を撮ったり子どもたちも遊んでいました。

★ランドマーク木場公園河津桜:河津桜は大島桜と寒緋桜の自然交種であると推定されています。原木は昭和30年頃、静岡県賀茂郡河津町で発見され、昭和41年にはじめて花をつけました。その後、昭和50年4月に河津町の木に指定されました。
ここに植えられている河津桜は、平野一丁目にお住いの藤原晃さんからのご好意によって、ご寄附いただいた桜の木だそうです。

木場公園の中にも早桜があります。

こちらはオオヒガンサクラに大島桜です。鳥が盛んに花の蜜を食べていました。

脇に植物園がありました。

★ランドマーク木場公園都市緑化植物園

ガーデニング広場、庭をつくろう広場(洋風・和風)、帰化植物見本園などのコーナーに分かれ、ボランティア「木場公園友の会」によって美しく維持・管理されています。友の会はこの活動で平成17年度の「みどりの愛護」国土交通大臣表彰を受賞しました。

中に入ると菜の花や

 

水仙

やスミレ

こちらに小さい花は「いぬふぐり」

スズランのようなものも咲いていました。

この花はなんでしょうか。

往復で9km弱のツーリングでした。歩く歩数も3000歩を超えたのでまずまずのリハビリでした。

少し疲れたようで、昼食後はたっぷりと昼寝をむさぼっていました。

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