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【小倉百人一首】54:儀同三司母

2014年07月10日 19時34分16秒 | 小倉百人一首
儀同三司母

忘れじの 行末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな

この時代の女性には珍しく本名がわかっている。高階貴子である。
摂政・藤原兼家の後継者である道隆に嫁ぎ、三男四女を生む。


   貴子┏伊周
   ||━╋隆家
兼家┳道隆┗定子
  ┃   ||━敦康親王
  ┣道兼 一条┏━━━後朱雀(後一条の弟)
  ┃   ||━┻後一条 ||
  ┗道長┳彰子 ||   ||━後冷泉
     ┣━━━威子  ||
     ┗━━━━━━嬉子

夫の道隆は摂政・関白を父から継ぎ、娘の定子は一条(66代)の中宮となり権力は絶頂に達する。ちなみに中宮というのは皇后とほぼ意味は同じだが、定義はあいまいであった。そこで道隆は定子が一条天皇の「女御」よりも格上にするために皇后と中宮を分離させて、定子を中宮にした。後に道長が彰子を一条に入内させる際にも、今度は定子を皇后にして、彰子を中宮にすべりこませている。
道隆の死後に藤氏長者となった道兼は数日で死去、そして貴子の息子の伊周・隆家は叔父にあたる道長との権力闘争に敗れた上に花山法皇に矢を射掛ける事件を起こしたために左遷となり、この家は没落していくことになる。定子は兄たちが起こしたこの事件を期に内裏をでて出家するが、一条の意向で内裏に戻される。
さて、伊周の方は復位を許されたものの左大臣・右大臣・内大臣はすでに先任者がいたため、「内大臣の下、大納言の上」という中途半端な位置づけとされたが、この立場を中国後漢王朝の故事になぞらえて「儀、三司に同じくす」と表現して儀同三司と自称した。

高階氏は定子が一条の中宮になったのを機に朝臣の姓を授けられる。その後高階氏の血統からは平清盛の妻(重盛、基盛の母)がでており、南北朝時代には足利尊氏の執事として権勢をふるい楠木正成を湊川で破った高師直、師泰兄弟がいる。
また、貴子の息子・隆家の子孫からは平清盛の継母であり、平治の乱で平氏にとらわれた頼朝の助命を清盛にねだった池禅尼がいる。

【小倉百人一首】53:右大将道綱母

2014年07月10日 18時09分56秒 | 小倉百人一首
右大将道綱母

嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る

『蜻蛉日記』の作者で、この歌もそこからとられている。
人臣初の摂政となった藤原良房の兄・長良の孫である倫寧の娘。関白・藤原兼家に嫁ぎ、その名の通り道綱を生んだ。
また、本朝三美人の一人とも言われている。また、義姉は清少納言の姉である。さらに妹は菅原孝標に嫁ぎ、生んだ娘が『更科日記』の作者である。
弟の長能・息子の道綱とともに中古三十六歌仙に選ばれている。


 清原深養父━春光━元輔┳清少納言
            ┗娘(清少納言の姉)
             ||  菅原孝標
            ┏理能 ||━孝標娘(更科日記作者)
            ┣━━━娘
┏長良━惟岳━倫寧━━━┻道綱母
┃             ||━道綱
┗良房━基経━忠平━師輔━兼家━道長


『蜻蛉日記』は19歳の頃から38歳までの約20年間もの間をつづった女流日記文学のさきがけ的なもので、主に家庭内の様々な出来事や旅先の見聞などが書かれている。なぜ38歳でとまったかは不明。ちなみに『更科日記』の方は作者が13歳の頃から晩年まで40年間をつづっている。
息子の道綱の方は政治家としての才能はなかったようで、同時代人で道長の批判者でもあった藤原実資から「自分の名前に使われる漢字以外読めない」とばかにされている。そのくせ家柄はいいから大納言筆頭の地位にあり、左大臣だった藤原顕光(この人も無能で有名だが)が辞職するという噂がたったとき必死に顕官運動をし、1ヶ月限定でいいから大臣をやらせてくれと道長らにせがんだが、顕光の辞職自体がただの噂だったため、空騒ぎに終わった。

【小倉百人一首】52:藤原道信朝臣

2014年07月10日 01時17分35秒 | 小倉百人一首
藤原道信朝臣

明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな

3人連続で藤原氏。
この道信の父為光は太政大臣。為光は師輔の九男となる。


  ┏実頼━頼忠
忠平╋師輔┳伊尹┳義懐
  ┗師尹┣兼通┗娘
     ┣兼家 ||━道信 
     ┗━━━為光

和歌の名人として名をはせており、藤原氏には珍しく奥ゆかしい性格といわれた。
父の為光は兄である伊尹や兼通からかわいがられ順調に出世するが、兼通没後に兼家が権力を握ると政敵のような間柄になり、結局は兼家の下風に立つことになる。為光の次の太政大臣が藤原道長である。

【小倉百人一首】51:藤原実方朝臣

2014年07月10日 00時43分41秒 | 小倉百人一首
藤原実方朝臣

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな 燃ゆる思ひを

藤原忠平のひ孫にあたる。

  ┏実頼━頼忠
忠平╋師輔━伊尹
  ┗師尹┳定時━実方
     ┗済時

 ※実父は藤原定時だが済時の養子となっている

百人一首の中でも屈指の技巧を極めた歌。
「言ふ」と「伊吹」、「思ひ」と「火」という二組の掛詞は叙情・情景の両方の意味を持たせ、さらに「さしも(そうとも)」と「さしも草(モグサ)」の掛詞にそれぞれつながっている。さらに「さしも草」「燃ゆる」「火」と縁語を重ねている。

有名なエピソードとして、前回の藤原義孝の息子であり三蹟の一人である藤原行成に自分の歌がけなされたため、一条天皇の目の前で言い争いをして行成の冠を投げ捨てて一条の怒りを買い「歌枕を見てまいれ」といわれて陸奥に飛ばされたというのがある。

ちなみにこれまでにも何人か朝臣という呼称がつく人物がでてきたが、この朝臣は姓(かばね)という。由来は天武天皇の時代までさかのぼる。684年に八色の姓というものが制定された。これは簡単にいえば爵位みたいなもので、皇室に対して功績のあった氏族に対して下賜された。ちなみに上から順に真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)。臣と連はそれより前から存在していて、最高位に位置していたがこの制定で下位に位置づけられた。
真人は皇室の人間に与えられたので人臣の最高位は朝臣ということになる。ただ、奈良時代以降連発されたため、爵位の意味はあまりなさなかったという。

ついでに書くと、明治以前は出身氏族をあらわすのが氏、氏の中で特定の血統をあらわすのが家または苗字。そして下の名前が諱。
例えば徳川家康の場合は氏が源(といっても自称だが)、家が徳川、諱が家康となる。家はたいてい住居としている土地名や、領地名からとられており領主の証という役割もあった。藤原は氏なので厳密に呼称するなら藤原家ではなく藤原氏となる。

氏は基本的に天皇から下賜されるので勝手に名乗ることはできず、豊臣秀吉の場合も関白になるために近衛前久の猶子となって近衛が家(苗字)となった後、天皇から豊臣という氏を下賜されたので豊臣”氏”となる。ただ豊臣の語源についてはわかっていない。