BLOG in Atelier.Minami

ゲーム攻略、読書感想文など。

【小倉百人一首】50:藤原義孝

2014年07月07日 01時28分46秒 | 小倉百人一首
藤原義孝

君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

藤原伊尹の息子。実は21歳で天然痘のために死んでおり、当然詠んだ歌は少ないはずなのだが百人一首にとられているあたり早熟だったのだろう。美男としても知られる。
当時天然痘がはやったらしく、兄の挙賢も同じ病で同日に死んだ。

ただ、息子はおり、それが三蹟の一人の藤原行成である。祖父である伊尹の猶子(相続権を持たない養子)となったが、伊尹が死去し、ついで父が早世したため、若い頃は不遇をかこつ。
が、後に能吏として知られる源俊賢の推挙により蔵人頭に抜擢され、その勤務態度も評価されたのか時の権力者である藤原道長からも信任を得る。偶然にも死去したのは道長と同日であった。

【小倉百人一首】49:大中臣能宣

2014年07月07日 01時18分31秒 | 小倉百人一首
大中臣能宣

みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ 物をこそ思へ

三十六歌仙の一人で、清原元輔と同じく「梨壺の五人」の一人として、『後撰和歌集』の撰集にあたった。父の頼基も三十六歌仙に入っている。
歌人として非常に高名であったが、百人一首にとられたこの歌に限ってなぜか本人作ではないというのが定説。


【小倉百人一首】48:源重之

2014年07月07日 01時12分45秒 | 小倉百人一首
源重之

風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな

清和天皇の子孫にあたる。三十六歌仙の一人。
祖である清和天皇自身が若くして陽成に譲位し、さらに陽成もそれほど長くは在位についておらず、その次の光孝はやや遠い親戚筋にあたるため、清和源氏の人たちが出仕するころには天皇との等身はかなり離れていた。
そのため賜姓源氏の中でも清和源氏はかなり不遇な状態からスタートしたといえる。
清和源氏といえば源頼朝をはじめとする武家源氏が頭に浮かぶが、公家として残った清和源氏もおり、この重之もその一人。
叔父にあたる参議・源兼忠の養子となっている。地方官を歴任し、陸奥で没した。歌集『重之集』を残した。