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【小倉百人一首】45:謙徳公

2014年07月03日 22時09分45秒 | 小倉百人一首
謙徳公

哀れとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな

本名は藤原伊尹。藤原忠平の孫。
以前にも書いたとおり、藤原氏は奈良時代から平安前期にわたり他氏の排斥を積極的に行い、基経(忠平の父)の代にいたって摂政・関白を独占する体制を築いたが、皮肉なことに今度は藤原氏内部で権力争いが起こる。

まず、949年に忠平が死去すると、これまでおいていた関白は空位とし、太政大臣もおかず、臣下の最高位としては忠平の後に藤氏長者となった長男の実頼が左大臣、弟の師輔が右大臣となって朝政にあたる。ちなみにこの時代の治世を「天暦の治」と呼び、天皇親政の理想系として後世称えられる。


  ┏実頼━頼忠 ┏義懐   
忠平╋師輔┳伊尹━┻懐子  
  ┗師尹┣兼通  ||
     ┣兼家  ||┳花山
     ┗安子  ||┗三条 
      ||━━┳冷泉
宇多━醍醐┳村上 ┣為平親王
     ┗源高明┣円融━一条
         ┗具平親王━源師房(村上源氏)


実頼、師輔兄弟はそれぞれ自分の娘を村上に入内させており、寵を競ったのだが結局男子を産んだのは師輔の娘・安子の方だったため、兄弟のパワーバランスが崩れる。ちなみに安子は非常に嫉妬深く、様々なエピソードが残っている。
967年に村上が崩御すると、後継の冷泉が病弱だったこともあり関白職を復活させて実頼がその任にあたる(師輔は960年に死去)。
が、実際の政治の実権は伊尹が握っていたようであり、実頼は日記で自分が軽んじられていることを愚痴っている。
970年に実頼が死去すると伊尹が藤氏長者、そして摂政となり、位人臣を極める。

ちなみに冷泉は上で書いたとおり病弱(狂気の気があったらしくたびたびおかしな行動をした)だったため、即位後すぐに跡継ぎが弟の中から選ばれることになったのだが、為平親王をさしおいて9歳の守平親王(後の円融)が皇太弟として立てられる。これは為平親王が左大臣・源高明の娘を妻に迎えており、即位してしまうと源高明が外戚となってしまうことを警戒したため。
それだけではない。969年には安和の変という政変によって源高明を謀反の罪で誣告させて大宰府に左遷してしまう(伊尹が首謀者という証拠はなく、師尹首謀者説も有力だが)。
実際に誣告した源満仲はこれを機に出世、後にはその子孫から河内源氏や摂津源氏が生まれている。そうすると武家源氏の誕生は藤原氏に原因があったといえなくはない。

伊尹は娘を冷泉に入内させ、二人の天皇が生まれているのでこのまま伊尹の家系が栄えていくかというとそうもいかない。
伊尹の死後、弟の兼通が藤氏長者、そして関白となる。兼通と弟の兼家は非常に仲が悪かったらしく、兼通の病状がいよいよ悪化した際、執念で内裏に行って兼家の官位を下げさせ、さらに次代の藤氏長者を従兄弟の頼忠に指名するという徹底振りである。
そのまま兼家は沈むかと思いきや、兼通の死後、実直な頼忠の引き立てで右大臣になる。さらに兼家が円融に入内させた娘は男子(後の一条)を生む。
が、その娘が円融の中宮に立てられず、頼忠の娘が中宮に冊立されたため、円融が退位する寸前まですねて引きこもってしまう。

984年、円融は天皇位を伊尹の孫にあたる花山に譲る。そうすると藤氏長者は頼忠ではあるが天皇との血縁は薄く、実権は花山の叔父にあたる中納言・義懐が握る。
このあたり現代人にはわかりづらいが、当時は通い婚が当たり前で、家の娘のところに男が婿入りするような形をとり、生んだ子供はその娘の両親が責任を持って育てるのが風習であった。つまり貴族の子供はすべからく母親およびその両親(祖父母がいない場合は母親の兄弟)に結婚するまで育てられるので外戚の影響力ははかりしれないのである。
ちなみに次代の天皇は円融の意思により、円融と兼家の娘との間に生まれた皇子(後の一条)と決められていたので、花山が退位するまで待てばいいのだが、ここで兼家は前代未聞の方法で花山をわずか在位2年で退位に追い込む。
なんと、花山が寵愛していた女御が急死し、非常に落ち込んで出家までほのめかす花山を、兼家は次男の道兼を使って「一緒に出家しましょう」と真夜中に寺に誘い、出家させたのだ。その時邪魔が入らないように内裏から寺まで警護したのも源満仲の郎党たちである。ちなみに一緒に出家するといった道兼は、花山が出家したのを見届けた後、「最後に実家に挨拶してくる」といって引き返し、出家はもちろんしなかった。
夜中に天皇が行方不明になったと関白・頼忠や、義懐は大騒ぎをし、気づいたときには(頼忠に出家を告げにいったのは道長)花山が出家してしまっていたので頼忠も義懐も権力を失う。

こうして伊尹の家系は権力を保持する事に失敗し、摂関家は兼家の家系のみに独占された。

思いっきり脱線になるが、藤原氏に藤氏長者があるのと同様に源氏にも源氏長者というのがある。これは上の系図でいう源師房の子孫、すなわち村上源氏の流れの中で最高の家格を誇る久我家が鎌倉時代以降独占するが、室町時代に入り足利義満が奪い取り、以降の源氏長者は久我家だったり足利家だったりするのだが、最終的には徳川将軍家の独占となった。
脱線ついでにもうひとつ書くと、伊尹の末弟の公季(上の系図では省略している)からは阿野家が派生し、後醍醐天皇の寵姫として有名な阿野廉子がでている。