ラヂオアクティヴィティ[Ra.] 第二部・国境なき恐怖 166それは人々の生活にふりかかってきた…… レポーターの顔が画面に映っている。 「原発の職員たちは、このことを極秘にすることを強制されました。それは、家族にさえ話してはならないという命令だったのです。自分の子どもが外で遊んでいても、注意することさえできなかったのです」 学校の写真が画面にうつる。楽しそうな子どもたち。 「学校では、とても良い天気で、窓という窓をすべて開け放っていたが、十時前後には閉めてしまった。生徒にヨード剤が配られ、それを飲んだ子が吐きもどす騒ぎもありました。ある女の子は、父親が発電所で死んだと友だちから知らされて泣きだしました」 暗い病室が映っている。そして中年女性が話し出す。 「ある母親は、いまでも最も許せないと思うのは、事故のあった二十六日朝、プリピャチ市の指導者が、事故はありませんでしたと、子供たちを登校させて授業を続けさせたことですと話した。教師の一人が、事故の影響を心配して、子供たちにマスクをつけさせようとしたら、学校長がこれをやめさせたともいう話しもあります」 街の風景。 「若い母親が赤ん坊を乳母車に乗せ、小さな子どもが砂場で遊んでいた。アリョーナが自分のアパートの角までくると、バルコニーで洗濯物を干している母親の姿が見えました」 結婚式の写真。 「その日の午後おそく、ベン博士はまた川向こうをながめ、橋の近くのカフェに視線を落としました。若い花嫁花婿が家族や友人にかこまれてすわり、結婚祝いをしていました。ベンは病院を抜けだして、川を渡ってカフェに行き、放射線を被曝しないように警告した。若い二人は微笑んだ。そして、澄みきった青空、あたたかな太陽、ゆるやかな流れる川を見ました。ベンは「危険ですよ」とくりかえしてから、駆け足で病院にもどりました。病棟の二階の窓からもういちど見おろすと、まだ結婚祝いの宴会が続いていて、みんなは歓声をあげながら幸せなカップルに乾杯していたという」 画面にバスが何台も農村を走っている。もうフィルムは古い感じだ。 「プリピャチ市民の避難のために、千二百台のバスが必要ということになった。そのほか、二百台のトラックと救急車も必要でした。避難の広報がラジオであったのは十二時、その時、委員が人々に忠告したのは、この退避は三日間だけで、よぶんな荷物はもたなくていい、三日間の食べ物と身のまわりのものだけでよろしい、ということでした。この布告は四回出されました。しかし、そこは人の住むところではなくなっていたのです」 非難勧告され、あわてている様子をテレビ画面では映し出している。 「避難の遅れが、決定的な痕跡を子どもたちの体に残すことになったのです。なんと、市内の放射線量が最悪状態の時に、避難が決行されることになったのです。前日の四月二十六日早朝、プリピャチ市上空を放射能の雲が通過していったのです。この放射能はあまりにも強烈で、ほとんど測定不可能だったと、Z・メドベジェーフは述べます。ソ連の報告書では午前九時の市内の放射線量は、高いところでは毎時百四十ミリレントゲンでした。しかし、この値でさえ実に東京の一万四千倍なのです。この線量だと、まだ緊急避難は必要ないというのが、医療部会の意見でした。しかし実際には、避難命令を出すべきはこの時点でした。風はひんぱんに向きと強さをかえ、プリピャチ市の放射線量は急激に増加し始めました。そして避難が開始された四月二十七日の午前七時には、放射線量は百八十から六百ミリレンドケンとなり、午後二時には放射線量は最高値を示し、毎時一レントゲンを超えたのです」 放射能を測定しているだけでは、避難はうまくできないのである。予測をたてることも重要なことだと視聴者は思った。 「こうして避難は「放射線エアロゾルが市内をおおっているという最悪の条件下で実施されたのです。だれもが放射性の『ホット・パーティクル(放射線核種)』が浸透している空気を、いやというほど吸わされるという結果になったのです。かりにその朝早く避難が実施されていたならば、市民の健康障害がはるかに軽度ですんだであろうことは明らかです。とくにリスクが高かったのは、子どもと妊産婦だったといいます」 画面には、子どもや妊婦が、足取りも重く避難している様子。 「そして、避難させられた先というのは、プリピャチ市に比べて汚染が低いというわけでもないところでした。バスの中にいても、すき間だらけで道も悪かったため、避難先に着くまでにたくさんのほこりを全身にあびてしまいました。人々が避難先に落ち着いたのは、二十八日の午前二時ぐらいだったと聞きます」 画面では、埃が日の光でただよっている。そして、疲労困ぱいした人物が映る。 「バスで逃げた人たちは、どうだったのでしょう。かなりの人間の腕や足、全身に現われはじめた紫色の斑点に恐怖を覚えはじめました。血液が体内で破壊され、皮膚にそのおそろしい症状が映し出されたのです。髪が抜け、体のあちこちに異常な出血を起こしていたのです。ある男性は耳に、ある女性は歯茎に、ある子どもは全身に、不気味な出血が見られました。なかでも内臓の出血が最も顕著で、これが彼らの衣服を汚していたのです。それを我慢し続け、誰もが他人に気づかれないように必死で隠していたのです。ほとんどの者が、同じように肌を刺す痛みにこらえ、目がまわるような吐き気に襲われていたのです。乗るバスは年齢によって選別され、バスは途中でとまると、様態の悪いものと、そうでないものとに選別されました。様態の深刻な子どもたちでさえ、親から離されていたのです」
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