CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

き、き、きたー! クイーンのボックス・セット

2015年09月30日 | Queen

助手:博士に報告しなければならないことがあったのですが、ちょっと言いそびれてしまって。申し訳ありません。

博士:何と! また何か仕出かしてしまったのかな? ビニール傘を何処かに置き忘れてきたとか?

助手:いや~、その手の話ではなくて、実は先週通販サイトを見ていて、クイーンのレコードのボックス・セットなるものが、近日発売となっているのをみて、つい衝動的に購入ボタンを押してしまったのですよ。発売前なので、出荷されていなければいつでもキャンセル出来るという余裕も若干あってちょっと油断していたら、何と在庫があって出荷したとの連絡が届いたのです。

博士:えー! もしかして、そのボックス・セットって結構値が張るこれの事かのう?

助手:そうです。先ほど到着しました。

博士:えー! これを買ってしまうと、今年の新譜購入計画は今日で終了となるし、当分の間、節約のため食事はおかず無しのふりかけご飯となるのう… 

わしも一・クイーン・ファンとしてこのボックス・セットに興味はあったのじゃが、値段がのう… まあ、買ってしまったものは仕方がない、取り敢えず開封の儀といこうではないか。 

嬉しいような、悲しいような…

配送用のダブルカートンの中に、緩衝材で固定。


ビートルズのLPボックスと同じタイプのボックス


外のカバーを抜き取ると、金色のボックスが登場


ふたを開けると、15枚のLPと1冊のハード・カバーの本が収納されている。QUEEN II、INNUENDOとMADE IN HEAVENは各2枚組に編集されている。

博士:わしが一番見てみたかったのは、QUEEN IIの2枚組バージョンじゃ。

コーティング紙製のジャケットのため、反射して撮影者の影も写るという間抜けな写真

旧サイド-1は、今回の発売とではホワイト・サイドとして、1枚の白色のLPとしてカットされている。サイド-1は楽曲がカットされていて、裏面はブランクとなっていて、英王室調の例のロゴがエッチングされている。旧サイド-2は黒色のLPに同様のアレンジがなされている。


レコードを収納する、歌詞付きのインナージャケットも各一枚づつ付いている。

博士:なるほど、数年前に購入した米盤ハリウッド・レーベルのやつよりもジャケットの写真も鮮明でよく出来ておる。QUEEN IIを検品した限りでは、重量盤のLPには反りは見られないようじゃ。ビートルズのモノ・ボックスと同じように、レコードはシュリンク・パックされてなく、開閉可能な薄いビニール袋に各々入っているので、後で点検してみよう。

しかし厄介なのは、カラー・レコードの場合、もし盤に傷があってもなかなか目視ではそう簡単に発見出来ないからのう。一度全アルバムを聴いてみないとわからんのう。


やれやれ、いつの事になるのやら…

世の中に数多くいるレコードやCD収取家の方から見れば、私などは末席にも加わる事の出来ない存在である。 だから自身として高額に感じる商品を無理して買って、いざそれが届くと“やっちまったー”感が出てくる。

新譜紹介のサイトや通販のサイトを眺めて、いくら購入意欲が湧いてきても、一旦冷静になるべきだと思う。昔であれば、限定盤購入の場合、遠方の大きなレコードショップに電車で出かけるという手間があるため、果たしてそこまでして買うべきモノなのかというブレーキがかかるのだが。

恐るべし通販のクリック…

そして、悲しみのふりかけご飯おかず無し…


番外のアルバム DYLAN

2015年09月28日 | Bob Dylan, Byrds, Band and etc.

1962年のデビュー・アルバム、BOB DYLAN発売からずっとコロンビア・レコードに所属していたボブ・ディランが、1973年にアセイラム・レコードに移籍することになった。コロンビア・レコードはその報復として過去二作のアルバム、SELF PORTRAITとNEW MORNING、の制作時のアウト・テークをかき集めて一枚のレコードにまとめ、アルバム・タイトルをDYLANとして1973年に発売した。

アウト・テーク、即ちなんらかの理由でオリジナル・アルバムに収録される選からもれた曲、の寄せ集めであるため、当然批評家からの評価は芳しくはなかった。また、このレコードには9曲が収録され、その中に自作曲はなく全曲が作者不詳のトラッドか他者の作品で、ディランのセールス・ポイントであるシンガー・ソング・ライターを売りにすることが出来ない代物でもあった。

それにもかかわらず、全米チャート17位でゴールド・レコードとなったのは、ディランというビッグネームのお陰で、アウト・テーク集であってもある程度は売れるという計算だったのであろう。

しかし、アルバムを通して聴いてみると、個性のあるディランの歌唱が、他人の曲をあたかも彼の自作曲のように聴かせるのである。

特に、プレスリーがかって歌った、CAN’T HELP FALLING IN LOVEやジェリー・ジェフ・ウォーカーの作品、MR. BOJANGLESなどはピッタリとはまっている。ジョニ・ミッチェル作のBIG YELLOW TAXIなどはどうなるのかと思ったのではあるが、かなり力の抜けた歌い方で、アウト・テークとはいえ、SELF PORTRAITのアルバムの雰囲気に良く似ていて、そのアルバムに含まれていてもおかしくない出来の様に思えた。

90年代からディランのブートレッグの音源がシリーズ化され数多くの未発表曲がCD化されたのだが、このアルバムの音源はそれらには含まれなかった。

また、このアルバムのレコードは世界各国で少量ではあるが再発され、廃盤になった後の90年代初めに、オフィシャルでは日本で一度CD化されたのみで、それもすぐに廃盤となった。 (iTuneでは配信されていたようだが、やっぱりジャケがないと所有感は満たせない)

というわけで、少し前までならば、このレコードは結構希少価値があったのではあるが、一昨年のディランのボックス・セットにこのアルバムが復刻され、また昨年には、日本でも独自に紙ジャケで復刻され、マニア以外でも音源が入手出来る様になった。

他人の曲は、ディランの自作曲よりはメロディーがしっかりしているし、字余りの歌詞もないので結構聴き易いかも?


ディランとビートルズとHELP

2015年09月27日 | BEATLES-BADFINGER関連
ボブ・ディランと言えば、ビートルズのメンバーとの個人的な繋がりといえは、ビートルズ解散後のジョージとの関係が一番強いです。ALL THINGS MUST PASSでディランの曲を2曲も歌ったり、ジョージが主催したバングラデシュのコンサートへのディランの参加、トラベリング・ウィルベーリーでの両者の活動や、ディラン30周年のコンサートに於けるジョージが参加などなど。

しかし、ビートルズ時代となると、ジョージのように個人的な深い付き合いはなかったと思いますが、ジョンが一番ディランの影響を受けたとなっている。

I’M LOSER、HELPやYOU’VE GOT TO HIDE YOUR LOVE AWAYなど、それまでのラブ・ソングとは異なる、心の内面を映し出したような歌詞作りがなされています。また、I’M LOSERでは、ディランのようにハーモニカをホルダーに取り付けフォーク・シンガーのようにギターとハーモニカを同時に演奏している映像なんかも見られ、またYOU’VE GOT TO HIDE YOUR LOVE AWAYなんかは、曲調もアコースチック・ギター中心のフォークよりの曲となっている。

しかし、個人的にここで一番気になる曲といえば、やっぱりHELP!。

誰かの心の叫びを歌っているのだが、これをアップ・テンポで歌いさらに掛け合いのコーラスも絡ませ厚みを出し、ヒット狙いのポップ・サウンドにアレンジされた。これでは、歌詞のシリアスな内容が薄められることになり、特に我々日本人は、曲のメロディーやビートばかりにに関心が行き、楽しそうな歌に聴こえてしまのです。

当時、スロー・テンポなジョンのピアノ弾き語りのアレンジでのデモ録音もあった言われているし、かなり後にジョンが異なるアレンジで再録をするような話もあったとか。

やっぱり、この曲の歌詞の内容とアレンジのポップさについては色々な考えがあったわけで、異なったアレンジのHELPを聴けば印象がどのように変わるのか、ちょっとカバー曲で確かめてみると。

ラテン系の歌手ホセフェリシアーノの場合
テンポはやや少しビートルズ・バージョンより遅いが、少しヘビーなバッキングサウンドが感じられ、またボーカールを強調するためか、コーラスは省かれその代わりにホーンのサウンドを挿入している。
ハイトーンの声質から、少し憂みたいな物は感じられるが、当時のポップソングに使われるようなホーンサウンドのアレンジによって明るさも感じる。
Jose Feliciano - Help!


ディープパープルの場合
彼らのファースト・アルバムにHELPが収録され、スロー・テンポで歌われている。ジョン・ロードのキーボードの伴奏に導かれて淡々と曲が進行し、後半の演奏部分ではプログレを思わせるキーボードの演奏と、リッチーのブルースっぽいソロも聴かれる。何か歌詞に書かれている内容とは違う世界のサウンド?
Deep Purple - Help!


カーペンタースの場合
セカンド・アルバムで取り上げており、スロー・テンポのアレンジで、カーペンターズお馴染みのコーラスとリチャードのキーボードが曲に厚みをもたらし荘厳な印象を受ける。
果たして、魂の叫びであるHELPは、リスナーに届くのであろうか?
The Carpenters - Help!


ティナ・ターナーの場合
80年代にカーバーしたが、オリジナルのメロディーを崩してソウル・タッチで歌い上げる、個性の強いアレンジとなっている。
歌の上手い個性的な歌手のみに許された特権で、無名の歌手ではどうしてもオリジナルに近いアレンジとなる。
Tina Turner - Help!


ジョンは果たしてどのように、HELPを再録したかったのか? 案外ディランのように、アコースティック・ギターにハーモニカのセットでシンプルに歌いたかったのでは?


ホワイト・アルバム画像について(改)

2015年09月27日 | BEATLES-BADFINGER関連
どのブログにもアクセス解析なる機能が付いていて、当ブログにもあります。その機能の一つとして“検索キーワード”なる項目がありまして、どのキーワードで当ブログを検索されたかがわかります。

そこに、“ホワイト・アルバム画像”なるキーワードがアクセス解析に記録されていました。

“ホワイト・アルバム画像”といってもジャケは真っ白で、エンボス加工で記載されたバンド・ネームも、写真では判別出来無い地味な代物であります。


今や、“ホワイト・アルバム”もしくは“その画像”というキーワードでネット検索すると、 PC・ゲームもしくはそれに関連したアニメがトップに出てくるようです。

ホワイト・アルバムという言葉自体が何の変哲も無い普通の言葉なのと、発売されて50年近くになるレコード・アルバムですから、時代と共にホワイト・アルバムというイメージされる対象が変わってくる事は仕方の無い事ではありますが、BEATLESのWHITE ALBUMの一ファンとしては、少し残念な気持ちにはなります。

反対に、PC・ゲームもしくは関連アニメを検索しようとして、間違って当ブログがヒットされる事に成ると、何これ!となるのでしょうね。


おまけのポートレイトとコラージュされたポスター(裏は歌詞が記載)

そういえば、我が家には、もう一枚のホワイトアルバムが~
ホワイトアルバムと思って手に取れば、なんとサンタナのウェルカムというアルバム!


で、初回盤はアルバム・タイトルのWELCOMEの文字が、真っ白いジャケットの上にエンボス加工されていて、角度によっては非常に見難いものでした。
再発盤で、WELCOMEの文字が金色に着色されました。

ゆったりと時は流れて、LIVE AT BILL GRAHAM’S FILLMORE WEST

2015年09月25日 | AMERICAN ROCK/POPS
今日iPhone のニューモデル、6s/6s Plusが発売されたのことだが、よく毎年毎年、新商品を世界規模で出し続ける事が出来るなと感心する。

現在の世界でのシェアとなると、韓国サムスンにアップルのアイフォーンが追いかける形で、そしてその後を中国のメーカーが追走している構図となる。日本の携帯電話メーカーのように、小さい日本のマーケットだけで勝負するとなると、そのうち資本力のある世界的な大企業に駆逐される事になる。

90年代の携帯電話と言えば、ノキア、モトローラそしてエリクソンの御三家が主流であった、当時世界一のシェアを誇ったノキアは、マイクロソフトの子会社に成り下がり事業を続けているがどうも旗色がわるい、モトローラもスマホを今でも作っているみたいだが、最近ではほとんど見かけなくなった。そしてエリクソンは一時ソニーとの合弁を作ったが、現在は携帯電話製造の分野から撤退と様変わりである。しかし、携帯電話の黎明期であった当時は、その三社以外にも多くのメーカーが参入し、色々な個性的なデザインがあり、機種を選ぶのも楽しかったのだが、昨今のスマホはどのメーカーも大きなディスプレーを配置するためのっぺりとした板状のものとなり、どのメーカーもほぼ同じようなデザインとなってしまい残念ではある。

何故、たかだか20年の間にそのような状況に陥ったのかというと、スマホの開発に乗り遅れたからである。電子機器などの製造業は常に最先端の技術を有し、さらにその技術革新を連続させていくため多大な投資が必要で、たとえ世界一の企業でも経営判断を誤れば、一瞬のうちに消滅という危機に面する大変な時代である。それらの仕事に携わっている方々は時間に追われて毎日がさぞ大変であろうと想像する。

その点音楽の世界では、クラッシックだけでなく、 50年-60年代の古めかしいジャズ、ブルースそしてロックであっても魂のこもった演奏であれば現在でも充分通用するのである。反対に、当時の演奏における空気というものは今では再現出来ないアドバンテージもある。

というわけで、今回はLIVE AT BILL GRAHAM’S FILLMORE WESTなるものを紹介したい。

ポール・バタフィールド・ブルースバンドやエレクトリック・フラッグのメンバーとして、またボブ・ディランやアル・クーパーとのセッションなどで大活躍した、ブルース・ギタリスト、マイク・ブルームフィールドが中心となって、閉館されるフィルモア・ウエストでの1969年のコンサートの模様を録音したものだ。

ジャケ裏、フィルモア・ウエストの写真

ブルース・マンのタジ・マハール(ギターとボーカル)やエレクトリック・フラッグのニック・グレイブナイツ(ボーカル)が数曲でゲスト出演している。

マイクの伸びやかなギーターだけでなく、それに絡むボーカルやキーボードなど聴き処は沢山ある。

毎日時間に追われている諸兄の皆さん、たまにはスロー・ブルースでも聴いてその世界にどっぷりと浸かっていただき、時計のスピードを一時的に遅くしてみるのも一考かと。

何? 一曲が10分-15分のスロー・ブルースに長時間浸っている余裕はないですと?

それじゃ、比較的短いアップ・テンポのIT TAKES TIMEはいかがですか? 

時間がかかる(IT TAKES TIME)ってタイトルだけど?

大丈夫です、4分程度で下駄(長尺のインプロ)は履いていません。

Mike Bloomfield " IT TAKES TIME " Live

ディ・アウトローズ、サードを聴く

2015年09月24日 | Southern Rock

デビュー・アルバムを1975年、全米チャート13位に送り込こんだが、1976年のセカンドアルバムは36位にランク・ダウン。

翌年の1977年にサードアルバムHURRY SUNDOWNは発売された。

前2作と異なるのは、かってドアーズをプロデューサーしたポール・ロスチャイルドから、イーグルスのプロデュースで有名なビル・シムジックに変わったこと、前作のレコーディング終了後ベーシストを解雇したため新たにメンバーを補充したこと、そして自作曲だけではなく外部の作者の曲も取り入れバラエティー感を出すことを試みたことだろう。

もともと、ウエスト・コースト風のハイトーン・コーラスに南部のロックを融合させたサウンドが売りのアウトローズにとって、ビル・シムジックのプロデューサー就任は大歓迎だった。

彼らの感性とプロデューサーの的確な指示の元で制作されたサードアルバムはとても満足のいくものだったと述べていたのだが、残念ながら更なるランクダウンの51位とセカンド・アルバムにも及ばなかった。

何度も通して聴いてみて、一曲一曲を個別に聴けばよく出来ているのであるが、アルバム全体の感想としては、

1. 新たなバンドの魅力を出すために、外部の作者の曲や新メンバーの曲を収録したものの、いままでの自作曲と同じようなタイプの曲であった。

2. ほとんどの曲がカントリー・タッチで、ヘビーなツイン・リード・ギターのサウンドが生かされていない軽いタッチとなった。

3. 日本人的な感覚としては、たとえカントリー・タッチの曲であっても、もう少し親しみやすいメロディーのフレーズを曲のサビの部分に使っても良かったのでは? 但し、カントリー・ソングはポップ・ヒットを狙うような曲とは異なり、淡白なフレーズの歌が好まれることもあり、意見の分かれるところではある。

などと思うわけだが。

そして、バンドでアコースティック兼リズム・ギター担当のヘンリー・ポールが、このアルバムの完成後にバンドから脱退したことから、彼が担当していた軽く爽やかなイメージのアコースティックなサウンドから脱却し、またサードアルバムの芳しくない売れ行きもの結果も熟慮すれば、南部のロック・バンドが持つハードで泥臭いサウンドにと方向転換するのは必然的であった。

サード・アルバム発売後のツアーでは、ツイン・リードにリード・ギタリストをもう一人加えたトリプル・ギターの編成で、ハードなサウンドを展開し、その模様を収録した翌年発売のライブ・アルバム、BRING IT BACK ALIVE は全米29位と人気を盛り返したのである。

ライブアルバム、BRING IT BACK ALIVE

やはり南部出身のロック・バンドはライブに限る、体力勝負のギンギンの演奏が彼らを活き活きとさせるのだ~

The outlaws - hurry sundown- bring it back alive


リラックスの勧め、ハービー・マン

2015年09月23日 | REGGAE
19日の土曜日から数えると5連休のシルバー・ウィークも今日でおしまい。長いようで、アッ!と言う間に終わってしまい、明日からまた仕事だが、土曜日が完全休日の方は、木・金と2日間会社に通えば、また休日と今週は何か得した気分。

しかしながら、人生は今週だけでなくさらに続く。リラックスできる日々もあれば、憂鬱な日々もあり週が長く感じる時も。

そんな時は、 バック・グラウンドでかかる音楽を口ずさむなどでもして、リラックスすることにより憂鬱な雰囲気を解消するのも良いのでは。

昔、新米のサラリーマンだったころ、 私が勤めていた会社の社長さんが“この世で起こったことは、この世で収まる。”とよく言ってました。結末はどうあれ、最終的にはなんらかの形で物事が収束するので、起こったことに対してあまり深く思い悩み続けない方が良いのでは、という解釈だと思うのですが。

そこで、今回リラックスして貰うため、ジャズ・フルート奏者のハービー・マンが1974年に出したアルバムREGGAEを紹介します。ハービー・マンがロンドンに乗り込み、現地のレゲエ・バンドを従えて、ゲスト・ミュージシャンとジャム・セッションを行うという設定です。

ゲストには、ギターにアルバート・リーと元ストーンズのミック・テイラー、キーボードにハービー・マン・バンドのパット・レビロットを起用し、順番にソロを取っていくというシンプルな構成です。 また白熱したソロの演奏というよりは、リラックスしたほんわかムードで展開していくため、バック・グラウンド・ミュージックとしては最適ではないかと。

1.OB-LA-DI, OB-LA-DA (言わずと知れた、ビートルズのレゲエ・タッチのナンバー)
2.RIVERS OF BABYLON (有名なジャマイカの伝承曲)
3.SWINGIN’ SHEPHEAD BLUES (50年代のスウィング・ジャズ・ナンバー)
4.MY GIRL(スモーキー・ロビンソン作、テンプテーションの大ヒット曲。18分と長尺にアレンジされているが、連休のようアッ!と言う間に終わってしまう)

普段ヘッド・フォンで一音も聞き逃さないと神経を集中して音楽を楽しんでおられる諸兄の皆さん、たまには絞った音量でスピーカーから出てくる音楽を流し聴きするのも一考かなと思います。


ジャケ裏のバンドメンバーのイラスト、前列左からアルバート・リー、パット・レビロットそしてと元ストーンズのミック・テイラー

Ob La Di Ob La Da - Herbie Mann

スニッフ・アンド・ティアーズのファースト

2015年09月22日 | BRITISH ROCK
今日レコード棚から取り出したのが、スニッフ・アンド・ティアーズという6人組のバンドの1979年発売のファースト・ソロ、FRICKLE HEART(邦題は“不実…”というタイトルで、直訳すると移り気な心?) です。

別のバンド名での活動は1973年ごろとのことですが、レコード会社との契約に至らず、1978年にチズウィック・レーベルと契約し、スニッフ・アンド・ティアーズ名義ようやく完成しました。

チズウィック・レーベル、あまりお目にかからないレーベル

6人組と書きましたが、メンバーの出入りが激しく、バンドの実態としてはリードボーカル兼アコースチック・ギター担当のポール・ロバーツ個人のプロジェクトと言ってもいいでしょう。実際全曲を彼が作詞作曲しています。

当時のレコードのライナーには、“イーグルスとダイヤー・ストレイツを合わせたとさえ言われる魅惑的なサウンドを引っさげて登場。スピードとスリルあふれる最もナウなサウンドと言える。”と記載されていました。

まあ、アコースチック・ギターのバッキングによる曲作りがされていて、カントリー系の音もちらほら、ボーカルも強いて言えばドン・ヘンリーのような少しかすれ気味な声?、そして曲調が当時流行していたパンクではなく、ダイヤー・ストレイツのような少し地味目ではあるが新しいサウンドを展開することから、そのように捉えられたのかもしれない。

アルバムは全英35位、シングルカットされたドライバーズ・シートは42位とこれまた地味なものとなった。この後3枚のアルバムを出し活動を休止、92年に新メンバーにて活動を再開、2011年にCDアルバムを出だしたとのこと。

個人的には、ポール・ロバーツが画家でもあり、彼の作品が各アルバムの表紙を飾っていることにも興味がいく。

セカンド・アルバム、THE GAME'S UP


サード・アルバム、LOVE ACTION


フォース・アルバム、RIDE BLUE DIVIDE


フィフス・アルバム、NO DAMAGE DONE

なかなか個性的なジャケット・デザインですね。

Sniff 'n the tears - Driver's seat (full song H.Q.)

フェイス・バリューって? フィル・コリンズ

2015年09月21日 | BRITISH ROCK
今日レコード棚から取り出したのが、フィル・コリンズの1981年発売のファースト・ソロ、FACE VALUEです。

米アトランチック盤、オンタイムで購入したと思うのだが、買った当時の記憶なし。情けない。

1974年 プログレ・バンドであったGENESISは、THE LAMS LIES DOWN ON THE BROADWAY発売後、ボーカルのピーター・ガブリエルが脱退、そして1976年に出した 2枚のアルバムA TRICK OF THE TAILと WIND & WUTHERINGを出した後に、ギターのスティーブ・ハケットの脱退で3人組となり、折からのパンクやディスコ・ブームなど時代の嗜好の変化もあり、彼らのサウンドにも変化が現れた。

プログレ色を薄めポップ度を高めた、所謂、RADIO FRIENDLY、ラジオでかかり易い楽曲を含むアルバム2枚(1978年の…AND THEN THERE WERE THREE…と1980年のDUKE)を続けて出した。

それをフォローする形でフィルのソロFACE VALUEも出された。

サウンドは、基本的にGENESISのDUKEのラインを引き継いでいるように思える。ただし、バンド・サウンドとの違いを出すためにいろいろ工夫が見受けられる。

例えば、AORサウンドで有名なスティーブン・ビショップやエリック・クラプトンをゲストに加え、マイルドなサウンドに仕上げたり、従来シンセサイザーで出していたサウンドをアース・ウィンド・アンド・ファイヤーのホーン・ユニットによる生のホーン・サウンドに置き変えたり、ドラムのビートも少し抑え気味にするなど色々と試みている。

初めてこれを聴くと地味に感じるかもしれないが、チャート的には英国1位/米国7位と、大ヒットとなる。このアルバムの大成功を足がかりとし、フィルのソロとGENESISでのバンド活動において、このプログレポップ(ネオポップ)路線にさらなる磨きがかかり、80年代を快進撃で駆け抜けることなった。

FACE VALUE とは額面の価値という意味で、マニアの間で高値取引されている記念切手やコインなどの表面に記載されている実質価格のこと。

“見てくれはこんな感じだけど、中身ちょっと聴いてくれる?”という意味のタイトルなのか、FACE VALUEのフェイスに掛けたフィルの顔が、どアップで迫ってくるジャケとなっている。

我々一般人にはとても出来ない芸当である。もし見てくれだけでなく中身も大したことがないと言われるとひどく傷つく。お世辞でも、どちらかを少しは褒めて欲しいのである。

Phil Collins - Tomorrow Never Knows

BOXSETって必要?、イエスのPROGENY

2015年09月19日 | PROG ROCK
助手:博士! やっと届きましたよ。2015年発売のYESのライブ盤のCDです。

博士:おおー、発売から3ヶ月以上経ってようやく到着したか。しかし、梱包しているダンボールの箱、いやに小さく感じるのじゃが。

助手:そりゃ、そうですよ。予算の関係で2枚組のハイライト盤で、さらに輸入盤ですから。3つ折りのデジパック・スタイルの簡素な外装。2枚のCDが真ん中と右側に仲良く鎮座。少し取り出しにくく、CDが割れるかと思った。


博士:14枚組のPROGENY,SEVEN SHOWS FROM 72が欲しかったのじゃが、研究所の予算がなければ仕方ないのう。早速聴いてみようではないか。

助手:あれ? この会話どっかで聞いたような。そうだ! 確か7月9日にアップしたストーンズのSTICKY FINGERの時の話と同じじゃないですか!

博士:いや~、すまんのう。初めから文章を作成すると、結構時間がかかるので、その時の出だしの文章を少し拝借して記事を書いたのじゃよ。

助手:事情はよくわかりました、じゃあ、このアルバムを考察してみましょう。

博士:最初にブックレットに記載されているプロデューサーのノートというところを読み、聴き込んでいけば、このアルバムの性格なるものがわかってくるのじゃよ。

なになに、発掘されたテープは、確かにYESSONGSのように聴こえるが、一聴したところ、音質は良くなく、曇った(濁った)感じ?、そして奇妙に聴こえたって! その原因は各トラックのドルビーのセッティングが適切でなかったことが不透明な(MURKINESS)の原因で、聴くことによって各トラックのドルビーのセッティングを調整したとなっておる。そして、コンサート会場の最前列に座った時に聴こえるような音場を再現した。

すなわち、ステージ上の各奏者の実際のポジションを考慮した上でミックスし、チューニングなどの雑音や奏者のミスなども消去されていないようじゃ。ありのままのコンサートの演奏を楽しんでもらおうと制作されたのが、PROGENY,SEVEN SHOWS FROM 72じゃと言えるのう。音圧も高く設定していないし。

助手:それでは、YESSONGSの制作の構想とはいったいどのようなものだったのですかね?

博士:こればかりは当時イエスとの共同プロデューサーだったエディー・オフォード に聞いてみなきゃわからぬが~

わしが思うには、イエスのスタジオ・アルバムは、実験的な要素を含む高度なテープの編集技術にて完成したものであるから、複雑な構成かつ長尺な曲も多く、たとえ技量の高い奏者であっても、アルバム完成後に必ず通しのリハーサルを重ねないとステージでの再演は困難じゃったろう。

普通、ライブ・アルバムと言うと、そのバンドにとっての記念品みたいな位置づけで制作されるが、イエスの場合、既発曲ながらもライブのためのリハーサルを経て演奏される曲は、スタジオ録音とは完全に別物と言えた。YESSONGSのマルチ・トラックのミックスは、実際のライブ演奏そのものではなく、各楽器の位置をやや中心よりに設定し、迫力が出るように効果的に再構成されているように聴こえるのじゃが。

つまり、ライブ・バージョンの迫力ある演奏をスタジオに持ち込み、ライブの雰囲気を少しばかり残しながら編集を加えて、ライブ録音ではあるがオリジナル・アルバムのような位置づけで仕上げたかったのではと思うんじゃ。

同じような例で、クリムゾンの“暗黒の世界”において、ライブで録音された迫力のある演奏をスタジオで編集し、ライブ録音の雰囲気を消した形で楽曲をオリジナルの新譜として発表している。

助手:PROGENYはコンサート会場の最前列に座った時に色々な角度から演奏者の音が聴こえる前方サラウンドのような音場を再現したと考えると、YESSONGSは、ステレオ編集ではあるが、音場が中心付近に設定してあり、迫力をもった音が一つの塊として、直線的にぶつかってくるように感じます。

博士:もちろん、当時の録音技術はデジタル時代の現在と比べると非常に古いものだったので、音質を向上させるためにはある程度のスタジオでの編集は必要だっただろうし、また不透明に聴こえるような音質は、当時の技術ではそう簡単に改善出来なかったのではないか? だからドルビーのセッティングをいじり回したようにも思えるのじゃが?

助手:なるほど、制作の思想からして、YESSONGSとPROGENYは別物ということですね。

博士:だから、両方持っていてもいいんじゃないだろうか? しかし、14枚組のボックスは金銭的そして時間的にもわしには無理じゃ。

演奏のアレンジがあまり変わらない中で、特に違いが良く出ている3公演程度の6枚組ボックスが出されたのであれば買いじゃがのう~ どうせフライジャル・ツアーのライブなんかも将来出そうだし。

ともかく、朝からYESSONGSとPROGENYをずっと聴き通して、疲れたよ。屁でもこいで寝るとしよう。

助手:ええ~! 博士は関西出身ですか? 

あれ?またまたどっかで聞いたセリフ。完全に手抜き。

ジョン・ウェットンとウィッシュボーン・アッシュ

2015年09月18日 | Wishbone Ash

プログレ・ハード系のロックにおいて、この人ほど需要の多いベース・プレイヤーは他にいないのではないか? 
ベース・プレイはしっかりしているし、歌もうまい。 人手の足りないバンドにおいて、非常に重宝する存在である。

そう、ジョン・ウェットンのことである。

1970年代初頭から、ベースのセッションもしくはレギュラー・プレイヤーとして多くのアーチストのアルバムに参加していた。

有名なところでは、
1971-72年のロック・バンド、ファミリーに参加
1973年にはジェネシスのメンバーであるピーター・バンクスやブライアン・イーノのソロアルバムに参加。
それを皮切りに、ロキシー・ミュージック関連で1974年頃からブライアン・フェリーやフィル・マンザネラのソロ・アルバムや、ロキシーのライブ・アルバムにも登場。

レギュラー・メンバーとしては、1973-75年にかけて絶頂期のキング・クリムゾンに参加。アルバム・レッドを最後にクリムゾンが解散した1975-76年には、ユーライア・ヒープのメンバーとなる。

その後、1978年にプログレ・バンドのUKを設立。

そして1980年にソロ・デビューし、1982年にスーパー・グループ、エイシアをスタートさせ世界的に大ヒットさせ、今現在においても切れ目のない活動を続けている稀有の存在である。

そのソロ・デビューとエイシア結成の狭間となる1981年に、なんと彼はウィッシュボーン・アッシュにも参加していたのである。

それが、ウィッシュボーン・アッシュのスタジオ11作目のNUMBER THE BRAVEだった。
結成当時からのベース/ボーカル担当のマーチン・ターナーが脱退したことからジョン・ウェットンがその代わりとして加入したのだ。

80年代に入り、世の中の音楽の嗜好も変わり、時代の流れに合わせたアルバムの制作という考えから、プロデューサーに当時ポリスをプロデュースしていたナイジェル・グレイを迎えた。

そして完成したアルバムは、初期4枚のアルバムに共通していた、イギリスのトラッド・フォークやブルースなどを、自慢のツイン・リードを生かして独特のロック・サウンドは何処やら、完全に80年代のシンプルかつストレートなサウンドに変身していた。アメリカ向けのファンキーな曲も2曲ほど含まれ、そのうちの1曲が、かってスモーキー・ロビンソンがテンプテーションの為に作ったR&Bの名曲、GET READYをカバーしたのであった。ウィッシュボーン・アッシュ流に2本のギターを絡ませスピード感溢れたサウンドとなった。

ところで、当時アメリカ盤を購入したのだが、2000年代になって紙ジャケCDが出てそれも買ってみたところ、曲順が違うのに気がついた。
紙ジャケは英盤の曲順をフォローしており、1曲目は彼らのオリジナルのLOADEDから始まる。米盤はもちろん、GET READYである。LPレコードのオープナーは非常に重要で退屈な曲が1曲目だと、最後まで聞いてもらえない可能性も出てくる。やっぱり、アメリカで売るなら、1曲目にファンキーなGET READYを持ってくるのは当然といえば当然。


しかしながら、残念なことに時代の流れを掴み損ねたのか、アルバムは全米202位/全英61位と今までのチャート・アクションとしては最低を記録し、これ以降は、彼らの出したアルバムはアメリカではチャート・インすらしなくなったのだ。

やる気満々だったジョン・ウェットンはこのアルバムのために数曲を作ったのだが、結局1曲しか採用されず、バンド内での自身の立ち位置がどうも他のメンバーと対等でないことを察知し、このアルバムのみの参加で脱退するのであった。そしてこの時に作り、ボツになった曲は、改作されエイシアのデビュー・アルバムに使用されたとのこと。

ウィッシュボーン・アッシュといえば、オリジナル・メンバーはギターのアンディ・パウエルのみとなったが、現在でも新譜を出したりライブ活動なども続けているようである。

新譜を出してもチャートインすらしないこのバンドがなぜ現在まで生き延びられたのかというと、初期4枚のアルバムを今でも覚えているオールド・ファンがサポートしているのである。
5枚目のアルバムからサウンドにアメリカ色が強くなり、その後も時代に迎合しようとし色々と変革を試みるのではあるが、デビューから45年経った今でもウィシュボーン・アッシュといえば、PHOENIX、アルバムで言えばARGUSとなるのである。

彼らが新譜を出すと、その内容の比較の対象となるのが初期のアルバムのサウンドなのである。オールド・ファンにとっても、彼らの新譜を購入するのは、新しい楽曲の中に初期のサウンドの痕跡がないだろうかとノスタルジックな気持ちからくるなんらかの期待が生じるからかもしれない。つまりオールド・ファンは全く新しいサウンドを求めているのではなく、45年前の若かった時の記憶を引き出すために当時のサウンドに近いものを求めているのではないだろうか?

彼らの新譜はここのところご無沙汰であるが、再発された旧譜でも聴いては、ジョン・ウェットンとウィッシュボーン・アッシュには出来るだけ長く活動を続けて欲しいものだと心の中でいつも応援しているのである。

Wishbone Ash - Ged Ready (The Temptations cover)


QUEENのようでQUEENでない、10CCのようで10CCでもない、それは誰かと尋ねたら?

2015年09月16日 | BRITISH ROCK
CITY BOYです。知ってました?

1976年に発売された彼らの2枚目のアルバム(日本では翌年の1977年に出された)、リッツ・ホテルの晩餐会です。

プロデュースは、ご存知ロバート・ジョン・ラングで、古くはBOOMTOWN RATS、AC/DC、DEF LEPPARD、FOREIGNERやCARS、そして最近ではMAROON 5や MUSEなどのプロデュースを務めた売れっ子であります。その彼がイギリスでプロデュース業のスタートを始めた頃に手がけたのが、6人組のCITY BOYのアルバムです。

彼らの音楽性は?と言うと、表題のごとくQUEENや10CCの楽曲のように目まぐるしく変化する複雑な構成を持ったポップ・ロックで、時折心に残る美しいメロディー(特にB面2曲目のTHE VIOLIN)なんかも登場します。歌詞はイギリス特有のシニカルなユーモアが込められています。

この手の音楽が一般受けするかというと、なかなか難しく、1作目のアルバムがアメリカのラジオ局で受けた事から、この2作目のアルバムはアメリカのマーケットを意識し、イギリスより一足早くアメリカで発売されたのですが、チャートは170位と惨憺たる結果になりました、もちろん1976年といえばディスコやパンクの人気に火がつき始めた頃で、時期的に悪かった事も原因と言えます。

しかしながら、この手の音楽が好物である人にとっては、外せないバンドではないでしょうか? 

当時QUEENや10CCをよく聴いていて、個人的にはそれらのバンドの出したアルバムと同様に楽しめるアルバムなので、このアルバムが手元にあってもおかしくないのですが、このマイナーなバンドのレコードを当時どのような経緯で購入したのか思い出されません。たまたま入ったレコード・ショップで見たジャケットが気になり、ジャケ買いしたのかな?

ジャケ裏のデザイン

ジャケ買いは危険で、そのレコードの内容が意に沿ったものであれば、自身の感覚を誉めそやすのですが、反対の場合は、レコード棚の目立たない場所に速攻収納し、あたかもそれを買った事などなかったかのように振る舞うことになりかねません。


これは再発されたCDのブックレットの内側の写真です。これからすると海外で出されたレコードはこの写真通りのデザインでインナー・スリーブが作られたと思われます。日本盤は、ライナー・ノートと歌詩が書かれたペラの紙一枚が封入され、インナー・スリーブは付いてなかったのD、多分日本での少ない売れ行きを見越して、お金のかかるインナー・スリーブの製作を省略したのだろうと思われます。

The Violin by City Boy

美しいメロディーです。

ビートルズNO.5に思う

2015年09月16日 | BEATLES-BADFINGER関連
いつも当ブログご覧になっていただきありがとうございます。

このブログ、いままで人気ランキングに登録していたのですが、発作的に退会しました。人気ランキング経由でこのブログに入ってこられる方には迷惑をかけますが、次回からGOOGLE などで “CLASSIC ROCKを聴こう”で検索して貰えれば簡単に辿り着く事が出来きると思います。

よろしくお願いします。

さて、何を書こうかと取り出したレコードが、ビートルズの日本独自の編集盤、ビートルズNO.5です。

このアルバムについている帯から判るように、1974年に再発された国旗帯と言われるもので、帯には“ドイツ語版を含むオリジナルとスタンダード集。初期の通向きアルバム”と記載されています。

なるほど、このアルバムは通向きのものであったか~

英国では、オリジナル・アルバムは1963年から、毎年その年の前半とクリスマス前の年2回のペースで出されていた。世界同時発売されなかった時代であったので、イギリス以外の各国におけるレコード制作にタイム・ラグが生じ、その発売は英国よりも少し遅れ、またアメリカや日本では独自編集のアルバムとなった。

日本では、1枚目のMEET THE BEATLESから SECOND ALUBUMとA HARD DAY’S NIGHTの3枚が1964年に発売され、BEATLES 65、そしてこのアルバム NO.5、さらに HELPが1965年に発売と年に3枚ものアルバムが続けて出されるという忙しい事となった。

手元にあるオデオン・レーベルのMEET THE BEATLES初回盤の価格が1500円で、それより後に出されたアルバムは1700-2000円ぐらいだった。1960年代の月給といえばだいたい3万円くらいが相場だったから、年に3枚も新譜が出れば、ビートルズのレコード代が家計に占める割合は非常に大きくなったであろう。

当時、ビートルズのファンでいる事は大変だった事が判る。

NO.5は、その前のA HARD DAY’S NIGHTとBEATLES 65がステレオだったのにもかかわらず、モノ編集であった。すなわち、完全な日本編集のMEET THE BEATLES、 SECOND ALUBUMとNO.5がモノだったという事は多分日本の家庭事情を考慮しての事ではないだろうか?

当時、一般的な日本の家庭で四つ足のステレオ・セットを気前よく購入できる家庭は少なく、娯楽系家電ではまずテレビの購入が最初という時代で、当時LPレコードはモノラルのポータブル電蓄でかけるのが主流だったと推測する。ダイヤモンド針ではなく、寿命の短いサファイヤ針で、メーカーの仕様に従って、針が摩耗する前に交換なんてことしてなかったから、その当時にかけまくったレコードを今再生するとひどいコンディションになっている事は間違いないだろう。

しかし音楽は、AMラジオやポータブル電蓄で聴く時代であったから、ハイレゾだとか言って普通一般の人が完全に違いの判らないないような微細なレベルにまでこだわるような現代と比べて、再生音にこだわらないのどかな時代であり、これは、これで精神衛生上は細かな事を非常に気にする今の時代と比べては良かったのではないか?

それから、日本編集盤の特徴は、英オリジナル盤に入っていないシングルや4曲入りのコンパクト盤などの曲を収録しているので大変コスパに優れ良心的なことである。このアルバムにも、イギリスではシングルでしか発売されなかったI FEEL FINE が入っている。しかしながら、ドイツ語で大ヒットした曲を歌い直しているのは、ドイツ・ファン向けの変わり種の曲という扱いだし 、それ以外の曲も特に大ヒットした看板の曲ではない事から、通向きと称しているのであろう。

このアルバムを購入するには、レコードの場合 中古ショップかオークションで、CDに関しては、バラ売りはされていなくJAPAN BOXなる物を購入しなければならない。

JAPAN BOX、購入したはいいが、一度も聴いた事がなく、飾りになっている有様。趣味とはいえ本当に無駄な買い物だった。

今でもビートルズのファンでいる事は大変である事が判る。

またまた出た~、幻と言われたオリジナル・マスター・テープが東京で発見!

2015年09月14日 | DEEP PURPLE-RAINBOW関連
助手:10月21日にレインボー・ライブ・イン・ジャパン・1984がDVD とCD(2枚)の計3枚のコンビネーションで発売されるみたいですよ。

なんでも、“幻と言われたオリジナル・1インチ・マスター・テープが東京で発見、31年の封印が解かれる刻(とき)がついに来た!!”との宣伝文句です。収録予定曲は22曲になるとのことです。

博士:1984年というと武道館で行われたレインボーの最終コンサートじゃのう。
しかし、毎度都合よく幻と言われるマスター・テープが見つかるものじゃ。

その時のコンサートと言えば、1986年にライブ録音のコンピ盤として発売されたFINYL VINYLに部分的ではあるが5曲既に収録されておる。(SPOTLIGHT KID、 I SURRENDER、 MISS MISTREATED、STREET OF DREAMとオーケストラ付きの DIFFICULT TO CURE、但し収録時間の関係でSTREET OF DREAMは1986年のレコードや1枚で出されたCDには収録されておらず、後に出されたリマスターの2枚組CDに収録されている。)

FINAL VINAL リマスター

5曲が武道館で収録されている。

今回、東京で発見されたマスター・テープは、1986年のレコーディング当時のものとどう違うのかのう? テープは同じもので、大げさな宣伝文句のようにも聞こえるのじゃ。

わしにとってのレインボーと言えば、やっぱり、リッチー、ロニーそしてコージーの三頭時代がメインと言える。もちろん、今回の音源が悪いとは思わないが、なんとなく、“あるものは全部出して、商売にしろ”的な感じがするのじゃよ。

例えば、この前出たボックス・セットのA LIGHT IN THE BLACKは、既発のライブ音源、デラックス・エディションで出されたアウト・テークなどが多く含まれていて、一部の音源とDVDを除けば新鮮味に欠けるのでスキップしたのじゃ。

助手:今日は愚痴ばかりですね。

博士:ネット・サーフィンをしていると、めぼしい商品を片っ端しから購入してブログにアップされている人をよく見かける。羨ましい限りじゃ。

こちらも予算さえあれば、目をつぶってアマゾンの購入ボタンをポチッ・ポチッと押しまくれるのじゃが。

仕方がない、今回も様子見で、誰かが買ってレビューしたのを参考に購入するかどうか検討することにしよう。

それまでは、FINYL VINYL でも聴いて、そして聴き飽きたら屁でもこいで寝るとしよう。

助手:ええ~! 博士は関西出身ですか?

Rainbow - Spotlight Kid (Finyl Vinyl Music Video) HQ

BOZ SCAGGS、SOME CHANGE

2015年09月13日 | AMERICAN ROCK/POPS
1976年SILK DEGREES(全米2位)、1977年DOWN TWO THEN LEFT (全米11位)、1980年MIDDLE MAN (全米8位) と70年代後半のAORのヒット街道をひた走った。一息つくためか1980年にベストアルバムのHITS(全米24位)を出した後、全く音沙汰がなくなり、8年後1988年に新作のOTHER ROAD (全米47位)を出したのだが、再び沈黙してしまう。

それから、6年後の1994年にSOME CHANGE を出す。これだけ間が空くとよほどのファンでない限り、新譜をオンタイムで追いかける余裕はなかっただろう。実際このアルバムが出されて何年も経った頃、その存在にようやく気付き購入に至った。なんとこれが拾いもので、出された当時のチャートは全米91位で、全く話題にならなかったのが不思議なほどの出来の良い作品に仕上がったと思う。

80年代のAORの特徴であったきらびやかなアレンジは取り除かれ、各楽曲はしっとりと自然体で歌われ、また演奏されている。タイトル曲のSOME CHANGEは、なんらかの変化と小銭という二つの意味をかけて歌われている。

”より良くするなんらかの変化が自身に訪れる機会があれば、 それを受け入れるべきじゃないか、ポケットの中にある小銭のように全く取るに足りなかったり、遅すぎたりする事もあるのだが、気分が乗っているのであれば、変化は受け入れた方がいいのかも。眠ってばっかりいたら、ノアの箱船はいってしまうよ。だから変化を受け入れるべく準備をしておこう。”

というような感じの意味だろうか? 長きに渡り音楽活動に関して冬眠生活を送り、なんとなく一人取り残された気分に陥っていた自身の心境を歌っているように感じる。

欲を言えば、 収録曲の中に冗長と感じる曲もあり、そのあたりを少しコンパクトに編集し 、さらに往年のシングルヒット狙いの曲を1曲収録していれば、1994年ボズ復活ということで、誰もが間違いなしにオンタイムでこのCDを購入していたのではないかと個人的には思う。

もちろん、当のボズは、特にシングルヒットにはこだわらず、取り敢えず音楽活動再開にあたり試運転という感覚でこのアルバムを出したのかもしれない。

次のアルバムは“ああして欲しい”とか“こうして欲しい”という一ファンの要求とミュージシャンの考えがなかなか一致しないのはよくあることで、もどかしいところではある。

Boz Scaggs "I'll Be The One"



CDのジャケ裏の写真、表ジャケで見にまとっていた衣装がハンガーに掛けられて写っている。これは一体なにを意味するのか?
SILK DEGREESやMIDDLE MANに写っていた服装とよく似ていることから、過去を脱ぎ捨てSOME CHANGE したということだろうか?

MIDDLE MANの時も黒のスーツに白シャツ、そして黒いタイのコンビネーション