CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

MICHEAL LEARNS TO ROCK、東南アジアでの人気度は?

2015年05月31日 | EURO ROCK
前回の続きとしまして、彼らがいかに東南アジア諸国でブレークした記録を記します。

1993年 セカンド・アルバム、COLOURS

デンマーク:チャート不明、売り上げ 2 X プラチナ
タイランド:売り上げ 7 X プラチナ
シンガポール:売り上げ 4 X プラチナ
インドネシア:売り上げ 4 X プラチナ
マレーシア:売り上げ 3 X プラチナ
フィリピン:売り上げ 1 X プラチナ

1995年 サード・アルバム、PLAYED ON PEPPER

デンマーク:チャート3位 、売り上げ 2 X プラチナ
タイランド:売り上げ 5 X プラチナ
シンガポール:売り上げ 2 X プラチナ
インドネシア:売り上げ 3 X プラチナ
マレーシア:売り上げ 4 X プラチナ
フィリピン:売り上げ 1 X プラチナ

1997年 フォース・アルバム、NOTHING TO LOSE

デンマーク:チャート3位 、売り上げ 2 X プラチナ
タイランド:売り上げ 5 X プラチナ
シンガポール:売り上げ 2 X プラチナ
インドネシア:売り上げ 3 X プラチナ
マレーシア:売り上げ 4 X プラチナ
フィリピン:売り上げ 1 X プラチナ

1999年 ベスト・アルバム、MLTR、STRANGE FOREIGN BEAUTY(アジア向けベスト、ヨーロッパで出されたものと曲順が異なる)

デンマーク:チャート1位 、売り上げ 2 X プラチナ
東南アジアでの売り上げ:不明

2000年 フィフス・アルバム、BLUE NIGHT(ここから3人組となる)

デンマーク:チャート9位 、売り上げ 2 X プラチナ
タイランド:売り上げ 不明
シンガポール:売り上げ 2 X プラチナ
インドネシア:売り上げ 3 X プラチナ
マレーシア:売り上げ 不明
フィリピン:売り上げ 1 X プラチナ

プラチナ・ディスクの枚数の定義は各国のレコード協会によって異なります。アメリカではプラチナ・ディスクは100万枚、イギリスでは30万まい、日本とドイツでは20万枚です。東南アジア諸国の各レコード協会のプラチナ・ディスクの定義が不明なのですが、1 X プラチナで8-10万枚程度じゃないかと推測します。

しかしながら、今と比較しますと20年以上前の東南アジア諸国における 消費者の購買力は決して高くなく、また当時安価な海賊版が横行していたことを考慮しますと、オフィシャルでオリジナル・アルバムがこれほど売れた例はそうなかったのではと思います。東南アジアなどでの公演ではスタジアムを観客で満杯にするくらいの人気があったことは、これらのデータからも伺い知ることができます。

それではフィフス・アルバムからタイトル・チューン、BLUE NIGHT聴いてみてください。

Michael Learns To Rock - Blue Night

こんなの知ってますか? その3、ジム・フォトグロ

2015年05月30日 | AMERICAN ROCK/POPS
1980年に急にアルバムが発売され、そこからシングル・カットされた、WE WERE MEANT TO BE LOVERS(邦題、愛のシルエット)が全米31位の中ヒットとなりました。

このアルバムしか所有していないので良くわからないのですが、数枚のポップ・アルバムを出した後、曲を他のアーチストに提供したりカントリー・シンガーとして活躍したとのことです。また、1991年発売のダン・フォゲルバーグのライブ盤にベーシストとしてクレジットされています。

このアルバムはアメリカ盤で、表ジャケがアルバム・タイトルのみの記載で、裏ジャケには彼の写真が掲載されています。(日本盤はアメリカ盤の表と裏ジャケを合成した独自の表ジャケットです。)

アメリカ盤裏ジャケ

それから、レコードのレーベルが20世紀フォックスとあまりお目にかからないものなので、その写真を添付。
そうしたところ、これによく似たデザインを思い出しました。それは同じシネマ系のユナイテッド・アーチストの子会社のジェット・レーコードというレーベルです。エレクトリック・ライト・オーケストラが在籍していました。

20世紀フォックス・レーベル

ジェット・レコード・レーベル

それでは、WE WERE MEANT TO BE LOVERS聴いてみてください。

Jim Photoglo - We Were Meant to Be Lovers

HIGH FIDELITYとHIGH INFIDELITYの違い、REO SPEEDWAGON

2015年05月30日 | AMERICAN ROCK/POPS
HIGH FIDELITY、略してハイファイと言われていますが、日本語に訳すと”高忠実度”とか”高忠実度な”となります。

つまり巷で言われているハイファイ・オーディオの格付けとは、いかに原音を忠実に再現できるかどうかをベースにして振り分けられます。 すなわち再生された音と原音と比較できる聴力を備えたリスナーがいないと厳密にはハイファイ・オーディオと言えないのでは? 

それでは、実際に原音を聴き、ハイファイ・オーディオの再生された音と比較できる立場にある人ってどのくらいいるのでしょうか? それに、クラッシックやジャズの一発どりを除けば、特にポップ・ロックの場合ミックスする段階で音源がかなり加工されています、その加工された音を現音と呼んでいいのかどうか? また、ライブなどでの生の音も原音とは違うのでないはないかと思えるのですが。なぜならライブ・コンサートの場合、聴いている場所によって音は異なるため、何が原音なのか定義をしにくいのではないかと考えます。

色々と議論はありますが、自身としては”どのような再生装置であっても、いかに気持ち良く聴かせてくれるかが重要である。”などと強がりたいのですが、実際はハイファイ・オーディオに多額のお金を投資できない現実もあるのです。

しかしながら、いくら最高のハイファイ・オーディオで好きな曲を再生しても、それが就寝中であればただの雑音に聴こえるのは間違いありません。まあ身の丈にあった装置で楽しみましょうと言うことでしょうか。

という長い前振りで、今回はご存知、アメリカのロックバンド、REO SPEEDWAGONのHIGH FIDELITYならぬHIGH INFIDELITYを紹介します。

1980年11月発売で、彼らのスタジオ・アルバムとしては9枚目にあたります。レコード・デビューは1971年で、70年代後半には徐々に人気も出てきた中堅バンドでした。このアルバムの発売で大ブレーク、全米一位となり、売り上げも9Xプラチナと言うすごい記録を達成し、一躍トップ・バンドの仲間入りをしましました。本来、KEEP ON LOVING YOUなど力強く歌い上げるバラードが売りのバンドですが、今回は日本でシングル・カットされた、日本向けの軽快なポップ・ロック、IN YOUR LETTERを聴いて下さい。

それにしても、アルバム・ジャケットもパロディーのようにFIDELITYにINが付くの付かないのでは大きな違いですね。

その昔、私の英国人の知人がアメリカに行った時大恥をかきました。ショップの女の人に”消しゴムありますか?”と聞いた時、習慣でRUBBERという単語使ってしまったのです。アメリカでは、消しゴムはERASERという単語を使い、RUBBERは例のゴム製品のことをさすのですね。

REO SPEEDWAGON - In Your Letter

40周年記念豪華盤マシーンヘッドのボックスセットについて思うこと

2015年05月28日 | DEEP PURPLE-RAINBOW関連
DEEP PURPLEのマシーン・ヘッド40周年記念豪華盤と言うCDのボックス・セットが2012年に発売されたのは、パープルファンの方ならご存知でしょう。

ちょうど40年前の1972年にオリジナルのレコード・アルバム が発売され、全英 1位、全米7位そして日本でも6位と大ヒットしました。例のHIGHWAY STAR やSMOKE ON THE WATERなどパープルを代表する曲が数多く収録されています。個々の曲の解説は、機会があれば 次回以降にトライしてみたいと思います。

さて40周年記念豪華盤について説明しますと、このボックスセットは4枚のCD、1枚のDVDそして1冊の解説書からなります。

それらの詳しい内訳は、
DISC 1 CD MACHINE HEAD (ORIGINAL 2012 REMASTER)
DISC 2 CD MACHINE HEAD (1997 ROGER GLOBER’S MIXES)
DISC 3 CD MACHINE HEAD (QUAD SQ STEREO)
DISC 4 CD IN CONCERT’72 (2012 REMIX)
DISC 5 DVD MACHINE HEAD (2012 REMASTER, 4.1 DTS FROM QUAD)


DISC 4を除いては、数曲のボーナス・トラックを除いて、全て同じ曲で構成されています。オリジナルで録音された音源を現代の最新鋭の機器を用いて色々と加工し、異なったニュアンスの音をそれぞれ作り出しています。

すなわち、1972年に発売されたオリジナルの音と比較してどのように変化したのか聴き比べて下さい、と言う企画物の商品で、その昔、マシーン・ヘッドのレコードを、いわゆる擦り切れるぐらい聴きその音像が頭の中にしっかり記録されているようなマニアの方向けの商品です。

年を重ねるごとに人間は五感の能力落ちてくるうえ、さらにコアなパープル・マニアでない私の場合、 昔の音と比べてすっきりしたとか、今まで聴こえなかった音が聴こえるなど、前もって言われればなるほどと頷くレベルの実力なので、今回制作された音の変化に感動したとか、感銘を受けたとか高らかに宣言できないのです。

じゃあ何故マニア向けのボックス・セットなんていう商品を買っちゃうの? と聞かれると返答に困ります。

まあ宗教みたいなものですかね。めぼしい新譜もしくは再発盤が出るというニュースを聞きつけると、なんとなくムズムズしだして、無意識にアマゾンの購入ボタンを押してしまう。そして買ってしまうと何か安心した気分に成ります。だから購入したのに開封すらしていないボックス・セット結構あります。

これではいけないということで、このブログで毎回記事を書く際に、今まで棚に眠っていたCDを改めて聴くようになり、偽マニアと言われないよう、猫に小判状態の未開封のボックス・セットも今後聴いていきたいと思います。

ちなみに、このボックス・セットで一番いいと思っている音源のCDは、DISC 3 のMACHINE HEAD (QUAD SQ STEREO)です。これは、70年代当時、日本ビクターのCD4やソニーのSQなどというシステムで、4つのスピーカーで音を再現する、4チャンネル方式のオーディオが開発され、ディープ・パープルもこのアルバムの4チャンネル版を録音していました。今回その4チャンネルの音源をステレオ(2チャネル)に焼き直しCD化したものです。

個人的には、この音が他のCDと比べ心持ち重く感じられ、パープルのハード・ロックに合っているのではと思っています。

皆さんはリマスターやリミックスされた新しい音源と古いオリジナルの音源との違いなど感じ取ることが容易く出来るでしょうか? 私はちょっと自信がありません。

Deep Purple - Highway Star

記憶に残る音楽、SIMON & GARFUNKEL-HERBIE MANN

2015年05月27日 | JAPANESE
それにしても今日も暑いですね。今の季節で太平洋側の地域が軒並み30度以上を超えるなんて今までになかったような気がするのですが。

72年に我が家にステレオ・セットがやってきたという話は以前に書いたのですが、当時の記憶を思い出そうとレコード棚をゴソゴソとかき回していると、SIMON & GARFUNKEL-HERBIE MANNというレコードが出てきました。

このレコードが購入された経緯ははっきりとは記憶に残っていないのですが、取り敢えず有名どころの洋楽のLPを幾らか揃えて聴いてみようということで、 定番であったビートルズやカーペンターズなどを購入していったと記憶しています。その際、SIMON & GARFUNKEL-HERBIE MANNのタイトルがついたこのレコードをサイモンとガーファンクルのオリジナル・アルバムと勘違いして購入したのだったと思うのですが。そしてレコード・ショップに戻りオリジナル・アルバムと交換するのも面倒くさいので、そのまま引き取ることになったような記憶が。 

さてこのレコードを聴いてみると、歌物ではなく、フルートの奏者がリーダーの小編成のグループでサイモンとガーファンクルの楽曲を演奏する、いわゆるイージー・リスニング系ジャズの企画物でした。これが中々新鮮なアレンジで当時何回も聴いたような覚えがあります。今聴いても、この曲のアレンジはこうだったと思い出すことができるぐらい印象に残っています。 

アルバムのジャケットにはDAVE CHALLENGER ORCHESTRAと記載され、またライナーにはその楽団について解説がほとんどありませんでした。また当時ハービー・マンが誰なのかもよく知らなかったので、DAVE CHALLENGER ORCHESTRAとはハービ・マンがリーダーのジャズ・バンドだろうという認識でした。

それから7年後アメリカに住んでいた 友人に会うため、ロス・アンジェルスに行った時のことで、 友人の知人と一緒にタクシーに乗った時、その彼が目ざとく運転席のコンソールにあったハービー・マンのカセットを見つけ、タクシーの運転手にカーステでかけてくれとリクエストしました。英語が満足にしゃべれなかった私は、その時の会話がウヒャーかっこいいと思い、これがあのハービー・マンかとまた思いだしたのです。

それから月日があっと言う間に数十年過ぎ、最近このレコードをレコード棚から改めて取り出した時に、ネットでハービー・マンを検索してみました。しかしこのアルバムに関して何もヒットしなかったので、DAVE CHALLENGER ORCHESTRAで再検索してみると、なんと横田年昭さんというその道で著名なフルート奏者である方がハービー・マン風に演奏した企画盤だったと言うことが判りました。

演奏のどの辺りがそうなのかと言われるとハービー・マンをそれほど聴き込んでいないため答えることは出来ません。それどころか、オリジナルの曲を演奏しないのであれば、ロック系のジェスロ・タルのイアン・アンダーソンやフォーカスのティス・ヴァン・レールらが吹くフルートの音色でさえも区別がつきません。

ちなみに、このレコードの中古がヤフオクで数ヶ月前に6,270円と言う高額で落札されていたことです。普通このジャンルのレコードは100円以下かもしくは大量取り引きでの値がつかないジャンク物となる場合が多いです。和物ジャズの企画盤のためプレス数が少なかったのと、CDでの再発がなかったことが、結果的に中古市場の価格はマニアの間では高く設定されているのかも知れませんが、 本家であるハービー・マンのオリジナル・アルバムの中古価格をかなり上回っているのは驚きです。

まあ、未だにこのレコードを聴けばフルートで吹かれる主旋律が頭の中に蘇ってくるということは、私の中では間違いなく名演の一つであると思えます。

と言う他愛のない話でした。

皆様、暑いですのでお体にはくれぐれも注意してください。


後日に、サイモンとガーファンクルに関しては、ALL ABOUT, SIMON & GARFUNKELと言う2枚組のベスト物を購入しました。


本家

ジャクソン・ブラウンの2014年の新譜、ただし購入は2015年

2015年05月25日 | West Coast Rock

ウェスト・コーストのシンガー・ソング・ライター、ジャクソン・ブラウンの2014年発売の14枚目のオリジナルアルバム、STANDING IN THE BREACHをやっと購入しました。

いつもなら、発売と同時に購入するわけですが、ここ数年ジャズやソウルなどロック以外の音楽も結構聴くようになり、今までずっと贔屓にしていたアーチストの新譜をオン・タイムで 購入するまで中々手が回りませんでした。

私は、彼の1972年発売のファースト・アルバムからファンでありまして、 最近のライブ・アルバムを含む数枚を除いては、CDやレコードの形でほとんどのアルバムを所有しているのですが、80年代になってからアルバムの内容に政治色が濃くなっていき 、特に1986年のLIVES IN THE BALANCEや1989年のWORLD IN MORTIONあたりからは、 ヘビー・ローテで聴くことはなくなりました。

最近このアルバムに対して結構印象の良いレビューがネット上に載っていたのを目にして、ようやく購入となりました。

さて感想ですが、1曲目のTHE BIRDS OF ST. MARKSという曲が往年のTHE BYRDSのようなフォーク・ロック調の曲で親しみやすいというようなレビューありましたが 、私としては、もう少し12弦ギターのバッキング、そしてドラムとベースのリズムなどを強調すればさらによかったのではと思いました。他の曲も同様に、少しおとなしすぎる感がありました。

また、収録曲11曲のうち7曲が5-7分という長尺の曲で、 もちろん詩の内容によりそう簡単に曲を短縮は出来ないと言うのは当然分かっているのですが 、少し冗長ではないかと思いました。

年を重ねるごとに物事の考え方、そして声の質などは変わっていきますので、 70年代の アルバムの続編を製作する必要はないのかもしれませんが、昔からのファンとしてはどうしても、1973年のFOR EVERYMANやその翌年の LATE FOR THE SKYの頃の、瑞々しさや若々しさを求めてしまいます。

それぞれの曲自体は悪くはなかったように感じましたので、なんらかのメリハリをつけるようなもう一工夫 が見られれば、私としてはジャクソン・ブラウン復活と言えたと思います

ジャクソン・ブラウンのファンの皆さん、小言ばかり言って申し訳ありません。もし何か反論があればお待ちしています。

The Birds Of St. Mark - Jackson Browne

個人的には、少し緩いような感じですが?


ENGLAND DAN & JOHN FORD COLEYのDR. HECKEL & MR. JIVE

2015年05月24日 | AMERICAN ROCK/POPS
ZEP感謝祭も終わったところで、今回はポップ・ロック・デュオのENGLAND DAN & JOHN FORD COLEYの1979年発売の 7枚目のスタジオアルバム、DR. HECKEL & MR. JIVEを紹介します。

ソフト・ロックのデュオと認識されていた彼らが ”それだけではなく別の一面もあるよ” と2面性を持つ人物であった”ジキルとハイド”をもじって”ヘッケルとジャイブ”というアルバム・タイトルをつけました。

内容は、彼らの従来の曲のアレンジをハード・ロック寄りにしたり、ファッキー・タッチにしたり、ソウル風のアレンジの LOVE IS THE ANSWERを入れたりなどと、違った一面を見せる味付けとなっています。トッド・ラングレン作のシングルLOVE IS THE ANSWERが全米10位と気を吐いたのですが、アルバム自体は全米108位と不振でした。当時ディスコ、パンクそしてニュー・ウェイブなどのブームなどにより、ソフト・ロックではタイミング的に分が悪かったようです。

それを証明するかのように、80年代になって収録曲であったBROKEN HEARTED MEがアン・マレー、そして WHAT’S FOREVER FORがカントリー・シンガーのマイケル・マーフィーらが取り上げヒットさせています。

何事も成功するには、当然タイミングというファクターは重要なのですが、反対に成功に値する内容が伴っていないと、タイミングだけでも成功は 得られないとこのアルバムは言っているような気がします。

それでは、彼らの直球であるWHAT’S FOREVER FOR聞いて下さい。この手のサウンドが好みの方で、もしカーステでこの曲がかかれば、サビのパートを一緒に歌う事、間違いなしです。

アルバム・ジャケットの表は、DR. HECKELから MR. JIVEなのか、 MR. JIVEからDR. HECKEL なのか判りませんが、シャツにジーンズのラフな姿の彼らが黄色いラインを超えるとジャケット姿に変身している事を表現しています。6人いるのではなく、2人組のショットが3種で、計6人です。

What's Forever For - England Dan & John Ford Coley

ZEP感謝祭その2、レッド・ツェッペリン  PHYSICAL GRAFFITI

2015年05月22日 | LED ZEPPELIN関連
以前に6作目のスタジオ・アルバム、PHYSICAL GRAFFITI について書いたことがあったのですが、今週 レッド・ツェッペリンの1枚目から5枚目まで連続できてきたので、その流れを汲んで再投稿したいと思います。

前作のHOUSE OF HOLYが大ヒットした後、1973年に北米を中心にコンサート・ツアーを行い大成功させました。

しかしながら、長期にわたるコンサート・ツアーからくる疲労によりジョン・ポール・ジョーンズが一時バンドから離脱したり、バンド自身のレーベル、スワン・ソングなどの立ち上げなどに諸々の時間を消費し、前作から約2年のインターバルの後ようやく1975年2月に発売となったのが、PHYSICAL GRAFFITIでした。

当時録音された新曲のみでは、長尺の曲やレコードのA面とB面の収録の限界などの理由もあり、レコード1枚分にすればバランスが取れないことから、以前のアウト・テイクだった7曲を加えて2枚組としてリリースすることとなりました。

アウト・テイクのレベルも高くそれらを加えることにより、 ツェッペリン・スタイルのハード・ロックから、アコースティック・フォーク、プログレ、ブルース、カントリーなど更にバラエティーに富んだ内容になり、ZEP感謝祭その2のような雰囲気です。

当然このアルバムも大ヒットし全米と全英で1位を獲得し、発売後の1975年5月に駄目押しの北米コンサート・ツアーを敢行し 、ハードロック・バンドとして最高峰の地位を磐石としました。

このアルバムの定番の長尺のIN MY TIME OF DYINGとKASHMIRについては前回ちらっと触れましたので、今回はサイド4に収録されているBOOGIE WITH STUについて書いてみます。

STUはローリング・ストーンズの6番目のメンバーと呼ばれている、ブルース専門のキーボード・プレイヤー、イアン・スチュワートのことです。ストーンズ結成の際プレイには問題がないが、当時のロック・バンドのメンバーの出で立ちとは異なる風貌という訳のわからない理由で、正式のメンバーになることが出来ませんでした。そのため彼はストーンズのロード・マネージャーのオファーを受け、ブルース系のキーボードが必要な時はその都度グループに参加して演奏していました。

そのため、ストーンズのマネージャーからメンバーになる事を拒否されたにもかかわらず、黙々と仕事をこなしていった事からストーンズのメンバーからは慕われていたようです。残念ながら 1985年になくなりました。

そのイアン・スチュワートが1971年ツェッペリンのメンバーとスタジオで即興のジャム・セッションを行った際の音源がこの曲です。原曲は故リッチー・バレンスという人のOOH, MY HEADという曲で、過去の歌詞の引用に対するクレイムに懲りて、今回はツェッペリン、イアン・スチュワートとバレンス夫人の共作という事でクレジットされていたのですが、バレンス夫人サイドは、共作ではないと異議を唱えていたとの事です。


ツェッペリン・クラスになると、レコードの売り上げが莫大となり、印税の額も半端ではありません。これらのクレームも有名税の一部と考えなければならないのですかね~ 

助手:博士! イアン・スチュワートの1963年頃のマーキー・クラブでの写真を見ると、オールバックの髪型でもみあげが長いのです。だけどビル・ワイマンと比べてもそんなに、ルックスがダメとは思えないんですが。

博士:そうじゃのう~ もし髪型が丸刈りであれば、当時のビート・グループのメンバーになるのは難しかったかもしれんが。わしの時代は、男子学生は全て丸刈りじゃった。文化祭でバンドを組んだ連中も全員丸刈りで、ビートルズやCCRの曲を演っていたのう~ それが普通で特に違和感はなかったが。

助手:博士も丸刈りだったのですか?

博士:当たり前じゃ! 生徒手帳に校則で男子の髪型は丸刈りと書いてあったからのう。子供が多かったから、生徒数が1000人を超える中学校なんてザラじゃった。その半分が丸刈りじゃったから、全校集会などでは、まるで甲子園の開会式のようにズラット丸刈り頭が並んでいて壮観じゃった。

私:そういえば、その昔、日本に初めて来たアメリカ人をあちこち案内した時、 “日本にはたくさんのアーミー・スクールがあるなー”と言われました。

助手:丸刈りと詰襟の制服をいく先々で見たからですね。

と本題から外れた懐かしい話は続いていくのでした。

Led Zeppelin - Black Country Woman

学生時代、アフロヘヤースタイルの友人が、ヘイ、ヘイ、ママ~ とこの曲をよく歌ってました。 但しヘイ、ヘイ、ママ~の後は 何たらかんたらと意味不明の英語でした。

観たか? 聴いたか? 問答無用のハイブリッド・ハード・ロック !、レッド・ツェッペリン IV

2015年05月20日 | LED ZEPPELIN関連
レッド・ツェッペリン III の出来に自信を持っていたジミーペイジは III が II の売り上げと比較すると思ったほど売れずに不満を感じていたと思われます。

レッド・ツェッペリン IIIを今聴いても、個人的にはアコースティックな曲を含めて非常によくできたアルバムと思います。すなわち、その比較があくまでもスーパーアルバムだった IIと比べてであって、 現実的にみれば全米と全英ともに1位になったトップセラーのアルバムなので、なんとも贅沢な不満だったと言えるでしょう。

売り上げの減少は、III が II の続編のハード・ロック路線になるであろうとと期待して肩透かしを食らった人たちの反応だったのでしょう。それによってレッド・ツェッペリンのメンバーのプライドが傷つけられたかどうかはわかりませんが、少なくとも次作の問答無用のアルバムを作るモチベーションになったのではと思われます。

III を発売後1年以上、新譜の発売やツアーなど表舞台から消えるというリスクを犯し、ついに1971年11月に発売されたのが、彼らの4枚目の“名無しのアルバム”です。レコード会社の反対を押し切って、アルバム・タイトル、バンド名や管理番号の表記が全くなく、またメンバー自身の写真もなく名前は記号表記という前代未聞の発売形態をとりました。よっぽど自信があったのでしょうね。

アルバムの印象を簡単に述べると、更に進化したエレクトリックとアコースティックサウンドの融合により、彼らのマスターピースと言える新しい新種のロック・アルバムが完成したと言えるでしょう。 あまりにも有名な曲ばかりですので個別の曲の解説は割愛し、別の興味深い点について書き記します。

まず、天国への階段という曲の構成は、前半のアコースチック・ギターのサウンドから後半のエレクトリック・ギターのサウンドにと転換していきます。

スタジオではオーバー・ダビングで録音ということになりますが、ライブでの再現で登場するのがあのGIBSON EDS-1275のダブルネック・ギターです。IV 発売後のライブから使われ、ジミー・ペイジのトレード・マークとなります。かっこいいですね~。

その後ダブルネックが多くのミュージシャンによく使われるようになったのはご存知の通りで、私の時代でよく思い出されるのは、マハビシュヌ・オーケストラのジョン・マクラフリン、WINGS OVER THE AMERICAでのデニー・レーン、ラッシュのアレックス・ライフソンーなどなど、またYESのスティーブ・ハウはダブルネックの印象はなく、ステージに固定したギターと肩にかけたギターを使い分け、そしてクリス・スクゥワイアは3本のネックを使用していたと思います。


それから、このアルバムは世界の販売累計で3700万枚を売り上げたスーパー・アルバムで、言うまでもなく 全英1位に輝いたのですが、全米ではどういうわけか2位止まりとなっています。

何が彼らの指定席である全米1位を邪魔したのか調べてみますと、
1971年11月:サンタナ3
1971年12月:スライ&ファミリー・ストーンのTHERE’S RIOT GOIN ON
1972年1-2月:キャロル・キングのMUSIC
1973年3月:ドン・マクリーンのMERICAN PIEとニール・ヤングのHARVEST
1972年4月:アメリカのデビューアルバム、AMERICA
1972年5月:ロバータ・フラックのFIRST TAKE
1972年6月:ジェスロ・タルのTHICK AS A BRICK
1972年6-7月:ストーンズのEXILE ON THE MAIN STREET
1972年7-8月:エルトン・ジョンのHONKY CHATEAU
1972年8-10月:シカゴのCHICAGO V
1972年10-11月:カーチス・メイフィールドのサントラ、SUPERFLY
1972年11月:キャット・スチーブンスのCATCH BULL AT FOUR CHATEAU
1972年12月:ムーディー・ブルースのSEVENTH SOUJORN

なるほど、全米1位の入れ替わりは非常に激しく、英国勢が結構検討しているのとアメリカ人の好みがわかり興味深い結果です。  

タイミングが悪く全米1位は達成出来なかったものの、この問答無用の“名無しのアルバム”によってアルバム売り上げナンバーワンとコンサートが常時満杯となり、次回のアルバム制作も彼らの主導と成ります。

Led Zeppelin - Rock And Roll


ハード・ロックだけではない! 進化のアコースティック・ミュージック、レッド・ツェッペリン III

2015年05月19日 | LED ZEPPELIN関連
昔は、もし有望な商権を獲得すれば、少なくともその商権を維持することにより10年、20年と企業が存続することが出来ました。しかし、物事の移り変わりが激しい現代においては、そのような甘い商売は存在しなくなり、たえずマーケットの先を見据えながら進化しないと生きていけない厳しい時代となりました。ブランドの力を過信して、それににあぐらをかいていると一瞬のうちにマーケットから消えてしまうことになります。某総合家電メーカー が、つい最近まで大型の液晶画面のテレビをさかんにTVコマーシャルで宣伝していましたが、今はみる影もありません。

と愚痴をこぼしたくなる今日この頃です。

それでは本題に、

1970年に発売されたレッド・ツェッペリン、第3弾のオリジナル・アルバム、 レッド・ツェッペリンIIIは、ジミー・ペイジにとっては自信作であったと思います。

レッド・ツェッペリンは、 単なるエレクトリック・ハードロック・バンドではなく、多彩な表現能力を持ったバンドであることをアピールしたいと思ったのか、今回大胆にもはA面に1曲そしてB面の5曲の全てにアコースティックなトラッド・フォークやブルースぽい曲を配置しました。特に、A面の2曲目のFRIENDSという曲は、弦楽器のアレンジを外すとスティルス・クロスビー&ナッシュの曲のように感じるのは私だけではないでしょう。しかしながら、それを単純に彼らの曲の模倣ではないかというのは的外れだと思います。

なぜなら、すでにレッド・ツェッペリン Iで2曲がアコースティック・ギターとエレキギターの併用の曲、そしてエレキ・ギターが登場しないBLACK MOUNTAIN SIDEという曲を収録しています。またレッド・ツェッペリン IIでも同様にアコースティック・ギターとエレキ・ギターが併用された曲を収録しています。すなわち、レッド・ツェッペリン I と II で登場したアコースティック・サウンドを IIIでジミー・ペイジ好みに進化させたものと捉えた方が適切だと思います。

ただ、今までレッド・ツェッペリン I と II のハードロックに酔いしれていたリスナーにとっては、欲求不満のサウンドに映ったと思います。確かに、アコースティックのフォーク・サウンドに合わして熱狂的に踊り狂うということは出来ませんからね。

というわけで、このアルバムの評価は賛否両論あり、ハードロック・サウンドの移民の歌などの健闘もあり全米と全英の両方でチャート1位を獲得したものの、売り上げは前作に比べて半分程度となりました。

しかしながら、このアルバムに対するリスナーの反応でリスナーが彼らに何を求めているかも理解できたと思えるし、またそれ以上に次作でリスナーをあっと驚かすようなアルバムを制作しようという野心も芽生えたのではないでしょうか。

そういう意味ではレッド・ツェッペリン III は彼らのターニング・ポイントになるアルバムで、その後もトップバンドの地位を保ちながら、更に進化を続けていくことになります。

移民の歌 Led Zeppelin

その通り、これがハード・ロックというものである。レッド・ツェッペリン II

2015年05月18日 | LED ZEPPELIN関連
レッド・ツェッペリン I の大ヒットを受けて、アメリカのアトランティック・レコードよりせっつかれて翌年の1969年に発売されたのが、第二弾のオリジナル・アルバム、 レッド・ツェッペリンIIです。

前回のアルバムは、ブルースの香りは所々に感じられるが、ジミー・ペイジの巧妙なアレンジにより、いままで聴いたことのないハードなサウンドが印象的でしたが、第二弾は更に進化させたアレンジを導入したハード・ロックに仕上がりました。そして、20世紀末までに世界で1900万枚を売り上げるスーパー・アルバムとなり、またその後登場するハード・ロックやメタル・ロックのバンドに大きな影響を与えました。

個人的にも非常に大好きなアルバムで、ジミー・ペイジのギターのリフ、ジョン・ポール・ジョーンズのベース・ランニング、ジョン・ボーナムの迫力あるドラミングそしてロバート・プラントのすざましいシャウトと、どれを取っても超一流のサウンドです。

多分ご存知の方もいられると思いますが、このアルバムの数曲に既存のブルースの曲から歌詞などが引用されたにも拘らず、オリジナルの作者名がクレジットされていなかったことから、後日クレームを受けました。ちなみに、A面の1曲目WHOLE LOTTA LOVEはウィリー・ディクソンのYOU NEED LOVE から歌詞を引用、3曲目の THE LEMON SONG とB面の5曲目BRING IT ON HOMEなども同様に引用がありました。

まあ、ブルース自体がトラッドなど作者不詳の音楽を取り入れている場合もあるので、ブルースをオマージュとして新しいサウンドを作り上げることに関しても同様に寛容であるべきはないかという考えも有ります。レッド・ツェッペリンのロックに対する創造力は群を抜いており、サウンドの面ではまったく別物の曲になっているので、制作時にクレームの対象になるようなものではないと思われていたのでしょうか? また、アトランティック・レコードが 2枚目のアルバムの早期制作を強烈にプッシュしてきためツアーの合間の限られた時間でのレコーディングが行われました。そのため、そこまで考える余裕がなかったのかもしれません。後日これらのクレームがついた問題は、当事者同士で話し合いが持たれ一応解決したようです。


それでは、大音量でレッド・ツェッペリンのハード・ロック楽しんでください 。

Led Zeppelin - Whole Lotta Love


参考までに、

オリジナルレコードの曲のクレジット。WHOLE LOTTA LOVEはジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナムとロバート・プラントがクレジットされている。


1994年のCD、WHOLE LOTTA LOVEのみのクレジットが訂正され、ウィリー・ディクソンが追加されている。他の曲のクレジットはレコード盤と同じ。


2008年のSHM-CD紙ジャケでは、どういうわけか、曲の作者のクレジットの記載が一切なくなっている。

こ、こ、これがハードロックというものなのか~ 恐ろしいものだ~、レッド・ツェッペリン

2015年05月17日 | LED ZEPPELIN関連
ビートルズやストーンズなど超有名グループの記事をブログにアップするとなるとかなりプレッシャーがかかります。なぜなら、超有名グループには数多くのディープなファンの方々が存在し、それらの方々のグループに対する知識や一家言などを比べますと、このブログの内容では上面をなぞっただけのノービス級の文章だと言われかねないからです。

しかしながら、そのような厳しい指摘をあまり意識しても駄文は駄文ということで開き直って、今回も無謀にもかかわらず超有名グループ、レッド・ツェッペリン I について書いてみます。

1968年に4人のヤード・バーズのメンバーのうち3人が脱退し、ジミー・ペイジのみが残りました。バンドを継承していくには、契約の残っている北欧のライブ・ツアーを実行することでした。

ボーカルのロバート・プラント、ベースのジョン・ポール・ジョーンズそしてドラムスのジョン・ボ-ナムを新しいメンバーとして迎え 、ニュー・ヤード・バーズとしてライブ公演を行い、帰国後、レッド・ツェッペリンに生まれ変わりました。ファースト・アルバムは、たった36時のスタジオ・ワークで完成したと言われています。当然ライブ公演中、バンドとしての音合わせはしていたと思いますが、短時間での完成はやはり個々の能力が高かったからでしょう。

アルバムには、ウイリー・ディクソンの2曲(YOU SHOOK MEとI CANT QUIT YOU BABY)のブルース・ナンバーのカバーそしてブルースのフレーズの入った自作曲が含まれていますが、アルバム自体を表現しますとやはり新種のハード・ロックと言えるのではないでしょうか。単なるエレクトリック・ブルースの再現ではなく、ブルースの香りは所々に感じられるが、ジミー・ペイジの巧妙なアレンジにより、いままで聴いたことのないロックだと認識されたことが大ヒットに繋がったのでしょう。全米10位、全英6位の大ヒットとなる。

レッド・ツェッペリンはオン・タイムでは聴いていなく、レット・イット・ビーが日本で発売され、その人気が一巡した70年代始めの頃、近所の兄貴が持っていたレコードを借りて聴きました。当時はビートルズなどのメロディアスなロックに親しんでいたため、それとは違った異次元の破壊力を持ったそのサウンドに打ちのめされ、一回聴いたのみでレコードを返しに行ったような記憶があります。

それから、今回調べていて初めて知ったのですが、1966年にジェフ・ベックがヤード・バーズから脱退し、 ジミー・ ペイジもなんとなく意気消沈していた頃、ジェフのベックズ・ボレロのレコーディングに キース・ムーンと一緒に参加しました。その際お互い閃いたものがあったようで、新グループの構想が持ち上がりました。ギターはペイジとベックで、ベースとドラムスにTHE WHOに在籍していたキース・ムーンとジョン・エンストルウイット、そしてボーカルにSMALL FACES のスティーブ・マリオットかSPENCER DAVIS GROUPのスティービー・ウィンウッドのどちらかだったとのことです。またLED ZEPPELINという名前は、キース・ムーンかジョン・エンストルウイットがLEAD ZEPPELIN(鉛のツェッペリン)と言ったことから付けられたとも言われています。

誕生すればすごいグループとなったのでしょうが、個性が強い人達ばかりですから、そのぶつかり合いによってアルバムが1枚完成するかしないかのうちに解散となったのではないかと思います。今まででもスーパー・グループと称されるものは数多くありましたが、いずれも短命に終わっていたからです。

それでは、大音量でレッド・ツェッペリンのハード・ロックなるものを聴いて、打ちのめされてみて下さい。

とはいえ、今では 多分普通の音に聞こえるかも知れませんね? 

昔はボブ・ディランがアコースティック・ギーターからエレキに落ち変え、大音量でかき鳴らしただけで、賛否は別として多くの人がぶっとんだ時代があったのですがね~。 ディラン曰く、時代は変わる。

Good Times Bad Times - Led Zeppelin (Studio Version - Best Quality)

B. B. KING、永眠

2015年05月15日 | AMERICAN ROCK/POPS
ここのところ2回続けて物故されたブルース・ギタリストのアルバムについて書いていたら、偶然なのか、先ほどブルース・ギタリストのキング、B. B. KINGが5月14日に亡くなったというニュースが飛び込んできました。

御歳89歳だったとのことで、十二分にブルース・ギター人生を全うされたのではないでしょうか?

機会があればB. B. KING、そしてジミヘンやロバート・ジョンソンについてもいつか書いてみたいと思います。

合掌

B.B. King & Eric Clapton - Riding With The King



エリック・クラプトンのフェンダーとB. B. KINGギブソンが仲良く並んでいます。


スーパー・セッションは美味しい企画?

2015年05月15日 | AMERICAN ROCK/POPS
すいません~、もう一人偉大なブルース・ギタリストを失念していました。

60年代、シカゴ・ブルースで有名なバタフィールド・ブルース・バンドやエレクトリック・フラッグに在籍していた、マイク・ブルームフィールドのことです。

驚異的な早弾きはないのですが、伸びやかで美しいギター・ソロはまるで歌っているかのように聴こえ、うっとりします。彼は、ブルースだけでなくジャズ(特にジョン・コルトレーン)やインドのラーガなどにも興味があり、これらのフレーズを演奏にまじえることもありました。この人も早逝の運命で、残念ながら1981年、37歳でこの世を去ります。多分ドラッグのやりすぎが影響したのでしょう。

今回は、1968年制作された、スーパー・セッションのアルバムを紹介します。

ソロ活動以外に、ボブ・ディランのレコーディング・セッションに参加したり、ブラス・ロックの雄ブラッド、スエット&ティアーズの創始メンバー、またレーナード・スキナードの初期3枚のアルバムをプロデュースし成功を修めた、キーボード奏者のアル・クーパーが、マイク・ブルームフィールドにセッション・アルバム制作を呼び掛け彼からの賛同を受け、2日間レコーディング・スタジオをブックしました。

1日目は無事終了したのですが、2日目にマイク・ブルームフィールドが体調不良(多分ドラッグの影響)ということでスタジオに現れませんでした。スタジオは2日間しかおさえていなかったので、急遽ピンチ・ヒッターとして呼ばれたのが、バッファロー・スプリングフィールドに在籍していたスティーブン・スティルスで、代わりにギターを弾くことになりました。そのため、レコードのA面は1日目のマイク・ブルームフィールドでのセッションが収録され、B面は2日目のスティーブン・スティルスが担当するセッションを収録するという変則的な制作になりました。

しかしそのことが却ってバラエティーに富んだアルバムとなったのではないでしょうか? エリック・クラプトンのアルバムのように、シングル・ヒットするキャッチーな曲がいくらか含まれていれば別ですが、普通ブルース一本で勝負するとなると大ヒットは到底望めないことです。結果、この手のレコードとしては異例の全米12位でゴールド・ディスク獲得となる大ヒットを修めました。

たった2日間のスタジオ・ブッキング、数名のセッション・プレーヤの確保と後日のホーン・セクションのダビングの作業など最低限の費用で大ヒットが成し遂げられてたので、レコード会社としては笑いが止まらず、この手のスーパー・セッションの制作がこの後よく行われました。

A面はマイク・ブルームフィールドのギターが炸裂、そして3曲目のHIS HOLY MODAL MAJESTYは、前年に死去したコルトレーンに捧げられたジャズタッチの曲で、あたかもコルトレーンがテナー・サックスで吹くようなフレーズを彼のギターで再現しています。またB面はスティーブン・スティルが在籍していたバッファロー・スプリングフィールド系のサウンドに近く、乾いたギター・サウンドが特長です。まあスティーブン・スティルスとしては急に呼び出され、その当日にジャム・セッションへの参加となったわけですから, 時間的に彼がいつもやっている以外の奏法では弾きようもなかったのでしょう。

そして、ロック、ブルース、フォークそしてジャズとなんでもこいのアル・クーパーはカメレオンのごとく、二人のギタリストのそれそれの個性に合わせるようにキーボードを絡ませていくます。

それでは一曲目のアルバート・シャッフルで伸びやかなギター・ソロ聴いていてみてください。思わずエヤー・ギターのポーズでフレーズ口ずさんでしまいます。 

Mike Bloomfield, Al Kooper, Steven Stills - Albert's Shuffle

ギター殺人者、ロイ・ブキャナン

2015年05月14日 | AMERICAN ROCK/POPS
THE WORLD’S GREATEST UNKNOWN GUITARIST といえば、やはりこの人でしょう。そう、ロイ・ブキャナンです。トレード・マークのフェンダーのテレ・キャスターで、ブルース、ハード・ロックやカントリーなど、なんでもこなすことの出来るスーパー・ギタリストです。アルバムやシングルのヒットなどの商業的な成功を特に望まず、自身のやりたいようにアルバムを制作していったことから、UNKNOWN GUITARISTと形容されています。

当時エリック・クラプトン、ジェフ・ベックやゲーリー・ムーアなど名だたるギタリストから注目されていたことから、彼のギター・テクニックがいかに凄かったかはここで特に説明するまでもなく、容易に想像がつくものと思います。ソロ・ギターを溜めに溜めて弾き、ピークに差し掛かると圧倒的な早弾きに転じ音の連射が始まり、リスナーは音の弾丸を浴び続けることとなります。ジェフ・ベックのBLOW BY BLOWの邦題であった”ギター殺人者”とはロイ・ブキャナンに与えられるべき称号だと個人的に思います。

今回紹介するのは、1975年ポリドール・レーベルから発売された6枚目のLIVE STOCKと言うアルバムで、文字通りライブ盤です。当時、アトランティック・レーベルから移籍の話があり、 ポリドールとの契約を満了させるために出されたものです。

この手の話は業界ではよくあることで、条件の良い契約話が持ち上がると、スタジオ録音のアルバムを出す代わりに、手っ取り早くライブ盤を出し最後の契約を履行します。しかしながら、ロイ・ブキャナン自身がスタジオよりライブにおいて力が十二分に発揮されるギタリストであったことから、このライブ・アルバムは単に帳尻を合わすためのやっつけ仕事のレベルではなく、非常に出来の良いアルバムに仕上がりました。

その後、1988年の7月、警察沙汰のトラブルがあり留置場に入れられてしまい、当時彼がどのような心境だったかは計り知ることはできませんが、残念ながら、その留置場で首をつり自らの命を絶ちました。

アメリカの有名な白人ブルース・ギタリストでジョニー・ウィンターを除いては、何故か、デュアン・オールマンやスティーブ・レイ・ボーン、そしてロイ・ブキャナン達は短命という運命でした。ブルースの伝道師としてもう少し長生きしていてくれたならと思うのは私だけではないでしょう。

LIVE STOCK の中からHOT CHAを聴いてください。コテコテのブルースではなくこのような曲もいいですよ。

Roy Buchanan - Hot Cha



1986年ブルース専門のレーベル、アリゲーターから発売されたアルバム、DANCING ON THE EDGE, レス・ポールも弾いていますね。
一曲目は、ELPでおなじみのPETER GUNNを演奏してます。