CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

新説 IN THROUGH THE OUT DOOR の意味

2015年08月31日 | LED ZEPPELIN関連
助手:博士! アルバムのタイトルってどうやってつけるのですかね?

博士:明確なコンセプトがあれば、レコーディング前にタイトルは出来ておるじゃろう。しかし、普通レコーディングを開始すると、当初持っていたコンセプトが途中で変化する場合もあるので、先に仮題を設定しレコーディング後に、再度検討する場合が多いと思うが。

助手:レッド・ツェペリンの1979年のスタジオ8作目にあたるIN THROUGH THE OUT DOORはどうでしょうか? 

WIKIには、”ロバート・プラントの子息が急逝した事による活動停止とパンク・ロックの隆盛から、レッド・ツェペリンは過去の遺物であるという議論が巻き起こった。それに対して、新しいスタジオ・アルバムに“ドアの外側から内側へ”という意味を込めIN THROUGH THE OUT DOORと命名した”と訳のわからない事が書いてありますが…

博士:本当に意味不明じゃ。わしは、英語の先生でないから、正確でないかもしれんが、THEという冠詞の後にOUTとDOORの単語が独立している事から、THE OUT DOORは、“出口の扉”と解釈したい。海外に行くと出口専用の扉にOUTと表示されているのを見た事があるのじゃよ。

すなわち、IN THROUGH THE OUT DOORは、出口の扉を抜けて中に入る、すなわち”いつもの行動とは逆である”という事を意味しているのではなかろうか?

助手:なるほど、今回のアルバム制作は、ペイジがドラッグ中、ジョン・ボーナムがアル中の影響で万全ではなく、ジョン・ポール・ジョーンズとロバート・プラントが主となり、今までとは全く異なる形でのアルバム制作と成りましたからね。

博士:多分録音終了後、ペイジが自身のスタジオで最終ミックスを行った時に、 今までとは違うやつという意味で、IN THROUGH THE OUT DOORとタイトルを決めたのではないだろうか? 

このアルバムの印象としては、前作のプレゼンスを引き継ぐ内容ではなく、むしろ6作目のバラエティーに富んだ内容のフィジカル・グラフィティーを軽くしたものように感じる。今までのハードでキャッチーなギター・リフもそれほどなく、ドラム演奏もかなりソフトに仕上げられている。時代に合わせ、ちょっと路線を変更してみたかったのかもしれないのう。

助手:副題をつければ、ZEP NOW! という感じですかね。

博士:ペイジはIN THROUGH THE OUT DOORの後、以前のような ハードなギター・リフとヘビーなドラムを盛り込んだアルバムを制作したかったみたいじゃ。残念ながら、ジョン・ボーナムの急逝により実現はしなかったがのう。

コアなファンの要求を完全に満足させる事は出来なかったが、ZEPとしての楽曲の水準は保たれ、ヒプノシス制作の特殊ジャケットも話題となり、全米・全英それぞれ1位に輝き、アメリカだけでも累計売上が650万枚以上という大ヒットとなった。さすがはZEP。博士も、いい加減な新説を唱えるのではなく、もっと地道にしっかりとした記事を書きブログの人気を向上させて欲しいものである。

紙袋の中に、レコードを収めるインナージャケットが入っており、インナージャケットは6種類あり、どれが入っているか紙袋から出さないと判らない趣向であった。

博士:心得た! それでは、ペイジの人気にあやかって、地味頁のペンネームで記事を書こう!

いや~ そういう問題では…

今日ちょっと思った事

2015年08月30日 | 考察シリーズ
サイモンとガーファンクルの明日にかける橋のCDを取り出し久しぶりに聞いてみた。昨年発売のボックス・セットで復刻された紙ジャケットのやつ。

1970年発売されたこのアルバムは、アメリカイギリスだけではなく欧米各国ではチャート1位を獲得(日本、オリコン11位)。

また、アルバムからカットされた4枚のシングル(ボクサー・明日にかける橋・セシリア・コンドルは飛んでいく)は、それぞれ7・1・4・18位と大ヒットを記録。

改めてその内容に触れるまでもなく、多くのリスナーが賞賛した素晴らしい内容の大ヒットアルバムだった 。

少し状況は異なるが、ビートルズがアビー・ロードを出した時のように、完璧なアルバムを作ってしまうと、 リスナーは次作にさらに進化したアルバム、最低でも同等レベルのものを期待するのは常で、 その制作にかかるプレッシャーは並大抵のものではなくなる。

息抜きがどうしても必要となり、バンドであったら、全てをやり尽くしたと言うような理由で解散もしくは活動停止と成る。また、ディープ・パープルのように、メンバーを入れ替えて 目先をかえ、バンド存続を計る例もあるが、そのような努力をしてもどこかで バンドを継続していく事に行き詰まる。

その観点から考えると、ストーンズというバンドは、すごいバンドだと思う。

彼らが新しいアルバムを制作する毎に、前作を超えて進化しなければならないというプレッシャーがあったかどうか、知る術はないが、ベガーズ・バンケットを出した頃から、それまでの音作りではなく原点回帰を目指したように思えるのだが…

その後に出すレコードは、その時々のトレンドは消化吸収し、ストーンズなりの解釈で楽曲に表現するのだが、基本的にはやっている事はそれほど変わってはいないように感じる。すなわち少し言葉は悪いかもしれないが、“偉大なるマンネリ”とだ思う。

マンネリとは、英語のマンネリズム(形式もしくは様式主義)が日本語になったもので、日本的な意味としては“飽きが来る”とか“ネタ切れ”とかの否定的な意味に使用される場合もあるが、マンネリこそが長続きの秘訣であると思う。

日々の生活は、マンネリの連続で特別の出来事はそれほどない。変化の連続で毎日が充実しているなどと言う人もいるが、それはあくまでも対応の出来る変化に対してである。もし対応する事のできない大きな変化が連続してその身に起きる事になると、大抵の人はプレッシャーに押し潰され事になるのでは…

あまり意識しないで ルーティーンに沿った行動で、日々の時間を着実に消化していく事により、長続きが出来るでは?

ところで昨今の紙ジャケCDは完全復刻を目指していて、このCDにも米オリジナルのレコードに添付されていたと思われる、インナーが再現されている。それの裏を読むと、

インナー表

インナー裏

THE BEST FOR LESS
録音された媒体(メディア)の中では、レコードは最高の品質であり且つ安価である。
オープン・リール・テープは、音質は良いが値段が高く、コンパクト・カセットはオープン・リール・テープと比べると、当時音質的にはまだかなり差があったのと、また再生装置であるコンパクト・カセット・デッキが一般に普及していない高価なものだった。

THEY ALLOW SELECTIVITY OF SONGS AND TRACKS
再生するためセットされた面において、トーン・アームを移動させるだけで、好きな位置から瞬時に再生出来る。

THEY’RE THE TOP QUALITY IN SOUND
表面上は1948年に導入された当時の技術にみえるが、数え切れない進化した技術の導入により、音楽再生媒体としてLPレコードはベストの品質であると言える。

THEY’LL GIVE YOU HOURS OF CONTINIOUS AND UNINTERRUPTED PLEASURE
オート・チェンジャーのレコード・プレーヤーを使用することにより、数時間の再生継続がレコード交換の手間なしに楽しむことが出来る。
昔、数枚のLPレコードがセットできたオート・チェンジャー・プレーヤーのことであろう。再生が終了すると、トーン・アームが元の位置に戻り、上から別のレコードが一枚ずつ落ちてきて再生をスタートするやつである。

THEY’RE ATTRACTIVE, INFORMATIVE AND EASY TO STORE.
オープン・リール・テープと比べて、収納に場所を取らないのと、ジャケットのデザインを楽しんだり、ジャケ裏に記載された曲の情報や解説を読むことが出来る。

IF IT’S IN RECORDERD FORM, YOU KNOW IT’LL BE AVAILABLE ON RECORDS
音楽だけでなく、映画、コンサート、ドラマなどの長時間の記録可能な音源であれば、それらはLPレコードという形で発売され、手に入れる事が出来る。

THEY MAKE A GREAT GIFT
思い出になる贈り物にはぴったり。

などなどと記載されていて、デジタル時代到来のはるか昔の、60年代から70年代にかけてのレコードの時代がよく表現されている。

アナログ・サウンドの波形にほぼ近似させる事の出来るデジタル・ハイレゾ音源の登場によって、LPレコードの優位性はあまりなくなったにも関わらず 、LPレコードは今でも細々ではあるが製造されてる。

当然、小さなCD紙ジャケから得られる事のできない、 オリジナル・ジャケットのアートを楽しむ事や、記載されているデーターを読んだり出来る利点があるのもその理由の一つだが、それ以外にレコード音源の再生準備における余計な手間や再生装置のある室内でしか聴く事の出来ない不便さなどを、懐かしみまた楽しんでいるのでは…

シンプルなハイレゾ音源の再生においてマンネリを感じ、不便で手間の掛かるアナログ再生に回帰しているのだろうか?

レコードというメディアがCDの登場で完全になくなるのかと思いきや、趣味とは便利さや効率などでは捉えられない奥の深い世界であると感じる今日この頃でした。

シンガにマジカル・ペパー軍曹を見た

2015年08月28日 | BEATLES-BADFINGER関連
ちょっとシンガポールに出張していました。

赤道直下の熱帯気候とは言え、日本の夏の方がはるかに暑い。

ところで、今までシンガポールの街並みの写真をほとんど撮ったことがないので、今回ブログに掲載しようと思って撮ってきました。


建設中のビル。遠くから見たら、赤い色のネットを足場に取り付けているのかと思った。しかし近くに行くとメッシュの入った装飾用の赤サビ色のパネルがビルの外装に沢山取り付けられていた。またビルのど真ん中に四角い穴が空いている。なんと斬新なデザイン。


草木が植えられたスカイガーデンなる渡り廊下でつながった高層アパート、もし大きな地震があれば渡り廊下が下に落ちるような気がする。まあ、シンガポールはほとんど地震が起きないので、このような奇抜なデザインもオーケーみたい。


チャイナタウンの近くのサウス・ブリッッジ・ロード、遠くから、中国の寺院、インドの寺院、そして薄緑色のイスラム寺院と寺院三軒が仲良く勢揃い。


旧マジェスティック・シアター(映画館)、レトロ感覚に溢れた建物。


ドリアン、食感はチーズみたいな感じ。匂いがきつすぎて食べられない人も。


おなじみのシンガポール・スカイライン、高層ビル群。右端のUOB PLAZAは、都庁を設計した丹下健三氏のデザインなので、都庁とよく似ている。

以前記したように、シンガポールの中心街にあったCDショップはほぼ壊滅だったので、今回は空いた時間にレコード・ショップを調査してみた。

中心街から外れたショッピング・センターに小さな規模で、何軒かひっそりと残っていた。
最近プレスされた新品のレコードと中古の物を扱っていた。日本からも中古も仕入れているみたいで、帯付きの物も散見された。

中古の価格は結構高く、VGクラスで2500円から3500円程度ではないか。欧米から仕入れている中古もVGクラスかJUNKレベルのもので、中古を買うなら質的にも値段的にも日本で買うのが間違いないかと。ヤフオクなんかでも、業者や特定のマニアらと競り合わなければたまに掘り出し物が安価で落札出来る。

今回、1970年頃にシンガポールでプレスされたと思われるビートルズのサージャント・ペパーとホワイト・アルバムに遭遇した。マニアの方ならよくご存知と思うが、各国盤の編集はその国のセンサーによってオリジナル盤と異なる選曲と成っていることがよくある。先回のヘイ・ジュードのスペイン盤ではジョンとヨーコのバラードが削除されていたように、シンガポール盤もオリジナルとは異なる。

A1 SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND
A2 THE FOOL ON THE HILL
A3 BABY YOU'RE A RICH MAN
A4 GETTING BETTER
A5 SHE'S LEAVING HOME
A7 BEING FR THE BENEFIT OF MR. KITE
B1 WITHIN YOU WITHOUT YOU
B2 WHEN I'M SIXTY-FOUR
B3 LOVLY RITA
B4 GOOD MORNING GOOD MORNING
B5 SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND(REPRISE)
B6 I AM THE WARLUS

サージャント・ペパーとマジカル・ミステリー・ツアーが合体したような選曲だ。ジャケ裏は、歌詞は記載さてていなく、曲目のみのクレジットである。

また、ホワイト・アルバムではHAPPINESS IS A WARM GUNがたぶんセクシャルな情景を思い起こす表現があったから削除されていた。
ホワイト・アルバムのジャケットはコーティングされていなく、少しザラザラ感のある紙質だった。通しナンバーはなく、歌詞が書かれれたポスターと4枚のポートレートも付いていなかった。完品でなかったのかそれとも元々付いていなかったのかはわからない。

また、一定量以上のドラッグを持っていると極刑になるお国柄から、WITH A LITTEL HELP FROM MY FRIENDとLUCY IN THE SKY WITH DIAMONDの差し替えは、ドラッグ関連の表現があったからだと思うが、A DAY IN THE LIFEが I AM A WARLUSに差し替えられたのはどのような理由なのか? 歌詞の内容は、過激でもなくまた直接ドラッグと結びつく単語もでてこない。強いて言えば、HAD A SMOKE と歌ったところが、タバコを意味したのではなくドラッグと解釈したのか? はたまた、支離滅裂な内容の詩がドラッグを吸って書かれたように捉えられセンサーに引っ掛かったのかな?




ヘイ~ ジュ~道 一直線

2015年08月23日 | BEATLES-BADFINGER関連
1970年2月にマジカル・ミステリー・ツアーに続いてアメリカ・キャピトル・レコードよりコンピ盤として発売されたのが、HEY JUDEだった。(全米2位)

このアルバムについて、思い浮かぶことをまとめてみよう。

1. 1969年当時ビートルズは、ポールに対して残りのメンバー3人の構図で、内輪もめしていた時期で、その間隙をついてスルスルと入り込んできたアランク・レインなる人物が、ブライアン・エプスタインの後任のマネージャーの任命に関して、 ジョン、ジョージとリンゴの3名の後押しを得てその任を勝ち取った。

アランク・レインは、ABKCO(ALLEN & BETTY KLEIN AND COMPANY)をアメリカで経営し、ストーンズ、ハーマン・ハーミッツ、アニマルズなどの英国アーチストや、米国アーチスト、サム・クックらのアメリカにおける版権管理やレコード制作など行っていた。その実績からマネジメント権を託されたのだろうか? 

しかしミック・ジャガーは、ABKCOのマネジメントに不満を持っていたようなので、契約するのはやめておいたほうがよいとビートルズにアドバイスをしたそうな。その後、ストーンズは、LET IT BLEED を最後に契約を更新せずに自身のストーンズ・レーベルを立ち上げた。

ABBEY ROADの発売後、頓挫したGET BACK SESSIONの企画が一向に商品化されない空白の時期があり、美味しい契約を手に入れたABKCOは、そのオリジナル・アルバムが発売されない期間に於いて利益を出そうと企画したのが、過去の作品からなるコンピ盤のHEY JUDEであった。

その後、ABKCOはアップルとレコード販売権の契約をかわし、映画のサントラとしてLET IT BEをUNITED ARTISTの販売網でアメリカ発売した。例のレコード番号R-34001で赤いリンゴのロゴとゲート・フォールド・ジャケットのレコードである。

AN ABKCO MANAGED COMPANYと記載されています。

初回のプレスが売り切れ、キャピトル・レコードがUNITED ARTISTから、A HARD DAY’S NIGHTSとLET IT BEの版権を買い取りキャピトルから再発されるまでの1973-74年にかけて、LET IT BEの質の悪い海賊盤がアメリカで数多く出回った。恥ずかしながら、それを1枚所有している。

海賊盤の赤りんごレーベル、レコードのマトリックスやプレスした責任者の名前がなどの情報が記載された、レーベル外側のリム部分で本物かどうかを見分ける。

2. HEY JUDEに収録されたのは、キャピトル盤のアルバムに収録されなかった 曲やシングルのみで発売された曲で構成されていて、RAIN、 LADY MADONNNA、 HEY JUDE、 REVOLUTIONが初のステレオとミックスであるのが売り。

3. 当初は、THE BEATLES AGAINのタイトルで売り出す予定が、いまいちインパクトに欠けアルバム・セールスには貢献しないだろうと考えられ、急遽 ヒット・シングルのタイトル、HEY JUDEに変更。そのため、すでにプレスされてしまったレコードのレーベルにはアルバム・タイトル、THE BEATLES AGAINと記載され、HEY JUDE のアルバムジャケットに封入したまま発売された。

4. レコードのA面の収録時間が16分弱、B面が17分弱の編集のため、もし、そのフォーマットでカセット・テープに録音された場合、A面を聞き終えた後約1分のテープの空白の時間が出てくる。そのため北米マーケットでは、カセット・テープの収録に置いてでは、 B面の楽曲をテープのサイド1に収録し、A面の楽曲をその裏に収録。カセット・テープのサイド1を聴き、裏返してセットすればサイド2がすぐに始まるようになっていた。

しかしチャンネルを切り替える際、瞬時の頭出しが命の8トラ・カセットでは悲惨なことになっていた。
PROGRAM 1: CAN’T BUY ME LOVE、I SHOULD HAVE KNOWN BETTER、OLD BROWN SHOW
PROGRAM 2: PAPERBACK WRITER、DON’T LET ME DOWN,、LADY MADONNA
PROGRAM 3: HEY JUDE、RAIN(PART 1)
PROGRAM 4: RAIN(CONT)、REVOLUTION、BALLAD OF JOHN & YOKO
なんと、RAINがぶつ切りされていて、全てのPROGRAMの収録時間が大体同じ程度になるように再編集されている。

5. BALLAD OF JOHN & YOKOはスペイン盤では、収録されなかった。
YOU CAN GET MARRIED IN GIBRATAR NEAR SPAINと歌ったのが、当時スペインのフランコ政権が、ジブラルタルは英領ではなくスペイン領であるという主張に反したからかなのか? それともCHRIST, YOU KNOW IT AIN’T EASYとカジュアルにロック・サウンドに乗せて歌ったのが、スペイン・カソリック教会の逆鱗に触れたのか?

6. ヘイ~ ジュ~道 一直線 
このフレーズを今でも覚えている。友人の一人が、HEY JUDOを歌うと見せかけ、当時テレビでなんと2年ほど続くという大ヒットとなった30分物のスポ根ドラマ“柔道一直線”の主題歌の結びを引っ付けた、一発芸である。当時巷でこれが流行っていたかは記憶にない。

柔道一直線といえば、桜木健一扮する一条直也が柔道を通して成長していく姿を描いているのだが、出てくる技が半端ではない、一条直也の二段投げ、車周作の地獄車、城山大作の大噴火投げなど、柔道のそれではなくプロレスの必殺技である。また、近藤正臣が扮する結城真吾が、足でピアノの鍵盤を踏んで曲を演奏する名場面も印象に残っている。

一条直也のことを”イッチジョー”とイにアクセントを置いた発音をする外国人の武闘家がドラマに登場してきた頃ぐらいから、番組を見なくなったのではあるが、今思えば、大リーグで大活躍しているイチロー選手のことを、アメリカ人が”イッチロー”と発音するのと同じだと気がついた。

あれから45年も経つのに、この手のことはどうゆう訳か妙に覚えているものである。

存在感(PRESENCE)とは? レッド・ツェッペリン

2015年08月21日 | LED ZEPPELIN関連
1976年の7作目のスタジオ・アルバム、PRESENCEついに購入。

このアルバムは、チャートは全米と全英共に1位となるものの、彼らのオリジナルスタジオ・アルバム8枚の中で、売り上げは最も低かった。

前作、PHYSICAL GRAFFITI の約4分の1以下であった。とは言え、世界で350万枚も売り上げたのだから、他のバンドであれば大ヒットと言えるくらいのもので、レッド・ツェッペリンの人気のレベルが非常に高かったことを物語っている。 ちなみにその次に売り上げが少なかったのは、3枚目と最終作のIN THROUGH THE OUT DOORでそれぞれ650万枚と言われている。

何故、このアルバムの売れ行きが他のアルバム比べて低かったのか?

これは、ロバートプラントが1975年8月に交通事故に遭い、足に怪我を負ってしまったからではないだろうか? 

怪我のためステージに立つ事は不可能であったため、全米のコンサート・ツアーはキャンセルすることになり、その数ヶ月後に新譜のレコーディングに突入した。

長期のコンサート・ツアーを行なうと、疲労や消耗などの負の面もあるのだが、コンサートに於ける観客の熱気や反応は、時にバンドにとって新たな創作意欲を掻き立てる原動力にもなり得る。コンサートの熱気をそのままスタジオに持ち込むことにより、新たな音楽が生まれることは多々有る。

もちろんジミー・ペイジもその辺のことは、重々承知していたのかは知る由もないが、以前よりさらにハードかつソリッドなサウンドを目指し、キーボードを排し、ギター、ベースそしてドラムのみのシンプルな構成でレコーディングをスタートさせた。

このアルバムのベストテークといえば、ACHILLES LAST STANDとNOBODY’S FAULT BUT MINEの2曲になると思う。残りの曲は悪くはないが、レッド・ツェッペリンとしては及第のレベルではないかと思う。出来上がったアルバム全体のイメージは、暗いというか冷たいように思え、彼らの1枚目や2枚目のアルバムで感じた、熱気というものないように思えたのだが…

PRESENCEのコンパニオン・ディスクは、5曲でレファレンス・ミックスとなっているが、これを何度も聴くようなことがあるだろうか? 

最終的にミックス・ダウンされたオリジナルを聴くことで十分じゃないか思うのだが… 例えば、ROYAL ORLESNSの ダミ声ボーカルのバージョンを何度もリピートで聴くことがあるだろうか? 

唯一本編に収録されず、アウト・テークとなった、10RIBS & ALL/CARROT POD POD(POD)だが、イントロからピアノのソロが続き、半ばでギターやドラムの音が加わり、ロック・サウンド仕立てになっている。レッド・ツェッペリンとしては、目新しい趣向の楽曲であろう。

本編に収録されている曲と雰囲気が異なるため、没テイクとなったと考えられているが、例えば、ジャズの入門者がよく聴くところの、ビル・エバンスやキース・ジャレットらのピアノ・ソロと比べるとピアノ・ソロの箇所はそれほどの出来ではでもないようにも思えるのだが。それを発展させて次回のアルバムで新しい事を試みる実験的な曲と捉えれば、アウト・テークに成ったのは致し方のない事だと思うのだが。

同時に、一流ピアニストによるクラッシックやジャズなどのピアノ・ソロが多くの聴衆を引き付けるその技量や表現力には改めて感心する。

辛口の評価を持っているにもかかわらず、大枚叩いて、何故この手のボックス・セット買っちゃうのか? と聞かれると…

ビートルズ、ストーンズそれにレッド・ツェッペリンらは、長きにわたり聴いてきて、少し大げさではあるが、自身の歴史の中で消し去ることの出来ない、大きなかつ厄介な存在(PRESENCE)になっている。

ボックス・セットの内容は別にして、レッド・ツェッペリンのそのPRESENCE(存在感)には抗う事の出来ない、多分興味のない人には全く理解出来ない吸引パワーが存在するのですかね~

ついに到着、ボックス・セット、PRESENCE(存在感)あり

人気が出て金持ちになったものの、ALLMAN BROTHERS BAND

2015年08月20日 | Southern Rock

1973年8月に出したアルバム、BROTHERS & SISTERSの全米1位の大ヒットを受けて、バンドはツアーをスタートさせた。ツアーも以前よりスケールが大幅にアップし、大型の飛行機で北米を縦断するアリーナ・ツアーに格上げされたのだった。

レコードの大ヒットとコンサートからの大幅な収入増で、名声と大金を同時に手に入れることが出来るとよくある話で、誰しもバンド抜きで個人の実力を測りたくなり、ソロ・アルバムを出したくなるのである。

リーダーのグレッグ・オールマンは、1972年末のBROTHERS & SISTERSのレコーディング・セッションを終えると、翌年ソロ・アルバム、LAID BACKのレコーディングを行い、BROTHERS & SISTERS発売の数ヶ月後、1973年10月にそのソロ・アルバムを発売した。(全米13位)

LAID BACK

このアルバムは、BROTHERS & SISTERSがブレークする前にレコーディングされたので、バンド・メンバーいとってはさほど問題に成るものではなかったのだが、翌年自身のバンドを組み、オーケストラを引き連れ全米ツアー行った。そのライブの模様を収めたのが、1974年のアルバム、THE GREGG ALLMAN TOURだった。

THE GREGG ALLMAN TOUR

一方、リード・ギター担当のディッキー・ベッツも、1974年にカントリー・フレーバーたっぷりのソロアルバム、HIGHWAY CALLを出した、(全米19位)

HIGHWAY CALL

作詞作曲に関わらず、スタジオやライブでの演奏から生計を立てていた他のメンバーからすると、主力メンバーのソロ活動の期間は、自身の活動が出来なくなることからフラストレーションを溜め込む原因となっていたようだ。また、グレッグが後に結婚することになるシェールが住んでいるロスアンジェルスに南部から移住することを決めたことから、彼の求心力は薄れバンドが分裂状態となる原因の一つとなった。

そのような状況で1975年にレコーディングされたのが、彼らの5枚目のスタジオ・アルバム、WIN,LOSE OR DRAWであった。当然アルバムの出来は良くなく、前作、BROTHERS & SISTERSの質を落とした焼き直しのようなものであった。

A面には5曲収録され、3曲はグレッグがボーカルを取るブルース・ナンバーであるが、前作と比べると迫力に欠ける。残り2曲はディッキーがボーカルをとるカントリー系の曲だが、前作のヒット・シングル、ランブリンマンと比べるとインパクトに欠ける。

B面はたった2曲の構成からなり、最初の曲は、ディッキー作の前作、ジェシカと同じような長尺のインスト・ナンバー、2曲めは、ディッキーがボーカルをとる軽量級ブルース・ナンバーだった。
すなわち、B面に関しては、グレッグの存在が全く感じられないような内容であった。

以前は、全員が同じスタジオに集まりライブ感覚でレコーディングが行われたのだが、グレッグがロスに住んでいた関係で、ボーカルをロスでオーバー・ダブするような、グループとして全くまとまりのないプロダクションがなされたようだ。アルバムは、前作が生んだ人気の財産もあり、一応全米5位までチャートを登ったが、一旦バンド内に不協和音が出てくると、しっかり活動は続けられないものである。

次作を制作した後、バンドは活動停止となるのである。

助手:博士、以前に“やはり大ヒット曲は、必要じゃ。大ヒットから得られる経済的な余裕は、音楽活動を続ける上で重要なファクターじゃからのう。”と言いましたよね。だけど、大ブレークのおかげで活動停止となりましたよね。

博士:確かのその通りじゃ。しかし、その時の失敗が教訓となって、バンドは復活出来たのじゃ。人生、成功ばかりじゃないのじゃよ。失敗したことから成功への方程式が導き出されるのじゃ。一度人生のロック・ボトムを経験すれば、その後なんらかの困難に遭遇しても、結構落ち着いて対応出来るのじゃよ。

助手:博士! なんという素晴らしいお言葉! 若い頃は博士もいろいろ苦労されたのですね~
それはそうと、研究所の予算不足で購入延期になっていたZEPのPRESENCEのボックス注文しておきました。

博士:それはでかした。以前、多分買っても数回しか聴かないコンパニオン・ディスクに対して劣化ツッペリンと悪態をついたが、やっぱり欲しいものは欲しいのう。

以前ほとんど聴かなかったサントラ・ライブ・アルバム、THE SONG REMAINS THE SAME を最近聴いてすごく良く感じたのじゃ。特に、2曲目のCELEBARATION DAYは素晴らしく、どう言う訳か、1993年の古いCDの方が、2003年にリマスターされた最強盤より、迫力があるように聴こえるのじゃ。しかし、DAZED AND CONFUSEDは、26分と相変わらず長すぎるのう~ 10分ぐらいにすれば、素晴らしく生まれ変わる曲と思うのじゃが。

THE SONG REMAINS THE SAME, 1993年リマスター盤

助手:それから、予算では足りなかったので、博士が半年以上貯めていた通販のポイント使わせてもらいました。

博士:やっぱりそんなことじゃないかと思った。フッ(ため息の音)

Allman Brothers Band - Just Another Love Song


ナーナナナー、ナナナー、ナナナー♪ と アーアアアー、アアアー、アアアー♪、何のこっちゃ?

2015年08月18日 | BRITISH ROCK
博士:WISHBONE ASHとな!  ASH、ASH、アッシュ アッシ、あっしには、関わりのないことでござんす。

助手:木枯らし紋次郎
上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれ……

博士:ど~こかで~♪ だ~れかが~♪
きっと、ま~って~いてくれる~♪

違う、違う! なんでこうなるのじゃ、もう一度!

助手: ASH、ASH、ASH、HUSH, ナーナナ、ナーナナ、ナーナナ、ナー♪

博士:よろしい。

ということで、HUSHに成ってしましました。

HUSHはアメリカのJOH SOUTHが作曲し、1967年 BILLY JOE ROYALが歌い、全米28位のヒットとなりました。

しかしこの歌のカバー・バージョンで最も有名なのは、第1期DEEP PURPLE が1968年SHADE OF DEEP PURPLE からシングル・カットされたもので、全米4位と大ヒットしました。このおかげで、アルバムも全米24位とデビューとしては上々の滑り出しとなったのです。

ところで、このナーナナのコーラス、何処かで聴いたことがありませんか?

DEEP PURPLEのカバー・バージョンの最後のコーラスでの、ナーナナナー、ナナナー、ナナナー♪と、A DAY IN THE LIFEでジョンが、アーアアアー、アアアー、アアアー♪と歌ったのと全く同じです。

ビートルズ・サイドからクレームはなかったんでしょうかね?

考えられるのは、ビートルズはEMI傘下のパーロフォンからレコードを出していて、DEEP PURPLEも同じEMIからデビューしたので、その程度の同一性は同じグループ会社なので不問と成ったのでしょうか?

それとも、ジョンが“あっしはその程度の瑣末なことには関わりたくござんせん。”とでも言ったのでしょうかね? 

博士:それはないじゃろう。たとえ関わりたくとも、1968年に紋次郎はまだ登場しておらんからのう。

助手:なるほで、ここはHUSH、HUSHで、昔のことはほじくり返さず、静かに、し~、ということですね。

Deep Purple - Hush

なに魚の骨! FISHBONE、FISHBONE、FISHBONE… WISHBONE、WISHBONE ASH バンザイ~

2015年08月17日 | Wishbone Ash

助手:博士! 動物ジャケ・シリーズは見事に滑っちゃいましたねー

博士:動物に関する画像といっても、ペットの写真のように人の心を癒すようなものじゃないとダメじゃのう。

助手:ペットと言えば、うちで飼っている、熱帯魚なんてどうですかねー

博士:魚だと、犬や猫のように芸をしないから、いまいちインパクトに欠ける。

助手:ピンク色したやつとか、目だけ青く胴体は骨が見えるシースルーとか、これはこれで、じっと見ていると癒されるのではないかと思うのですが。


博士:なに!魚の骨とな。 FISHBONE、FISHBONE、FISHBONE、FISHBONE… WISHBONE! 
それじゃ、今日はWISHBONE ASHでいってみよう~

3枚目のスタジオ・アルバム、ARGUS、そして4枚目のWISHBONE 4で、イギリスでは着実に実力と人気が付いてきた。そうなると、次はアメリカである。

残念なことに、アメリカのレコーディングを行う前に、ツイン・リードの担当の一人であったテッド・ターナーが脱退してしまった。代わりにアメリカ人のギタリスト、ローリー・ワイズフィールドが加入。そして、イーグルスのプロデューサだったビル・シムジックがプロデュースを引き受け1974年に完成したのが、5枚目のスタジオ・アルバムTHERE’S THE RUBである。

アルバム・タイトルとジャケに、”イギリスからはるばるやって来たよー”というメッセージが込められている。

タイトルは、シェークスピアのハムレットのTO BE OR NOT TO BE(生きるべきが、それとも死ぬべきか)から始まる有名な台詞の一節で、TO SLEEP、PERCHANCE TO DREAM、AY THERE’S THE RUB(眠ることは、多分夢見ること。厄介なことだ。)から取られている。

そしてジャケットは、イギリス発祥のクリケットで、ウィケットを倒すために投げる赤いボールの一部分をスボンで擦り(RUBBING)しボールに巻かれているその箇所の皮を薄くしている。それは、バット・マンに打たれないように投球の軌道を変えるテクニックを示している。

収録されている楽曲について、述べると;

1曲目のSILVER SHOESは、なんとバンジョーの演奏がバックに聞こえ、2曲目のDON’T COME BACKと4曲目のHOMETOWNはファンキーな曲調となってそれぞれがアメリカを意識したものとなっている。

反対に3曲目のPERSEPHONEと5曲目のLADY JAYは、ブリティシュ・トラッド・フォーク系の味わいがある。

そして最終7曲目のF.U.B.B.はイギリスとアメリカを足して2で割ったようなご機嫌なインスト・ナンバーである。

アメリカでは88位と大ヒットには至らなかったが、新生WISHBONE ASHの英米折衷の味は十二分に出せたと思う。ただ、テッド・ターナーが抜けたことから、以前のWISHBONE ASH色が薄れアメリカ寄りのアルバムの出来に不満を持ったファンもいたのではないだろうか?

助手:ところで博士、F.U.B.B.ってどういう意味ですか?

博士:ファックド(F)アップ(U)ビヨンド(B)ビリーフ(B)の略語だよ。要するに、“信じ難いほど、めちゃくちゃだー”という意味。

アクション映画をいつも見ていると、結構悪い意味を持ったスラングが頭に残ってしまうことがよくあるのじゃ。特にFxCKとかSON OF BxTCHなんて、気心の知れた仲間内で冗談で使うのならまだしも、深く考えずに何気に海外で使ってしまうのは、危険じゃ。大げんかになったり、もし会話が録音されていたなら、訴えられる場合もあるのじゃ。

この夏、海外旅行に出かけられる皆様、ご注意のほどを。

どうしてこのようなタイトルがこの曲についたのか、理解できないのですが、F.U.B.B.聴いてみてください。少し長い曲になりますが~

Wishbone Ash - F.U.B.B


ジョン・メイヤーは何処に向かうのか

2015年08月16日 | AMERICAN ROCK/POPS
2001年、ROOM FOR SQUAREを引っさげてデビューし、売上で4Xプラチナを記録した。

ハスキーとまでいかないが、スモーキー・ボイスとでも言ったらいいのか、少し霧かかったような声で、ポップ寄りのジャズ・シンガーのようにスムーズ歌う。その歌唱に素晴らしいギター・ソロが絡み、さらに若くてハンサムな容姿で一躍スターとなった。

それから12年と時は過ぎ、2013年の出したPARADISE VALLEYが彼の最新アルバムである。前作から少し路線が変わり、ポップやブルースからルーツ・ミュージックに重点が置かれたようだ。喉の手術をした影響なのか、以前のファルセット気味の高音での歌唱はなくなり、また曲調もスローやミディアムなテンポが増えた。

この変化をいったいどう捉えればいいのか?  デビュー当時のファンにとっては、彼の新しい音は、地味で物足りなく聴こえたのだろうか? このアルバムの売り上げは、ファーストの売り上げ4Xプラチナの約十分の一になった。初期の音に惹かれ、それをこのアルバムに期待したファンがいなくなってしまったのだろうか?

しかしながら、売り上げが大幅に落ちたからといって、そのアルバムの出来が悪いとは必ずしも言い切れない。メジャー・デビューから10年以上経っているのである。その間に得られた何らかの経験や教訓などが、彼の音楽における方向性に影響を与えたのかもしれない。

このアルバムからは、デビュー当時に有った黄色い声援は想像できない。 音楽的には異なるが、マーク・ノップラーの最近のソロ・アルバムと同じように落ち着いた雰囲気であるし、アルバム全体で約40分と無駄に曲を長くせずコンパクトにまとめたのは、私としては非常に好感が持てるのである。

ミュージシャンに取って、コマーシャル的に成功することは、音楽で生計立てていくためには非常に重要なことであるが、常時コマーシャリズムに従って、売れ筋の同じような曲ばかりを作ることを“よし”としない時もあると思う。

似たような例として、1972年に“魔法の黄色い靴”でデビューしたチューリップというバンドは、2枚のオリジナル・アルバムと数枚のシングルを出したのだが、思うように売れず、最後のトライとして1973年に“心の旅”というシングルにバンド生命を賭け、これが大ヒットして首の皮がつながった。

“夏色の思い出”と“銀の指輪”という、姫野達也の甘いボーカルを全面に出した“心の旅”と同じようなコンセプトのシングル、そしてベスト・アルバムを矢継ぎ早に出し、人気を一気に固めることに成功した。

スウィート・ポップ路線を含む、コンピ・アルバム、チューリップ・ベスト

その当時のライブ盤を聴くと、その反動としてコンサートでは黄色い声が飛び交いチューリップはアイドル・バンド化した。もちろん人気が出て、レコードが多く売れるに越したことはないが、アイドル・バンド扱いには、彼らも違和感を感じたのだろうか?

1974年発売のTAKE OFFと言うアルバムから、一連のスウィート・ポップ路線から外れた、ビートルズのLONG AND WINDING ROADのようなしっとり落ち着いた“青春の影”をシングル・カットした。チューリップは、当時アルバムからあまりシングル・カットをしないような主義だったみたいだが、この時は、プロデューサーの反対を押し切ってまでアルバムからこの曲をシングルとして出し、自己主張したのである。

スウィート・ポップ路線から脱却? 歌詞の内容は、アダルト・コンテンポラリーの路線。サウンド的にはポール・マッカートニーのような曲や、バッド・フィンガーのようなハード・ポップ路線。

話は戻って、ジョン・メイヤーのPARADISE VALLEYは、あくまで2013年の時点において彼が表現したかった音楽だったと思われ、彼にとって 通過点であり最終の目的地ではないと思う。

クラッシック・ロック・ファンとしては、レイナード・スキナードが以前にカバーしたJ.J. CALEのCALL ME THE BREEZEを軽やかにカバーし自分のものにしている所に特に惹かれる。スタイルが多少変わろうとも、自身の音楽に付いてきてくれるファンには、“今後とも是非よろしく”と言っているようなカバーである。

いつ出るのかは判らないが、次のアルバムでは、彼はどのような音楽を作り出すのか非常に興味深く感じる。

John Mayer - Call Me The Breeze

暇つぶし

2015年08月14日 | 特になし
助手:お盆休みで、ビジネス街も静かですね。まるで、”クラッシック・ロックを聴こう1”みたいに閑散としていますね。

博士:仕方ないの~ まあ、ロックと言うジャンルのブログは、全体からするとマイナーに属するから、特定の人気音楽系ブログを除けば、訪問者数は大したことがないのう。
やっぱり、人気ブログになるには動物を登場させるに限るわい。

助手:それでは、当ブログも動物でいってみましょうよ。 

博士:では、最初はネズミじゃ!


助手:それじゃ、猫で。


博士:犬で対抗じゃ!


助手:ライオンとワニの最強2点セットは如何ですか?


博士:他愛もないこと。アルマジロとラクダの機械化軍団はどうじゃ!


助手:それでは、こちらは伝説の動物、フェニックスとペガサスです!


博士:小癪な!大物には、小物の昆虫シリーズ3点セットで隙をつくのじゃ!



助手:昆虫には、鳥で対抗。


博士:それでは奥の手で、鳥をかみ殺す犬の再登場!


助手:それはちょっと違うんじゃ?

今日、ちょっと思ったこと、その2

2015年08月13日 | JAPANESE
GODIEGOといえば、ボーカルのタケカワ・ユキヒデ、キーボードのミッキー吉野、ギターの浅野孝巳、ベースのスティーブ・フォックスそしてドラムスのトミー・スナイダーと日米混成のロック・バンドである。しかも、タケカワ・ユキヒデは外国大卒でミッキーは、ゴールデン・カップス脱退後アメリカのバークリー音楽院に入学、と個々の経歴から見ると洋楽バンドと言えるだろう。

シングル・カットを除けば、全編英語の歌詞で歌われる曲がメインとなる。バンド内に英語のネーティブ・スピーカーが二人いて、彼らが特に違和感を感じない限り、楽曲の英詞やタケカワ・ユキヒデの歌唱の際の発音は全く問題がないと言える。

しかし、彼らに比べて英語を使う能力が非常に劣っている私が言うのもなんだが、GODIEGOの場合、英詞はシリアスというか真面目な内容で、また歌唱においても非常に丁寧にクリアーな発音で歌っているように感じる。歌い方や歌詞がもっとラフな感じの英米のロック・バンドの連中とは全く違ったイメージとなる。

英米のロック・リスナーに、 全編英語で歌われているGODIEGOの歌は一体どのようなイメージで聴こえるのか、一度聞いてみたいものである。

ところで、GODIEGOが1978年、英国のワーナー系から出した“THE WATER MARGIN”というタイトルのレコードがある。これは1976年に出した彼らのファースト・アルバム、"新創世記"と同じ楽曲で構成されているが、一つ異なる点は、彼らのヒット曲である"僕のサラダ・ガール"が、アルバム・タイトルの曲“THE WATER MARGIN” に差し替えられているのである。

当時日本のテレビドラマ"THE WATER MARGIN”(水滸伝)が英BBCで放送されるため、そのタイトル曲(作曲:佐藤勝)に英詞をつけるためにGODIEGOチームが起用されたようだ。もちろん水滸伝という昔の中国の物語だったから、 仕方がなかったのかもしれないが、そのサウンドはチャイニーズ・カンフー・ファンクのような、いかにも西洋人がイメージする東洋的なものであった。尚"THE WATER MARGIN”は、英国の歌手とGODIEGOの二つのバージョンが制作され、GODIEGOのバージョンは、連続ドラマの2期目のテーマソングに採用されたとのこと。

反対に、英語で歌われているロックを無理に日本語に直して歌うと、非常に間抜けに聴こえる事がある。例えばシカゴのピート・セテラがLIVE IN JAPAN のアルバムで日本語にて歌ったLOWDOWNである。オリジナル曲のイメージが損なわれいて、もしこの超訳の歌詞の意味を前もって聞かされたなら、大阪公演で大阪弁でオオキニーと言わされたピートも怒ったのではないだろうか。


OH MY、生まれてから
いいことなんかありゃしない
OH MY、愛していた
恋人にも裏切られ

LOWDOWN
どうしようか?
俺は一人泣くだけさ
LOWDOWN
誰でもいい
俺の気持ちわかるかい
YEAH YEAH YEAH YEAH

とオリジナルのシリアスな社会を表現した内容の詩が上記の陳腐な失恋の歌に超訳された。

イメージって重要なことだと思った。

今日、ちょっと思ったこと

2015年08月12日 | JAPANESE
先月の株式暴落による強引な株の売り買い停止が出されたかと思いきや、昨日から元安に導くため為替相場にペグを打ち込み、この一両日で約3.5%と大幅な安値相場が形成された。なんでもありの中国とはいえ、なりふり構わずにこれらの操作が行われるのは、裏でまずい事が起こっているのではと勘ぐりたくなる。

と思っていたところ、8月10日に120曲の歌が“内容が公序良俗に反する”という事で、中国で販売、放送そして配信を禁止する事を布告したようで、それを守らぬものは厳しく罰せられるとか、なんてニュースが飛び込んできた。

1972年ポールが出したシングル、“アイルランドに平和を”は当時のイギリス政府の北アイルランド地方に対する政策を歌で批判したわけだが、これでも放送禁止歌に指定されただけで、誰でも自由にこのシングルを購入する事ができ、普通政治的な内容を含むと売り上げに響くわけだが、それでも全英チャートで16位まで上り詰めた。あまり政治的なことに首を突っ込まないポールにしては、かなりストレートな表現用いたのが印象的だった。

行き過ぎた自由も問題になることが多いが、強引な統制それに反する圧力が溜まり過ぎるとどこかで暴発する。何事もほどほどにバランス良く対応するのが理想。もちろん“言うは易し、行うは難し”ではあるが。

こんな話を書いてると思い出すのが、GODIEGOが1980年に中国は天津で行った初のロック・コンサートである。GODIEGOとしては、マジック・カプセルに続く2枚目のライブアルバムで、演奏自体も力強くなかなかいい出来であると思う。


一億人がロックに包まれたと帯には書かれている。一億は少し大げさだと思うが、ライブの模様をテレビ中継していたらしく、中国人に取って初物であるロックは結構注目されていたのでは? 

ライブの初め頃は観客の反応も、恐る恐るのようだったのだが、ボーカルのタケカワ・ユキヒデらが中国語で話しかけたり、例のビューティフル・ネームのコーラス部分を中国語で合唱したりする演出などもあり、少しリラックスしたのか、最後には結構盛り上がったのではないだろうか? 人民服軍団に対して、GODIEGOは大健闘したと思う。

それから、35年経った今、ポールの曲のように放送禁止だけの扱いではなく、120曲の歌が完全に彼の地から排除される自体に。

確かに誰かにとって耳の痛い内容や不謹慎に思える内容の歌があるのかもしれないが、音楽はそれぞれの時代を表現するために自然と湧き出てくるものであるから、世間一般が時代に即したものと捉えれば、それらの需要は出てくるだろうし後に残っていく、そうでなければ自然淘汰され消滅するわけである。時代に逆行しあまり厳しくやりすぎると、 却っていらぬ不満が溜まるようになるのでは?

35年前に、好きか嫌いかは別として、生まれて初めてロックに遭遇し、本当にピュアー気持ちで聴いた人たちは、今回の件について果たしてどのように思うだろうか?

Godiego セレブレーション (中国公演)

ファンクラブ宛の返信用の封筒には、必ず切手を貼り自身の住所も記載してください、WINGSファンクラブより

2015年08月11日 | BEATLES-BADFINGER関連
前作WILD LIFEが、売れ行き不振に陥ったのは、WINGSというバンド名義でアルバムが発売され、その知名度がそれほどマーケットに浸透していなかったことも原因の一つではないかと考えられ、今回はPAUL MCCARTNEY AND WINGSとポールの名前を全面に出したのである。

しかしながら、バンドとしての多様性を出すため、当初ライブ・テイク2曲を含めた17曲の2枚組のLPとして発表を考えていたことや、LPの中に封入されていた12ページのカラー印刷の“PROGRAM”と称されたブック・レットから判るように、ポールとしては、バンドと一体になって活動している事を認識してほしいという願いがあったのではないかと思う。

ブック・レットに集録された数々のライブの写真

EMIは、2枚組のアルバムを認めず、曲の差し替えなどを行い、最終的にシングル・アルバムとして1973年に発売された。出来れば、RED ROSE SPEEDWAYのアーカイブのアルバムが出るときには、ぜひこの幻の2枚組のアルバムとして復刻してほしいものである。

このアルバムとシングルカットされたMY LOVEの両方はアメリカでは1位を獲得。これでバンドも余裕を持って活動ができると思いきや、その後ドラムのデニー・シーウェルとこのアルバムから加入したギターのヘンリー・マカロックが脱退してしまうのである。

世の中なかなか思った通りにはいかないものである。しかしながら、チャートのトップに再び輝くことができた事は、ポールにとってはかなりの自信にはなっただろう。

ここで、スモール・トリビアを一つ紹介しよう。

以前、リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールドのジャケ裏の下にウィングスの羽のマークが二つ割になっているロゴを使用して、JIM KELTNERのファンクラブのアドレスが記載されていたが、これはRED ROSE SPEEDWAYのジャケ裏の表記をパロッたもののようである。

リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールドのジャケ裏

RED ROSE SPEEDWAYのジャケ裏

また、同じような表記がリンゴのアルバム“RINGO”のブック・レットにも FOR ALL INFORMATION SEND A STAMPED UNDRESSED ENVELOPE TO:などと記載されていた。多分UNDRESSEDは誤植でジョージのアルバムと同じUNADRESSEDが正しいと思う。

“RINGO”のブックレット

ポールのアルバムには、切手を貼った返信アドレスを記載(ADDRESSED、SELF-ADDRESSEDの意味)した封筒を同封するとの指示があるが、ジョージとリンゴのは返信アドレスを記載なし(UNADRESSED)となっているし、ファン・クラブの住所も違っているので、 セッション・ドラマーであるJIM KELTNERのファン・クラブは多分存在しないと考えたほうが良いだろう。

じゃあ、JIM KELTNERがどうして彼らのジョークのダシに使われたのか? 彼はジョン、ジョージそしてリンゴのソロ・アルバムのセッションには参加していたが、唯一ポールのアルバムには参加していなかった。その辺りに何かあるのかも?

ジョン、ジョージ、リンゴそしてポール達は、個々で活動しても以前多くの人々を魅了できる素晴らしい才能があるわけだが、各々が旧メンバーの活動にも結構気になるみたいで、お互いが影響し合ってソロアルバムを制作しているに思える。
RED ROSE SPEEDWAYにしても、バンド・サウンドでアビーロードで見せたような組曲を披露し、今までとは一味違うよ!と旧メンバーに語りかけているように思えるのだが。

Paul McCartney - Red Rose Speedway - Big Barn Bed

ポール高速に乗る、HELEN WHEELS

2015年08月10日 | BEATLES-BADFINGER関連
バンドとしての初めてのアルバム、WILD LIFEは、評論家達から出来がイマイチと叩かれ、全米10位、全英11位のチャート・アクションに終わった。

普通のバンドであれば、アルバムが全米10位、全英11位であれば御の字であるのだが、EX-BEATLESのポールとしてはこの成績ではプライドが許さない。

1973年4月、アルバムRED ROSE SPEEDWAYとシングルMY LOVEを出し、両方ともアメリカでは1位を獲得し、面目を保つことは出来たのだが、この程度の成功ではポールは満足出来なかったのか、2枚のヒット・シングル、LIVE LET AND DIEと HELEN WHEELSを立て続けに出し、さらにだめ押しというのか、4月に出したRED ROSE SPEEDWAYのヒットの余韻が残っているにもかかわらず、同年の年末にメガ・ヒット・アルバムBAND ON THE RUNを出してしまう。

このアルバムを当時購入された方なら、多分A面はヒット曲のオン・パレードで充実しているが、B面となると4曲しか収録されていなく、曲自体は悪くはないのだがA面と比べると見劣りがすると思われるのでは? 特に“ピカソの遺言”という曲は、少しお遊びが過ぎるという感じを受けた。

時は流れ、1999年にBAND ON THE RUNの25周年記念CDが発売された時、シングル、HELEN WHEELSがかってのB面のど真ん中の位置に収録されていたのに初めて気がついた。なんでも、キャピトル・レコードは、米盤BAND ON THE RUNに、B面の芯になるようにとこの曲を独自に収録したそうな、みんな思うことは同じ?

BAND ON THE RUN、25周年記念CD

このHELEN WHEELS、歌詞を見てみると、ポールが当時使っていたRV車のランド・ローバーのことで、スコットランドの彼の所有する広大な別荘から、この車でロンドンに戻るまでの行程が歌われている。スコットランドのグラスゴーから、カーライル、モーターウェイM6でケンダールを通過し、その後南下しリバプールを抜け、バーミンガム通過、そしてロンドンに到着。


GLASGOW TOWN NEVER BROUGHT ME DOWN♪♪
CARLISLE CITY NEVER LOOKED SO PRETTY♪♪


KENDAL FREEWAY IS FAST♪♪


M6 SOUTHDOWN LIVERPOOL♪♪
SAILOR SAM, HE CAME FROM BIRMINGHAM♪♪
DOIN' FINE WHEN A LONDON SIGN, GREET ME LIKE A LONG LOST FRIEND♪♪

ロンドンの標識を見ると気分が良くなり、何か長い間会っていない友人が迎えてくれたみたいと歌っているのが印象的。車で遠出をして帰り、周りに馴染みの風景が徐々に浮かび出てきて、自宅まであと数十キロと書かれた標識を見た時誰しも同じような気持ちになる。

昔、同じようなコースでマンチェスターからロンドンまで車で走ったことがあるのだが、片側3車線で結構快適で100キロ越えで運転しているにもかかわらず、かなりの車がすっ飛ばして追い越して行った 。これがなんと、特別な区間を除けばなんと無料!  飛行機でヒースロー空港にピーク時に到着した場合、なかなか着陸許可が下りず上空をグルグルと旋回飛行させられることが結構あるので、国内での移動の場合は、少々距離があっても飛行機より車を使う場合が多いのじゃないかと思える。

またイギリスの場合は比較的なだらかな丘陵地帯が郊外に多く、日本のように険しい山岳地帯をトンネルや橋梁で貫通させるというような莫大な建設コストがかかる地形ではないので、無料なのかもね?

日本で高速道路料金がタダになるのは、夢の夢。

Paul McCartney & Wings Helen Wheels (2010 Remastered).

こんなの知ってますか? その4、ジョン・マイルズ

2015年08月08日 | BRITISH ROCK
1976年、アラン・パーソンのプロデュースによるデビュー・アルバム、REBELが発売された。

彼のサウンドを表現 するとすれば、メロディアス・ロックとでも言うのか、美しいメロディーにロック・サウンドが絡む。アラン・パーソン・プロジクトやアル・スチュワートなどのアルバムでストリングス・アレンジメントと担当したアンドリュー・パウエルが担当し、クラッシックープログレ的な音が楽しめる。

また、アラン・パーソンがプロデュースしたことから、過去に彼が関与した、ビートルズ、ピンク・フロイドやパイロットなどのグループに繋がるようなサウンドの印象を受けるが、決してそれらのグループのサウンドを模倣しているわけではなく、ジョン・マイルズの場合、演奏に負けない彼の力強いボーカルがこのアルバムの一番の魅力であると言える。

アルバムは全英9位、そこからシングル・カットされた、MUSICは全英3位のヒットとなり、70年始めからの音楽活動がようやく報われた。この曲は、ハードなロック・サウンドにストリングスが絡む雄大なスケールの曲であるが、6分にも及ぶ長尺の曲だったので、シングル・チャートで全英3位になったのには当時驚かされた。

彼は、エルトン・ジョンのアメリカ公演の前座として北米でプロモーションを行い、ある程度の評価は得られたが、残念ながらアメリカでのレコードの売り上げに繋がらなかった。

ビートルズのサウンドを継承し、かつピンク・フロイドをDARK SIDE OF THE MOONでメガバンドに引き上げた アラン・パーソンが、伝統あるアビーロード・スタジオで制作した英ロックの王道とも言えるこのアルバムのサウンドが何故アメリカでブレークに到らなかったのかと言うと、二つの理由があったと思う。

1976年というとアメリカでは、ディスコやファンク・ミュージックが全盛時代に突入し、その後2年ほどそのブームが続いたのである。すでに一流になっていたミュージシャンでさえ、売り上げには四苦八苦し何とか過去の実績でその時期をやり過ごせたのだが、新人となると新しい流行の壁を打ち破るには力不足であったと思える。

また、所属レコード会社のプロモーションも旧態依然の状態だった。所属レコード会社はメジャーの英デッカであった。60年代ビートルズの秘められた才能をデビュー当時見いだすことができず、大きなチャンスを失った。何とかストーンズと契約しメジャー・バンドに育て上げたものの、彼らが自身のストーンズ・レーベルを立ち上げると、デッカは一気に凋落の道をたどる。子会社のデラム・レーベルに属するムーディー・ブルースやテン・イヤーズ・アフターなどが、60年代末期にわずかに気を吐いただけとなった。80年代にデッカは、ポップ・ロック路線を諦め、クラッシック専門となり、その後ユニバーサルの傘下となる。

と言うことで改めてこのジャケットを見てみると、モノクロ感覚の写真に、ジョン・マイルズが写っている。ショートのオールバックの髪型(グラハムボネットか?)に、裏地にボア付きのシープ・スキンのような革ジャンを羽織り、下はジーンズ、そしてライフルを両肩に かけポーズを取っている。まさしく英デッカ(米ロンドン)のアーチストであったトム・ジョーンズのような出で立ちで、古いポップ・シンガーをイメージしそうである。

この手のサウンドであれば、ジャケットのデザインはヒプノシスなどを採用し時代をリードするポップ感覚を出せば、ジョン・マイルズのイメージは変わったのではないだろうか? もちろん当時のジャケット・デザイナーがあえて時代錯誤感を出すことでシュールな感じを狙ったのかもしれないが?

1978年発売のルパート・ホルムズのプロデュースによるザラゴンのジャケのデザインは、オールバックの髪型はやめて、スター・ウォーズのマーク・ハミルのような出で立ちで、近未来とアーマケドンような空間に立ちすくんでいて、今回のデザインがアルバムのサウンドと一致するイメージはよく出せているように思う。

そして、デザインのクレジットを見るとやっぱりヒプノシスだった。しかし、時すでに遅しで、アメリカではディスコとソフトなサウンドが売りのAORが中心となり、イギリスではパンク・ロック全盛時代となっていた。

ザラゴン、ジャケ表の写真

ザラゴン、ジャケ裏の写真

何事をするにもタイミングが重要で、もしデビューがもう2-3年早ければアメリカでも十分ブレークできる実力を持っていたと思え、非常に残念なアーチストだったと言える。

John Miles - Music - 1976