CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

今日の一枚、プロコル・ハルムのグランド・ホテル

2016年09月30日 | PROG ROCK
グランド・ホテルと言っても、そこかの観光地や温泉街に良く見受けられる“何たらグランド・ホテル”のことではない。

コンチネンタル・スタイルの豪華かつ壮大なホテルのことである。

昨今、有名ホテル・チェーンがあちこちに新しくホテルをオープンし、インフレ気味に5スターと呼称して居るみたいだが、グランド・ホテルとは、もし勝手にグレードをつけることが出来るなら10スターと言っても差し支えないほどの長い歴史と高い格式を持っていると考える。

プロコル・ハルムの1973年の6作目のスタジオ・アルバムでそれは歌われている。

R&Bとクラッシックを融合させた作風でデビューしたかれらは、このアルバムでもその実力を遺憾なく発揮している。少し抑え気味の歌唱に荘厳なオーケストラとコーラスが絡む。

しかしながら、グランド・ホテルの豪華さを形容歌詞とは相反してメロディーは悲しげで、一体何をこの歌は語るのか私のような凡百の頭では理解できない。

助手:オオー、凄いですね~ 何かプロコル・ハルムの宣伝担当者みたいな口上ですね。

博士:プロコル・ハルムのオリジナル曲の作詞はキース・リイドが担当しているのだが、彼の詞は非常に難解でよく解らないのことが多いのじゃ。

その当時、本人に浮かんだインスピレーションや抽象的な表現、あるいはしゃれっ気のある言葉を散らばらせているので、どういった意図で作詞したのかは本人に確かめないと理解できないのじゃ。

助手:TVシーザーって曲ありますが、テレビって言うのは、絶対君主のシーザー、アニメで言うとマイティー・マウスと言う意味ですよね。

博士:歌詞を読んでみると、テレビは見ている人たちをいつもスパイしているなんて件があるから、SF作家、ジョージ・オーウェルの小説“1984”に登場する双方向テレビとか監視カメラのことを歌っていると何かに書いてあったのう~

助手:そういえば、デビッド・ボウイーの小説“1984”をコンセプトにしたアルバム、ダイヤモンドの犬にも、BIG BROTHER(オセアニア国の指導者)が登場する曲ありましたね。

最初何のことかわからなかったのですが。

やっぱり、自身で歌詞を直訳するだけでは何のことかさっぱり分かりませんね。

博士:我、クラッシック・ロック研究所としては、コンセプト・アルバムと称されているアルバムの解読の方法としては、まず精神を集中してジャケットを眺め、そして歌詞は無視して音だけを頼りにして、アルバム本質は何かを読み取るのじゃ!

助手:ロック道を極めると言うのは大変ですね~

博士:ディランの36枚組みブートレッグ・シリーズ第13弾、THE 1966 LIVE RECORDINGSを聴く事と比べたら大したことは無かろう。

当時のライブではディランは必ずコンサートの最後の方にライク・ア・ローリング・ストーンを歌うからのう~

何しろ、各公演のライク・ア・ローリング・ストーンを36回も聴く事になるのじゃ。

これだけ転がされると、削りに削られ、最終的には細かい塵と化すことになる!

助手:博士! 大変です。キース・リイド氏によりますと、コンセプト・アルバムには間違いがないが、タイトル曲のグランド・ホテルを除いてはコンセプトとは関係ないといっていますが…

やはり、一曲ごとに翻訳していかないといけないのでしょうかね?

博士:かくなる上は、電子翻訳を使うのじゃ!

T.V. Caesar Mighty Mouse
T. V. シーザー強大なマウス
Holds his court in every house
すべての家で彼の裁判所を保持します。
Spied in every crack and corner
すべての亀裂やコーナーに見張られて
Watch you eat your TV dinner
時計あなたのテレビ ディナーを食べる
Creeping in through eyes and ears
眼や耳に忍び寄る
Finding out your secret fears
あなたの秘密の恐怖を見つけること
T.V. Caesar Mighty Mouse
T. V. シーザー強大なマウス
Shares the bed in every house
すべての家のベッドを共有します。

通りすがりの人:意味不明~

三国志とボックスセットにおける定理とは?、ディランのブートレッグ・シリーズ第13弾

2016年09月29日 | Bob Dylan, Byrds, Band and etc.

博士:ギョエエー!

助手:博士、どうされました?

博士:今、判ったのじゃが、なんでもボブ・ディランがブートレッグ・シリーズ第13弾、THE 1966 LIVE RECORDINGSを11月に出すらしい。



そのキャッチ・コピーが、なんと! MASSIVE 36 DISCS SET OF 1966 LIVE RECORDINGじゃとか。

助手:それ知ってますよ。

1966年2月のアメリカのコンサート(観客による録音)を皮切りに、4月のオーストラリア公演後、デンマークとアイルランド公演を経て、5月10日にイギリス上陸。

スコットランドも回り、5月24日はパリ、そして5月26-27日は再びロンドン、あの例のロイヤル・アルバート・ホールでの公演で締めくくる。

博士:そう言えば、1998年ブートレッグ・シリーズ第4弾は、ロイヤル・アルバート・ホールではなく実際は5月17日のマンチェスターでの公演を収録しておったのう~


助手:同じ音源でロイヤル・アルバート・ホール録音と間違った表記の海賊盤を駆逐するため、わざと同じ表記にしたと言うことでしたね。

で今回は、リアル・ロイヤル・アルバート・ホール・1966コンサートと言う事で5月26か27日のライブも2枚組みで出されるみたいです。


博士:何か非常にややこしいのう~

助手:前回のブートレッグ・シリーズ第12弾THE CUTTING EDGE1965-66、CD6枚組のデラックス・エディションは、予算の関係もあり、また博士は20曲分のライク・ア・ローリング・ストーンを一気に聴く体力も無く、結局2枚組の輸入通常盤購入しましたね。


博士: その通り。

そして2015年発売されたイエス衝撃の14枚組ライブ盤、PROGENY,SEVEN SHOWS FROM 72でもあまりの大量のCDの数に腰を抜かして2枚組みの通常盤を買ってしまったのう…

助手:大量のCDやDVDが入ったクリムゾンの一連のアーカイブ・ボックス・セットも最近ではそれ程インパクトも無く、あまり驚かなくなりましたね。何しろ今回のディランのボックスは36枚組みですからね~

一体何処までこの手の売り方がエスカレートするのやら…

博士:カジュアルに音楽を楽しむ人は、携帯を使ってのダウンロードかストリーミング配信で十分、CDを特に購入したいとも思わない。

レコード会社がCDやDVDを販売し日銭を稼ぐには、特別企画と称してマニアにターゲットを絞った商品を出す以外にないのじゃよ。

助手:マニア相手に未発表の音源をあの手この手で出し続けるってことですね。

博士:その通りじゃ。ディランはまだ現役じゃが、フランク・ザッパやグレートフル・デッド(ジェリー・ガルシア)なんかは、彼らが亡くなった後でも、未発表音源がある限りこの手の企画を続々登場させておるみたいじゃ。

すなわち、三国志の“死せる孔明、生ける仲達を走らす”のように、“死するロック・アーティスト、マニアを走らす”じゃ。

助手:オオー、これがクラッシック・ロックにおける諸葛亮孔明の定理ですね!

博士:まあ、我々のような50-60代のマニアが更なる高齢化で走れなくなってくると、この定理は成り立たなくなってくるのじゃが…

通りすがりの人:ちょっと意味が違うような~


“レコード・CD買いたい病”発症のメカニズム、KINKS MONOはいかが?

2016年09月27日 | BRITISH ROCK
オォー!

そう言うことか。

今の今まで、南方の島国に隔離されているので、通販でレコードやCDを買えないと思っていたが、そうでもないみたい。

自宅は、マンションである。しかしながらピンからキリまであるので胸を張って堂々と言えるってほどでもないのだが。

ところで、マンションは和製英語で、自宅はMANSIONとかの地で言えば、大邸宅に住んでいると思われるため、禁句である。

建物自体は大きいので遠くから見れば邸宅と言って差し支えはないかも知れないが、内部はせこく小分けされているのでとてもじゃないが近くで見れば邸宅と呼べる代物ではない。

普通、この手の住居の場合は米語でAPARTMENT、英語でFLATもしくはCONDOMIUM(通称コンド)と呼ぶのが正しい。

話がそれてしまったが、自宅にはマンション特有の集合郵便受けがある。

先月4ヶ月ぶりに一時帰国をした際、その小さな容量の郵便受けを覗くとダイレクト・メイルやチラシの類で満杯になっていた。

通販ではCDなどの小物の場合、郵便受け投函となるが郵便受けが満杯になっていれば、投函不可能な状態となる、と言うわけで通販の商品を自宅に送ることは無理である。

ところがである、送り先を電車で二駅離れた親戚の住所に変更すれば、問題は解消される。

もちろん、毎月何点もの商品を分けて送れば迷惑がかかるが、数ヶ月に1回まと買いし発送されるなら、その受け取りはそれほど面倒になることも無く、次回一時帰国した時にお土産を持って伺えばよいのではないかと…

おお、恐ろしい、“レコード・CD買いたい病”が再発するではないか!

第一弾としてキンクスのLPモノ・ボックスなんていかが?

少し前にCDのモノボックス出たけど、すぐに売り切れましたね。

60年代ロックは、やっぱりモノに限る。

録音のトラック数が少ない時代、無理やりステレオに編集するより、モノで正面からドーンと音を出す方が迫力がある。

キンクスのモノ・ボックスよ!

YOU REALLY GOT MEではなく I REALLY GOT YOU!

おお、恐ろしい、“レコード・CD買いたい病”が再発したではないか!

通りすがりの人:何、赤ちゃんみたいなおバカ言ってるの!

すす、すいませんでした。つい欲しくなって…



“レコード・CD買いたい病”発症のメカニズム、ロジャー・マッギンの場合

2016年09月27日 | West Coast Rock

此処まで来ると、もう一人気になるお方について触れておきたい。

バーズのロジャー・マッギンである。

本名がJAMES JOSEPH MACGINN IIIで後にJAMES ROGER MACGINNに改名。

バーズの4枚目のアルバムあたりまでは、ジム・マッギンとアルバムにはクレジットされていた。その後ロジャー・マッギンの通名を使うようになった。

何で改名したのかね?

だから、バーズのことをあまり知らなかったころは、ジムとロジャーの兄弟がバンドに参加しているのかと思った… (汗)

バーズ解散後1973年からソロ・アルバムを出していくのだが、やっぱり一番印象に残るのは、1976年のソロ4枚目のCARDIFF ROSEである。


従来のフォーク・ロックやトラッド・フォーク調の楽曲とソリッドなロック・サウンドがミックスされた、今までに無かったロジャー・マッギンであった。

それもそのはず、プロデュースに、デヴィッド・ボウイーのグラム期を支えたミック・ロンソンがアルバムのプロデュースとギターの演奏を引き受けていたのである。

何でミックロンソンが此処に登場するのか?

ミックは1975年から1976年にかけて行われた、ボブ・ディランのローリング・サンダー・レビューと言うライブ・ツアーに参加し、そのツアーにロジャーも参加していたことからお互いが知り合うことになる。

1975年のツアー

1976年のツアー

じゃあ、何でミックがディランのツアーに参加したの?

ディランとの繋がりが良くわからない。

1975年、思い起こせば、ミックはリード・ギター担当だったエリアル・ベンダーの替わりにグラム期のモット・ザ・フープルやしイアン・ハンターのソロに関わった頃である。


イアンのソロ・アルバム

1971年ミックはボウイーのハンキー・ドリーというアルバムに参加。その中にSONG FOR DYLANと言う曲がある。


多分ミックもボウイー同様その当時からディランに興味を持っていたのかも知れない。

その次に好きなアルバムといえば、1977年の5枚目のソロ・アルバム、サンダーバードから12年後に出された6枚目のバック・フロム・リオである。しかしながらロジャーによるとリオにも行ったことがない。

ブラジルが赤く燃えている。

何でバック・フロム・リオとタイトルが付けられているの?

アルバムは、90年代風バーズのような感じで、ロジャーの分身?

オオーそうか!

つまり、バーズの頃に急にいなくなったジム・マッギンがリオからアメリカにやってきて演奏すればこんな感じになると言うジョークなのかね?

それもそのはずロジャーは60年代のバーズでのトレード・マーク的な存在であったリッケンバッカー12弦ギターを弾き、バックにはトム・ぺティーとハートブレーカーズ(トムは1989年のソロ・アルバム、フル・ムーン・フィーバーでバーズの曲をカバー、ロジャーもトムの曲をカバーしたことがある)を起用。


そしてクリス・ヒルマンやデヴィッド・クロスビーのExバーズがコーラス担当。

こんな感じで、アーティストがどんどん繋がっていき、レコードやCDがどんどん増えていった。

自宅の小さな小部屋は足の踏み場も無くなりつつあり、ほとんど病気。

現在南方の島国に隔離されているので、今のところ“レコード・CD買いたい病”の症状は治まっている次第である。


気になったスーパー・グループ、SHF BAND

2016年09月26日 | West Coast Rock

昨日クリス・ヒルマンを取り上げた際、サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンド(SHF BAND)の名前が出てきた。

1974年、ポコのリーダーだったリッチー・フューレイ、ウエスト・コースト系シンガー・ソング・ライターのジョン・デビッド・サウザーとクリスが組んだバンドである。

当時、ウエスト・コーストにスーパー・グループ誕生と言われた。

しかしながら、1974年のデビュー・アルバムは、全米ポップ・アルバム・チャートで11位と面目を保ったものの、1975年に2枚目のスタジオ・アルバム、TROUBLE IN PARADICE (同チャート27位)は、期待されたほどチャートを賑わすことなく、敢え無く解散。

セルフタイトルのデビュー・アルバム


TROUBLE IN PARADICE

アルバムには、3名のソング・ライターがそれぞれの自作曲を持ち寄り、曲の作者がボーカルを担当し、3人の楽曲が交互に出てくるようにレコードのサイド1とサイド2に振り分けられていた。

せっかく3名のシンガー・ソング・ライターが集まったのに、収録された楽曲にバンド・メンバーによる共作がないのである。

当時、3名の個性のぶつかりによる新たな魅力を持った楽曲を期待していたのであるが…

もちろん各曲の出来は悪くはないが、どうしても、ソロの寄せ集めって感じがね~

解散してしまったのは仕方がないが、どうしても諦めきれず、当時彼らの架空のサード・アルバムを個人的に製作すればなんて…

ネタは、各人がそれぞれ解散後の1976年に出したソロ・アルバムから厳選し一本のカセット・アルバムに編集。

クリスのソロ・アルバム、SLIPPIN’ AWAY


J.Dのソロ・アルバム、BLACK ROSE


リッチーのソロ・アルバム、I’VE GOT A REASON


これが面倒。時は1970年代、アイチューンなんてない時代。

カセット・デッキに予め選んだ各人の楽曲を3枚のLPから交互に録音していく。

一曲録音が終われば、デッキ止めてレコードを交換。

各々のレコードの音圧が違うため、デッキの録音レベルを調整し次の録音にかかる。

10曲収録の私的サードアルバム制作のため、レコードのターン・テーブル上での交換及び録音レベルも再設定を都合9回繰り返すことにより、SHF BAND、サード・アルバムの録音終了となる。

後はカセットテープのインデックス欄に曲目を書き入れて、数時間かかって遂に完成!

でっ、その出来は如何だったかって?

各ソロの出来は悪くはない。

しかし選曲が悪かったのか、曲順のバランスが悪かったのか、どうもしっくり来ない。

改定するには、一からやり直し。

その作業をもう一度って思うと、やっぱり気持ちが萎える。

結局、そのテープを再び聴くことも無く、テープもいつの間にか行方不明。

何とかグループを自身の中で存続させようとする試みも無駄な抵抗であった。

まあ昔から、“船頭多くて船山に登る”といわれるように、スーパー・グループってのはその方向性が定まらず、また期待値が大きすぎるのか、いつもながら短命である。


ジミだけれど気になる人、クリス・ヒルマン

2016年09月25日 | West Coast Rock

海外でディベートなんかで、討論の内容が、自明の理と言う事で特に口を挟まず黙っていると消極的と捕らえられることがある。

もちろん私のように、持っている英語力がその議論に付いていく事が出来ないようなレベルであれば、仕方なく黙っている場合もあるが...

総じて日本人は比較的大人しい性格で、事がちゃんと進んでいるなら、俺が、俺がとわざわざ全面に出てきてリーダーシップを発揮しなくてもよいという奥ゆかしさがあるのだと思う。

反対に普段は地味と言うか控えめに見えるが、いざとなれば力を発揮すると言うような人に惹かれるのである。

クリス・ヒルマンは、当初はバーズ時代はフロント・メンの、ロジャー、ジーンそしてデビィッドの陰に隠れて地味な存在だっが、時が経つに連れて、またバンドが変わるごとに何かしら個性が見え始め、私にとっては無視できない存在となった。

とは言え、特に歌がうまい訳でもなく、また個性的な歌い方でもない。ベースの演奏に至ってもイエスのクリス・スクワィヤのようなブーン・ブーンと派手にかき鳴らす個性派でもない。

ただ誠実さと言うものが感じられるような気がする。

クリスと会って話したことのないあんたに何がわかるのかと言われると、彼の音楽を聴いた印象からとしか言えないのだが、

此処でちょっと彼の音楽活動の歴史を振り返ってみると、

ブルーグラスのマンドリン弾き、1964年請われてバーズにベーシストとして参加

ロージャー・マッギンとクリスを除く他のメンバーがバーズより脱退。デビッド・クロスビーが以前担当していたギター・ボーカルのポジションにインターナショナル・サブマリン・バンドのグラム・パーソンを加入させ、カントリー・ロック・アルバム“ロデオの恋人を”1968年に制作

クリスとグラム・パーソンは共にバーズから脱退。1970年にカントリー・ロック・バンド、フライング・ブリートー・ブラザーズ結成。

グラムはスタジオ・アルバム2作目を制作したところでバンドから脱退。ストーンズのセッションに参加。1971年フライング・ブリートー・ブラザーズは、3枚目のスタジオ・アルバムを出したところで空中分解。(後に新メンバーで再結成)

1972年、CSN&Yが活動を停止後、スティーブン・スティルスは、新グループ、マナサスを結成。またもやクリスは請われてベーシストとしてマナサスに参加

1973年、2枚のスタジオ・アルバムを制作したところで、マナサス解散。

1973年、アセイラム・レコードからクリスを含むオリジナル・バーズの再結成としてスタジオ・アルバム1枚制作。しかしまたもや解散

1974年、ポコのリーダーだったリッチー・フューレイ、ウエスト・コースト系シンガー・ソング・ライターのジョン・デビッド・サウザーらと、サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンド(SHFBAND)結成。キーボードにマナサスのポール・ハリス、ドラムスにジム・ゴードンが参加。当時、ウエスト・コーストにスーパー・グループ誕生と言われた。

1975年、2枚のスタジオ・アルバムを出すも、チャートを賑わすことなく、敢え無く解散。

1976年、ソロ・アルバム、スリッピング・アウェイを出す。

1979年、ソロ活動の合間に、旧バーズのメンバー、ロジャー・マッギンとジーン・クラークそしてヒルマン3人でマッギン・クラーク・ヒルマンと名義のスタジオアルバム2枚を出す

1980年クラークが脱退し、マッギン・ヒルマン名義でスタジオアルバムを出す。

1987年ギタリストのハーブ・ぺダーソンとデザート・ローズ・バンド結成。ソロ活動なども含め現在に至る。

プロのバンドと言うのは人気商売で、売れなかったり、主要メンバーのエゴなどで解散の憂き目に会う。

クリスも、数多くのバンドを転々としているが、彼の場合請われてバンド・メンバーになると言う感じで、仲間内でも認められているのは彼が誠実な何かを持っているのかもね。

ジミヘン:私の名前も漢字で書けば地味片。地味のかけらって意味ですから、きっと誠実に見えるんじゃないかと…

イヤー、あなたの場合は、自身変ですよ。コンサートでギターに火を点けちゃったことあるでしょ!

Step On Out


語学の薦め その3、BACK IN THE UNIVERSITY

2016年09月20日 | BEATLES-BADFINGER関連
世界の大学ランキングと言う記事を週間雑誌やネットなんかでたまに目にする。

色々な団体がその格付けをしていて、それぞれの団体で格付けの基準は異なるのであるが、基本となるのは大学に属している教授陣の質や知名度であり、その中にノーベル賞の受賞者がいればポイントは高くなる。

そして公にされた学術論文の引用された回数だとか、大学の施設の充実度、その他もろもろの項目を数値化しランキングが決定されるものと解釈している。

どの団体のランキングに関わらず、トップテンといわれる大学はほとんどが米英の大学で、わが国の最高学府といわれる東京大学や数多くのノーベル賞受賞者を輩出した京都大学は、トップテンに入ることは出来ず、毎回20位以下をうろちょろしている。

何故そうなのかと言うと、

まあアメリカの大学のように広大な敷地に、余裕を持って建設された大学の施設とか設備は如何あがいても日本の大学は勝ち目がないとは思える。

しかし、一番の要因は、素人の判断では有るが学術論文の引用される回数が米英の大学と比べて少ないからではないかと思う。

日本の学生に対して世界中で論文が引用されるような専門用語を数多く含んだ格調高い英文での論文を、そう簡単に読んだり書いたりすることは出来ない。

此処シンガポール大学のランキングが上昇しているのも、大学の研究施設の充実や著名な研究者の引き抜きに加えて、英語を主体とした講義や研究がなされ、それを世界に向けて発信しているからだと思う。

日本の大学が国際ランキングの上位をねらうなら、第二外国語を含む2年間の教養課程は廃止し、すべて英語の授業に切り替え、1-2年の短期留学も単位に含むなど、思い切ったことをしない限り中々追いつかない。

このままではアジア諸国の大学の後塵を拝することにもなろう。

そう言えば、教養課程の英語や第二外国語は、テキストの訳本を仕入れてきて丸写しだったな~

これじゃまともに英語を読み書きそして会話することなど到底無理だったといまさらながら反省。

パチ、パチ、パチ

助手:博士!今回の記事凄いですね、シリアス感満載ですね~

博士:いやー、まだまだ手ぬるい! そもそも、米英にあわせる必要なんてないのじゃ。

助手:と言いますと?

博士:世界日本語化計画を行うのじゃ!

2020年の東京オリンピックのセレモニーでアニメを使い、その中に“あなたは日本語しか使えない”と言う催眠術を刷り込んでおく。

これをスタジアムやテレビで観た人が、催眠術にかかり日本語しか話せなくなる。

ダメ押しとして、日本語ビールスなるもの培養し世界にばら撒くのじゃ!

助手:なんと壮大な計画。これで英語勉強する必要は無くなるのですね?

博士:その通り!外国人諸君には、当用漢字すべてをマスターさせ、さらには古文や日本独自の返り点つき漢文の知識を極めさせるのじゃ!

我々が大学受験の際味わった苦しみを体験してもらうのじゃ~

助手:恐ろしいー、これを拷問と言わずに、なんと言えるのでしょうか~

博士:それから欧米ロックの歌詞も出来る限り日本語に置き換えて歌ってもらうのじゃよ。

助手:だけど日本語に直訳しただけでは、ビートやメロディーに乗りにくいじゃないですか?

博士:その場合はしょうがない。意訳するかカタカナ表記にして、日本語のアクセントで発音してもらおう。

助手:そう言えば、1964年に長沢純率いる、スリー・ファンキーズがビートルズの“抱きしめたい”のカバーを意訳した日本語と英語のちゃんぽんで歌っていますね。

と言う事で、ファンキーズ再び登場!

オー・プリーズ (記憶が曖昧?)
オー・イェイ・イェイ
お前を抱きしめたい
わかるこの気持ち
アィワナ・ホー・ジュヤー・ハアーンー…

サビのところは、京都弁の感じで“アホな北条はーんー”と歌ってもいいのですね?

博士:そのとおりじゃ。

I don’t know your name.の場合は、“おいどんの、いやね~”と鹿児島訛りで少しお姉系ぽくお願いしたい。

語学の薦め その2、BACK IN THE USSR

2016年09月19日 | BEATLES-BADFINGER関連
WHAT’S YOUR MAJOR IN UNIVERSITY?

とたまに聞かれることがある。

大学で何を専攻していたかで、胸を張ってECONOMICS(経済学)と答える。

しかしそう答えたものの、さらにその細部まで問われると、その答えに窮する。

振り返ってみて、一体何を習ってきたのか良くわからない。

まあ習ってきたことが専門書に記載された理論的な事柄で、実社会ですぐに適用できるような実践的な代物ではなかった事も一つの理由かと。

すべては忘却の彼方へと。

ところで、当時経済学部に入学すると、近代経済学(通称、近経)とマルクス経済学(マル経)のどちらかを選択することになる。

70年代の世界情勢をみると、ベトナム戦争が終結し米ソの冷戦時代に突入したわけで、当然反共が日本では主流となり、マル経を専攻する学生はわずかだったと記憶する。

同級生の中には、そんなイデオロギーを特に深く考えず、専攻する学生が少ないと言う特殊性からマル経を履修した者もいた。

そのような場合、第二外国語の選択は必ずと言っていいほどロシア語だった。

まさかマルクスの資本論をロシア語で読もう思って履修したのでは無く、なんとなくと言う雰囲気だったのではないかと推測する。

ロシア語は結構難しく、フランス語と同じように名詞や動詞が変化して暗記するのに厄介である上、例のキリル文字を読み書きをマスターしなければならない困難が伴う。

例えばロシア語のсは英語のsの発音、нがnの発音、фがfの発音、пがpの発音、рがrの発音、иがiの発音などなど、英語のアルファベットとはまったく異なる。

なんでお前が知ってるの?と言われると、以前ロシアの会社と数年間だけだが取引していたことがあったからだ。

少なくともロシア語のアルファベットは読めれば、辞書を使って意味を調べることが出来るし、また簡単な挨拶程度の会話が出来ればって事で、参考書と辞書、それにリンガフォンから販売されていた約4万円もするカセットテープ・セットを買って、一時勉強していたのである。

そしてついに現地の会社を一度だけ訪問する機会を得た。

90年代初頭の11月、新潟空港からロシア沿海州の中心都市ハバロフスクに向かった。11月とは言え現地は既に日本の真冬並みの気候で日中氷点下の気温、アムール川も全面凍結の状態で徒歩で向こう岸に渡れるように思われた。

イミグレでビザが不備だと言うことで長時間足止めを食らい、現地企業の出迎えの担当者と食事に出かけたが、レストランは早仕舞い。

インツーリスト・ホテルのボール・ルームのようなところで食事を取ろうとしたら、食事のサービスは終わり、瓶入りのリンゴ・ジュース、発砲ミネラル・ウォーターもしくはウォッカしかなかった。

そのころは、ホテルのボール・ルームでは食事が済んだ後は、社交ダンスみたいなのを楽しむ客が多く、担当者と一緒にテーブルでウォッカをちびちびとやりながらぼんやりしていると、見知らぬ着飾った中年のおばちゃんがダンスをしようと誘ってきた。

担当者も行ってこいと悪乗りするので、仕方なくダンス・フロワーに行って踊る。

ロシア人って結婚する前の女性は、背が高くスタイルがよいのだが、結婚してしまうと何故か非常に太ってしまう女性を良く見る。このときもそれを実感した。ででっ、でかい!

仕事関連では、結局テープから学んだ、必殺のアジン-デュワ-トリ、スパシーバ、ダスビダーニャ、オーチン・ハラショーなどなどが炸裂したが、当然のごとく一夜漬けのものなどまったく役には立たず不発に終わり、結局通訳の人を付けてもらった。

大学に行っていた時、マル経はともかく将来使うことのないと思っていたロシア語を第二外国語として選択していれば、ちっとは役に立ったのではないかと、いまさらながら思う。

飛行機の便の関係で約一週間の滞在となったが、娯楽も無く、仕事も初日に打ち合わせが済むとこれと言ってすることも無く、朝一番から薦められて気付けのウォッカを一口含み、昼食も夕食もウォッカで宴会。これが6日続いて本当に体を壊しそうになった。

新潟空港に戻ったときにはホント、嬉しさが込み上げた。

ビートルズにBACK IN THE USSRと言う曲がある、これはチャック・ベリーのアメリカ賛歌とも言われるBACK IN THE USAをパロッたもので、ビーチ・ボーイズ仕込みのサーフィーン調バック・コーラスも楽しめる優れものである。

ビートルズが歌っている真反対のことが、60年代当時のソ連を象徴していたのは間違いないと思い、少し茶々を入れてみた。

FLEW IN FROM MIAMI BEACH BOAC
DIDN’T GET TO BED LAST NIGHT
ALL THE WAY THE PAPER BAG WAS ON MY KNEE
MAN I HAD I DREADFUL FLIGHT
(帰国に際して、前日眠れないほどになるって、もし本国から帰国要請が有れば、帰国後粛清が待っている場合もあるのじゃ?)

I’M BACK IN THE USSR
YOU DON’T KNOW HOW LUCKY YOU ARE BOY
BACK IN THE USSR
(帰国することが何て幸運なのか君にはわからないって!あんた正気?)

BEEN AWAY SO LONG I HARDLY KNEW THE PLACE
GEE IT’S GOOD TO BE BACK HOME
LEAVE IT TILL TOMORROW TO UNPACK MY CASE
HONEY DISCONNECT THE PHONE
(電話線を切るのは、盗聴を避けるためだと推測するが)

I’M BACK IN THE USSR
YOU DON’T KNOW HOW LUCKY YOU ARE BOY
BACK IN THE US, BACK IN THE US, BACK IN THE USSR
(BACK IN THE USと2回唱えて、さもUNITED STATESに帰国と思わせて、最後のフレーズで実はUSSRです~)

WELL THE UKRAINE GIRLS REALLY KNOCK ME OUT
THEY LEAVE THE WEST BEHIND
AND MOSCOW GIRLS MAKE ME SING AND SHOUT
THAT GEORGIA’S ALWAYS ON MY MIND
OH, COME ON!
(大柄のウクライナの娘に、パンチを食らい本当にノック・アウト。モスクワの娘には、レイ・チャールズなんかで有名な“わが心のジョージア”ではなく、旧ソ連邦所属のグルジア賛歌を歌わせられたのではないかと?)

I´M BACK IN THE USSR
YOU DON´T KNOW HOW LUCKY YOU ARE BOY
BACK IN THE USSR

WELL THE UKRAINE GIRLS REALLY KNOCK ME OUT...

SHOW ME ROUND YOUR SNOW PEAKED MOUNTAINS
WAY DOWN SOUTH
TAKE ME TO YOUR DADDY’S FARM
LET ME HEAR YOUR BALALAIKA’S RINGING OUT
COME AND KEEP YOUR COMRADE WARM
(COMRADEは同志の意、同志の温かみって? ロシア語で同志はタバリッシュ、と言い苗字の前に付け、タバリッシュ誰某といえば、同志誰某となる。彼らに向ってそういったら、笑われた。今では多分死語になっているかと思う。)

I’M BACK IN THE USSR
YOU DON’T KNOW HOW LUCKY YOU ARE BOY
BACK IN THE USSR

寒い冬の夜何もすることが無く、新潟に戻るまでホテルのベッドに転がり薄明かりの中毎晩文庫本を読んだのも、今思えば素朴で捨てがたい経験だった気もする…

Paul McCartney - Back In The USSR (Live - Reprise)

語学の薦め、その1

2016年09月18日 | 特になし
70年代当時に大学に入学すると、最初の2年間の教養課程の科目として第二外国語を選択しなければならない。

今では、当たり前に中国語が選択できるが、当時は毛沢東や周恩来の時代で一般の外国人が観光で行くには制限があったため、それほど重要な言語ではなく、第二外国語の選択肢としては、ドイツ語、フランス語、スペイン語それにロシア語があった。

私はなんとなく優雅な雰囲気を持つフランス語を選択したのだが、当時の授業の内容といえば、簡単な文法などを習い、平行して講師指定の入門編に使われるフランス語の小読本を各々生徒が割り当てられたページを順番に訳していく感じの授業だったように記憶している。

英語と違って、男性名詞、女性名詞とか中性名詞なんて丸暗記しなければならず、動詞の変化なんかも英語と比べてかなり複雑で、まして大学の教養課程で翻訳するのに辞書を使わず、教科書の訳本なんかにお世話になっていたのでは、2年間習ってもまったく使い物にはならなかった。

以前仕事の関係でフランスの会社と取引をしていたことがあったのだが、彼らは私などより英語を十分使いこなせるので、仕事に関しては不自由はまったく感じなかった。

1999年、仕事の関係で彼らの会社を訪問することになったのだが、空港、ホテルそして訪問した会社では、英語で問題なかった。

しかし、都合でパリに2泊ほど宿泊することになった時、ホテルの予約が中々取れなくて、空港で拾ったタクシーの運転手に知っているホテルを紹介してくれといってタクシーに乗り込み何件かホテルを回ったのだが、すべて空き室なしと断られた。

まあ、空き室はあったものの一見で予約なしの飛び込みだったから断られたのかもしれない。

最終的に、パリの中心部ではあるが、それらしき観光客がまったく見られない、パリ・メトロのローマ駅から北に4-500mほど行ったところにある、小さなホテルを運ちゃんが見つけてくれた。

そのホテルのフロントでは英語が通じたが、夕食のため飛び込んだ小さなレストランではまったく英語が通じない。

フランス人は英語が出来るが、わざと使わないなんて以前に聞いてはいたが、地域によってはどうもそうはないのかも…

ウエイターとまったく話がかみ合わないのを見かねた別のテーブルにいた常連と思われる客も助け舟を出そうとしていたのだが、彼らも英語が使えない。

アン-ドゥ-トロワ、メルシー、コマンタレブー、コム・シ・コムサーやその他、教養課程で習った、私としては必殺の単語を繰り出しても当然のごとく理解されない。

フランス語で書かれたメニューでアラカルトを頼むと何が出てくるか解らない、ふと目に留まったのはセット・メニューらしきもの。

結局ワインをつけて注文を完了、事なきを得た。

とは言え、さすがパリ、結構いい値段だった。

そして、せっかくフランスまで来たのだから、フランス人の歌手のCDでもと今は無きシャンゼリゼ通りのHMVで、ミシェル・ポルナレフのCDを購入。

当時ポルナレフのCDは販売権の関係で日本では2000年頃まではリーイシューされていなかった。

さすがはフランス、彼のCDがあった。  

1975年発売のMICHEL POLNAREFF(邦題 ポルナレフUSA)でした。なんと、レコーディングはアメリカのロス・アンジェルスで行われ、リー・リトナー、今は亡きアンドリュー・ゴールド、エルトン・ジョン・バンドのドラマー、ナイジェル・オルソンやジム・ゴードンなどそうそうたる有名セッション・ミュージシャンを起用。

私がオン・タイムで知っていた70年代のポルナレフというのは、その前年の1974年に発売された“ポルナレフ革命”と言うアルバムが最後で、アメリカで“ポルナレフUSA”なるアルバムを制作したのは知っていたが、それまで中身を聴いたことは無かった。

パリに来てフランスのお土産にと買ったフランス人歌手のCDは、なんと全篇が英語で歌われていると言う落ちになった。

よくあるジョークで、

バイ・リンガルは、二ヶ国語を話せる人
トリ・リンガルは、三ヶ国語を話せる人
じゃ~、一カ国語だけしか離せない人は?

アメリカン!

私もアメリカンと呼ばれぬよう更なる英語の勉強に励もうではないか!

えっ~! それより、日本語勉強しろって? 作文でたらめ、漢字まったく書けないって?

仰るとおりです。

人生を怠惰に過ごす諸君!発信せよ!

2016年09月17日 | Bowie, T.Rex, Hoople and Glam.

DAVID BOWIE がMOTT THE HOOPLEに1972年末に提供した曲に、ALL THE YOUNG DUDES(すべての若き野郎ども)がある。

ボウイーによるこの新曲(全英3位)の提供とニューアルバム(全英21位) プロデュースによって、解散寸前だったMOTT THE HOOPLEが息を吹き返した。

ちょっと歌の中身を検証と言うことで、いつもながらの下手な和訳で申しわけ無いが…

Well Billy rapped all night about his suicide
ところでビリーの奴、夜通し奴の自殺についてぺらぺら喋っていがった。
How he kick it in the head when he was twenty-five
25歳にでもなれば、どのように自殺ってのが頭に浮かぶのかを
Speed jive don't want to stay alive
奴らは生き続けたくないんだと
When you're twenty-five
あんたが25歳ならどうなんだ?

And Wendy's stealing clothes from marks and sparks 
ウェンディはマークス・アンド・スパークで服を万引き(注:イギリスの小売業のマークス・アンド・スペンサーからクレームが出ないようにと推測?、後日、車のなかから盗むと歌詞が改められた)
And Freedy's got spots from ripping off the stars from his face
フリーディーの野郎は顔から星の刺青を引っ剥がして痣だらけ
Funky little boat race
くだらね~ボートレースのようだ

Television man is crazy saying we're juvenile delinquent wrecks
テレビの奴、俺たちが不良のガキ共だってまくし立てている
Oh man I need TV when I got T. Rex 
まあ、T.Rex観るのにはテレビいるんだけどなー
Oh brother you guessed 
あんたが思った通り
I'm a dude dad
俺はやつらの親父みたいなものさ
All the young dudes (hey dudes)
すべての若き野郎ども!(野郎共!)
Carry the news (where are ya)
発信しろ!(何処にいるんだ!)
Boogaloo dudes (stand up come on)
のんびりした野郎ども!(さあ立ち上がれ!)
Carry the news
発信しろ!
All the young dudes (I want to hear you)
すべての若き野郎ども!(聴いて欲しい)
Carry the news (I want to see you)
発信しろ!(会いたいんだ)
Boogaloo dudes (and I want to talk to you all of you)
のんびりした野郎ども!(お前らみんなと話がしたい)
Carry the news
発信しろ!

と一番だけを訳してみたところ、25歳で自殺する奴や、周りでもまったくさえない若者が数多く見られる世の中で、大人たちも声を大にして彼らを非難するわけだが、その状況に埋没しないで、自身を現し主張せよ!、そう若者よ発信せよ!(CARRY THE NEWS)と唱える、若者に対する応援歌のようにも聴こえる。

2番以降の歌詞を吟味していないので良くわからないが、ルー・リードらよると、ゲイの賛歌としても捉えられているようだ。

だが、ボウイーによると、半年前に出したアルバム、ジギー・スターダストに収録された5YEARSと言う曲に、地球は5年以内に崩壊すると歌った内容に反応し色々な情報を発信した少年たちについて書いたものだとか…

1番の歌詞を素直に読めば、Boogaloo dudes、(ゆるゆるの野郎)という言葉に特に反応して、私としては怠惰に過ごす諸君!発信せよ!と聴こえる。

と言う訳で、シコシコと読んでもらえるかどうか解らない記事を不定期ではあるが発信しているのである。

何ですって!

ボウイーは若者(YOUNG)の野郎どもに対してそう歌っているのであって、決して不良のおっさん向けではないって!

では、タイトルをALL THE YOUNG DUEDSからOLD AND YOUNG DUDESに是非変えていただこう~

もしもし、ボウイーさんちょっとお話が。

あの~、ボウイーさんあちらで忙しくされていて、ちょっとコンタクト取れないんですが…

遅まきながら、R.I.P. ボウイーさん

David Bowie - All the Young Dudes


レコード・ショップの思い出

2016年09月13日 | AMERICAN ROCK/POPS
CDやレコードを実店舗で買わなくなって久しい。

ほとんどの場合、ネット通販に頼る。

重い腰を上げて、ハードオフに繰り出し100円の中古レコードを漁る事もあったが、気になる中古はほとんどネットのオークションを利用する。

買取ショップの担当の査定が厳しく、所有者もレアの中古廃盤の場合は、オークションに出したほうが高く売れるケースが多いからだ。

島流し状態の現在、所有している音楽の再生装置は、ウィンドウ7を使う古いデルのデスクトップに内臓されているCD-ROMと数千円のPC用アクティブ・スピーカーだけと言う貧相な再生環境である。

そのため、わざわざ通販を使ってCDやレコードを購入することも無く通販もご無沙汰となっている。

通販の魅力は、時間をかけてわざわざ実店舗に出かけなくとも、家まで1-2日で配達してくれるのと、纏め買いすると価格も実店舗で購入するより割安でさらに送料もいらないって事だろうか。

おかげで、都心の一部の大型店舗を除けば、この十年間で街のCDショップは廃業もしくは倒産という悲しいこととなった。

実店舗といえば、昔は3種類使い分けていた。

一つは近所のレコード・ショップで、この場合は音楽雑誌などで前もって調べて、購入確定の新譜レコードを買うために出向き、他のレコードには見向きもしない。

旧譜であっても定番中の定番ビートルズのアルバムは当時何処のショップでもおいていた。


エルトンの“ピアニストを撃つな”は、発売日に速攻で購入。

レコードの販売は再販制度をとっており、小売店では値引販売が出来ないため、当時は10枚集めれば1枚もらえるクーポンを購入ごとに配っていた。

これは大体何処のレコード・ショップでも同じ仕組みなので、近所のショップを利用。そうすれば、通常のプロモ以外にカレンダーとか大型ポスターを特別にもらえるメリットがあった。

また、店主と顔見知りのため、購入しなくとも視聴も時々させてくれた。

店主:パープルいいの出したよ。ちょっと聴いてみる?

ジャジャジャジャ、ジャーン~ ジャジャジャジャ、ジャーン~

私:こっ、これがパープルの新譜、バーンなのか!

あいにく他のレコードを買うことを決めていたので、予算の関係でパープルのバーンは却下。

二つ目は、ターミナル駅のショッピング・モールにあった、チェーン店を持つ中規模のショップだった。このモールには、同じ規模の異なるショップが2件入っていたので、近所に売っていない新譜もしくは旧譜レコードを探しによく出かけた。

イエスの3枚組みは近所のショップでは、買う人がいないので仕入れていなかったみたい。


ムーディーブルースの旧譜も近所じゃ無理。

こういう時が一番楽しく、一期一会の世界と言うか、色々迷った挙句何処からとも無く“俺を買ってくれ~”というような妖気に導かれまったく違うジャンルのレコードを買ってしまったり、ジャケ買いに走ったりと思っても見ない購入となった。

家に持ち帰って聴いてみる。

何これ!って感じたレコードもあったが、その場合は納得いくまで聴き返し、それでもだめなら、押入れ行き。

しかしながら、おおむねわたしの直感で選んだものに間違いが無かったと思っている。

三つ目は、都心の繁華街にある専門店もしくは、レコードだけではなく楽器や楽譜なども大量に売っていた楽器店系列のストア。

エルトンのデビュー、古いアルバムだったので、都心の専門店でゲット。最後の一枚だった。

楽器店系列のストアでは、高価なフェンダーのエレキに手を触れようものなら、早速店員が近づいてきて、どのような物をお探しでしょうか?となるので楽器のエリアから退散。

何件か大手のショップをはしごすると一日があっという間に終わってしまった。

番外として、70年代末にいったアメリカのタワーレコード。

当時カー・ラジオから、WHAT A FOOL BELIEVESが連日のようにオンエヤー。


シカゴのHOT STREETSからシングル・カットされたNO TELL LOVERも流行っていた。

日本の大手書店の文庫本のように、10枚20枚と所狭しと平積みされた数多くの新譜、それ以外にも旧譜のストックも充実して、初めて行った時は夢みたいだった。

確かに国内盤と比べるとレコードやジャケットの質は見劣りするが、手垢の付かないよう、すべての商品にシュリンクがかけられ、日本で発売されていない新譜がいち早く安価だったため、20数枚を始めて大人買いとなった。

正月でも来ない限り、ジョージのオール・シング・マスト・パスやイエスのイエスソングスなどの購入は無理であった昔、その限られた小遣いで一期一会の感覚で1枚のレコードの購入となると、結構緊張したものである。

現在、使えるお金に少し余裕が出来ると、クリックするだけで簡単に通販で購入出来るので、それほど必要でないものまでつい余計に買ってしまう悪癖が出てくる。

そんなに買い集めてどうするのって話で...

現在の島流しの状態が悪癖を直す唯一の特効薬みたいで (汗)

持つべきものは? エリックとジョージ

2016年09月10日 | Jeff Beck, Eric Clapton and etc.

博士:レインボー・コンサートって聞いた事あるかのう?

助手:えー、それって私に聞いているのですか? 最近ほとんど出番が無くなったので、忘れられたのかと思っていました。

一般的には1973年1月にロンドンのレインボー・シアターで開かれた、エリック・クラプトン・カムバック・コンサートですよね。


博士:その通りじゃ。1970年、デレク・アンド・ドミノス名義で出したレイラのアルバム以降、ドラッグやアルコールそしてその他もろもろの問題で、エリックが引きこもっていたのを元気付けるため、彼の友人達が、また表舞台に立てるよう引っ張りだしたのじゃ。


フーのピート・タウンシェンドが音頭をとり、トラフィックのメンバーのスティーブ・ウィンウッドとジム・キャパルディ、フェイセスのロン・ウッド、ブラインド・フェイスでベースを弾いていたリック・グレッチなどらの、オール・スター・バンドによる競演だったのじゃ。

助手:エリックはどちらかと言えば、スタジオ録音よりはステージでギターを弾いて観客からの反応を貰う方が好きみたいだったから、ライブに引っ張りだして、まだまだやれるって自信を出させるの良い考えだったと思いますね。

博士:エリックの通常のライブの出来からしたらこれはベストの演奏ではないとか、客演のスティーブ・ウィンウッドがエリックより目立っていたとか色々といちゃもんが当時ついたみたいじゃったが、わしが思うにはそこそこの出来じゃった。

ただ残念じゃったのは、当時LP1枚で出されて、サイドー1とサイドー2それぞれ3曲収録、計6曲の少々地味な編集じゃった。

助手:そうですね。コンサートで演奏された、メインのレイラとかクロスロードなどこのメンバーの演奏で聴いてみたいと言う曲は割愛されましたからね。やっぱり2枚組みでないと。

博士:1995年に音源がリマスターされ14曲入りのCDが出たのじゃが、これも地味じゃったのう。

助手:ああー、CDのジャケットのことですね。レインボー・コンサートなのに、ジャケの背景が黄土色の単色で印刷されていたことですね。


博士:やはり持つべきは友達と言う事で、エリックも心機一転、翌年の1974年には、461 オーシャン・ブルバードのアルバムで見事カムバック。アイ・ショット・シェリフでシングルも大ヒット。

助手:そう言えば、エリックも友達思いで、特にビートルズのジョージとは非常に仲良しでしたね。

博士:ジョージのカーちゃんと三角関係になり、外から見れば相当う雰囲気悪いと感じたものじゃが、当人らはそうでもなく、ずっと仲良しじゃったのう。

助手:本当に不思議な関係。

それから、ジョージはちょろちょろとゲストなんかでステージに立ったものの、ソロ・コンサートはやろうとしなかったのですが、エリックの申し出で、突然のごとく日本でソロ・コンサートツアーを1991年12月に行いましね。

博士:1971年にジョージ主催、エリックやその他有名ミュージシャンの客演で開催されたバングラデシュのコンサートは大成功したものの、1974年のダーク・ホース・アメリカツアーは大こけした。

それがトラウマになって、その後は大々的なソロはしないと決めたのかも?

だからワシも驚いた。しかも何で日本だけで。

助手:1974年の時は、ジョージの声の調子がおかしくまともに歌えなかったみたいですね。

それから、バック・バンドがトム・スコット率いるLAエキスプレスと言う少しジャズやフュージョンがかった演奏が売りのバンドだったから、曲のアレンジが当時の観客が期待したバングラデシュ・コンサートの演奏のようなオリジナルに近いものではなかった。

と言う状況で、コンサートを見に行った人たちはさらにガクッときたのではないかと…

博士:まあそれと比べると、1991年のジョージのライブ・イン・ジャパンでは、相変わらずのへっぽこボーカルだったが、エリック率いるバンドの演奏がしっかりとバックをサポートしていて、ビートルズからソロにおけるヒット曲を網羅したのには非常に好感が持てたのう。


たまに勘違いして、スタジオ録音と違ったアレンジでどうだこの新アレンジはとさすがだろうと言わんばかりにライブをするミュージシャンがいるが、ディランを除いて普通観客が求めているのは、スタジオ録音にある程度忠実で、その上にライブの迫力加えた演奏を望んでおる。

助手:なんでエリックは、ジョージにソロ・コンサートを薦めたのでしょうかね?

博士:昔から、ジョージは自身にスポット・ライトが当たるのを好まなかったのだろう、だからビートルズ時代も目立ちたがり屋が二人もいたおかげで当時は気が楽だったと述べている。

トラベリング・ウィルベリーズでも、全員がリーダーの役回りを分け合っていたし、それまでも、ライブはゲストとしての参加だけだったからのう。

エリックとしては、ソロでのコンサートは確かにプレッシャーはあるが、もっとソロ・コンサートを自身で執り行い、エリックと同様にジョージにもその楽しさを味わって欲しいと思ったのじゃないかのう?

助手:エリックの薦めで、ツアーの開催を日本にしたのは正解でしたね。アメリカ国内のツアーと比べて、移動距離も少なく短期間で終了しますから、それ程疲れない。

そして一番の理由としては、日本には世界に誇る沢山のビー・ファンがサポートしますからね。成功間違いなし。

やはり持つべきものは友達ですね?

博士:いや~、ワシの場合は、持つべきものはお金じゃのう~


いつも日本を見ているおっさん

2016年09月07日 | JAPANESE
海外で働いていると“日本人はいつも日本の方を向いている”なんて良く言われます。

お客さんを訪問した際、急いでいるのですぐに注文を出したいのだが、価格をこの額にあわせてくれって言われたとき悩みます。

その商品の仕入れ価格がインプットされているので、ある程度の値引であれば仕入れ価格から逆算して利益が出るのであれば、その場でオーケーって言えるのですが…

そう言った場合、大概提示される先方の価格が、利益が出るか出ないかの微妙~なレベルなんですね。そうなると、出先の人間の一存では判断できないのです。

となると、決まり文句は、“日本サイドに確認を取ってから、返事をします。”

これが週の初めならば、翌日に日本から確認を取った上で返事が出来るのですが、金曜日の午後にそのような事態になると、返事は次の週ってことになり、お客さんから上述のように皮肉られるわけです。

私も苦い経験があり、すぐに決断してくれって言われたので、過去の販売実績の価格を照らし合わせて、受注すれば何とかギリギリで利益が出ると言う判断で、注文を飲み込んでしまいました。

すぐに結論を出さねば、他社に注文を持っていかれると言う状況を説明し、受注した旨日本に連絡すると、価格が改定されその価格では安すぎて受け入れられないと返事が来て大変な事となりました。

その後、お客さんに状況を説明し、受注価格を少し上げてもらったのと同時に日本サイドもメーカー側から何とか特別に値引きする事が出来、事なきを得ました

もちろん、後日社長さんにはこっぴどくしかられた記憶があります。

今のように、携帯端末やインターネットが使えればその場で日本と連絡がとれるのですが、何しろ二昔以上前の頃の話なので、当時の通信手段は、事務所まで戻ってテレックスか固定電話を使用する以外ありませんでした。

だから、重要なお客さんから、今すぐ結論を出せと言われれば、腹をくくってエイ、ヤーの気合と共に返事するしかなかったのです。

そして今でも、“あんたはいつも日本の方を向いている”なんて言われそうです。

何故なら当ブログの記事は日本に向けて発信されているからです。

日本にいた時はそうでもなかったのに、いざ外に出ると、毎朝インターネットで他愛のない日本のニュースを拾い読みしたり、プロ野球の結果を見て”また負けてる“なんて、東京都民でもないのに都知事選に妙に関心を持ったり、ホント!結構気になりますね。

若かった頃は、海外に出れば何でも見てやろうとか体験してやろうって、日本のことは忘れて結構前向きだったのに、歳をとるとそうでも無くなるって言うか…

やっぱり生まれ育ったところ一番なのかも。

生まれた街で
荒井由実

いつものあいさつなら どうぞしないで
言葉にしたくないよ 今朝の天気は

街角に立ち止まり
風を見送ったとき
季節が わかったよ

生まれた街の匂いやっと気づいた
もう遠いところへと ひかれはしない

小さなバイクを止め
風を見送ったとき
季節が わかったよ

街角に立ち止まり
風を見送ったとき
季節が わかったよ


ニールの様に尖っちゃいないよ、ジョン・フォガティー(改)

2016年09月06日 | CCR and John Fogerty

ホスト:本日登場のゲスト紹介いたします。

元CCRのジョン・フォガティーさんです~

ジョン:どうも。どうも。

ホスト:お忙しいにもかかわらず、このようなむさ苦しい所においでいただき、有難うございます。

ところで、あなたの音楽志向と言えば、南部のルーツ・ミュージック、すなわちブルース、R&B、カントリー、フォークなどを取り込んだシンプルなロック・サウンドが売りになっていた思うのですが?

ポリティカルな歌も色々ありますね?

ジョン:ニール・ヤングのように直接的に攻撃するって感じではないけど、まあ、聴けばわかるって感じで歌を作ったよ。

ホスト:Fortunate Sonなんかそうですね。

Fortunate Son収録

ジョン:あれは、ニクソンが大統領だったときの話で、彼の娘が元大統領だったアイゼンハワーの息子と結婚なんていう話からインスピレーションが浮かんだのさ。

金持ちや権力者の家に生まれたものは、それを代々引継いで行きいつも特別な扱いを受けるってね。

金や権力があれば何だって出来る。金で兵役免除。

だから、一般人は、It Ain’t Me, I Ain’t No Senetor’s Son(俺じゃねぇ~、俺は上院議員の息子なんかじゃね~)、It Ain’t Me, I Ain’t No Fortunate Fon(幸運な息子じゃねぇ~)と揶揄ったのさ。

ホスト:それから、6枚目のアルバム、ペンデュラムの “Have You Ever Seen The Rain(雨を見たかい)”もポリティカル・ソングって感じですが。

I Want To Know, Have You Ever Seen The Rain, Coming Down On A Sunny Day. (君は晴れた日に降り注ぐ雨を見たことはあるかい?)と歌えばベトナム戦争に於いて、ジャングルに隠れているベトコンを炙り出す為、アメリカ軍が空中からジャングルに散布した、オレンジ・エージェント(枯れ葉剤)のことを比喩してるんじゃないかと?

ジョン:まあ、そう取られるかも知れないけど。

実際のところ、まったなしのCCRの解散についての歌だったといえるね。

その明るく、美しく晴れた日の空から同時に雨が降ってくるのは、思ってもみない晴天の霹靂。

すなわちバンドの解散。(兄のトムが脱退し、解散状態となるも後日残りの3人で最終アルバム、マルディ・グラを出す)

晴れた日にそうなるって時は、すべての事が正しくなくなっていくんじゃないかなんて当時は悩んだよ。

ホスト:それ以外にも、Run Through the Jungle やWho'll Stop the Rain などが有りますね。

Run Through the JungleとWho'll Stop the Rain収録

ジョン:ポリティカル・ソングを含めて、CCRの歌全体にも言えるんだけど、まあ、出来るだけ他のバンドのまねをしないと言う意識を持って、且つ自身の個性を反映して作ったものさ。

特に、ソロになって出したアルバム、センター・フィールドなんかは、その延長線上のもので、捜し求めていた心の声を具象化したものさ。


そう、俺が見聞きし思ったことをシンプルに歌にしてるのさ。

な~んて会話がなされたかは定かではない。

ところでアルバム、センターフィールドの中に、I Saw It On TVと言う歌がある。

ジョンのテレビを通しての幼少からの記憶を回想した様な内容となっている。

アイクことアイゼンハワーの大頭領就任式から、当時の数多くのテレビ漫画やエルビスなどなど、それにボストンからやってきたケネディーがダラスで暗殺されたことだどなど。

そしてビートルズのアメリカ上陸と自身のバンドの結成、さらに戦争屋は大もうけ。
毎晩6時のニュースでそれらを見た。

ずっとテレビの中の出来事と思っていたが、やつらに一人息子を奪われてしまったとき、その心は終わりなき世界に繋がれてしまった。

全部本当のことさ、だってテレビで見たから。

とCCR時代のヒット曲Lodiのようなこれまた親しみやすいカントリー・タッチで当時の世相を淡々と歌っている。

Lodi収録

“I Know It's True, Oh So True, Cause I Saw It On TV(全部本当のことさ、だってテレビで見たから。)”とリフレインで歌う歌詞はたぶん皮肉じゃないかと思うのだが。

しゃれっ気を出して韻を踏む多く歌詞の場合、その意味は特段重要では無いと言っている某有名シンガー・ソング・ライターもいるし、また60年代末期のことを歌った曲なので、今さら歌詞にポリティカルだからどうだこうだとこだわる必要はないのかも知れない。


John Fogerty "I Saw It On TV"


健在なり、ニール節炸裂!

2016年09月05日 | CSN&Y

その昔、自社、他社問わず、先輩方から“出張や駐在なんかで海外に出かけた時は、その国の政治や社会問題なんかの話しにあまり首を突っ込んじゃだめだよ。”とよく言われたものである。

言論統制の厳しい国はもちろんのこと、そうでなくともやはりその手の話はご法度。

本人が正論を吐いていると思っても、その国では正論と認識されない場合もあるし、たとえ正論でも“生まれ育った国でもないお前に何がわかる?”てな事にもなりかねないので黙っているのが一番。相手に意見を求められても、“よくわからない。”と答える。

ところで、ロックの歌詞といえば、もともとカウンター・カルチャー、所謂反体制の音楽と捉えられた側面もあり、その歌詞には、政府や政治、もしくは社会全体に対して辛らつな言葉で非難したり揶揄っていることが多い。

ニール・ヤングが1970年に出したアルバム、アフター・ゴールドラッシュに収録されたSOUTHERNMANとか、1972年のハーベストのALABAMAなんて、今でも南部の諸州でのコンサートで歌うことは憚られるのではないかと。

アフター・ゴールド・ラッシュ、SOUTHERNMAN

ハーベスト、ALABAMA

後の1974年に、南部のロックバンド、レイナード・スキナードが、SOUTHERN MANやALABAMAの作者ニールに対して意趣返しのようなアラバマ州賛歌、SWEET HOME ALABAMAを出している。その後彼らがさらにもめたかどうかは定かではないが。 

レイナード・スキナードの2枚目、セカンド・ヘルピング

また、1970年、CSN&Y名義でニールが作詞作曲し、シングルのB面カットされた、OHIOと言う曲も過激だ。

これは、ある州立大学での州兵による学生射殺事件に対する政府と州政府への抗議の楽曲で、当時の大統領や州兵をNIXON(プレジデントとは呼ばすに)そしてTIN SOLDGER(ブリキの兵隊)と歌っている。

フォー・ウェイ・ストリート、ライブ盤にも収録されている

アメリカは広大で、伝統的に南北や海岸部と内陸部などで考え方が異なる。そのため、ヒットを飛ばしたとしても、それがアメリカ全土で必ずしも受け入れられているとは限らず、政治や社会に対して批判的な内容の歌は、敵を作ることにもなるので、たとえ大物のシンガーやバンドであろうとも誰しも及び腰となるのでは。

ビートルズのライブツアーでのジョンの宗教に関するちょっとしたジョークが後で大事となったからね~

まあ、特に失うものは何も無いと自覚しているかのようなカナディアンのニールだからこそ、此処まで突っ込めたのかもしれない。

そして70年代ニールは社会に対して吼えまくったわけだが…

オーッと、今尚現役、しかも敵も多い。

2015年のアルバム、ザ・モンサント・イヤーズでは、今度は遺伝子組み換え作物生産の大手モンサント社やその遺伝子組み換えでのコーヒー豆を使用しているかも知れないスターバック社に喧嘩を売っているのである。


彼の荒々しいディストーションのかかったエレキ・ギターを前面に押し出したシンプルなフォーク・ロック調の楽曲で、歌詞さえわからなければ、いつものニール。

この表題曲を聴いた後、45年以上前に出されたセカンド・アルバムの、COW GIRL IN THE SANDを聴いたが、サウンド面ではまったく違和感はない。

クレージー・ホースを従えたセカンド・アルバム

やっぱり諸先輩方のアドバイスを聞いて、部外者としては曲のメロディー、アンサンブルやリズムだけを追いかけてその雰囲気を楽しむのが無難なのかもね。

あまり深く考えれば、スターバック行けないかも…