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CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

遅効性のマジック?

2025年05月14日 | JAPANESE

本日はチューリップの1972年のファースト・アルバム、魔法の黄色い靴 (Yellow Magical Shoes)でも。

(1975年に再発された再発盤)

福岡でアマチュア時代に人気バンドであった彼らが遂に東京に出て東芝参加のエキスプレス・レーベルからレコード・デビューすることに。

ビートルズに影響を受けた彼らの売り出しにレコード会社も結構力を入れていたみたいで、LPレコードには56cmx84cmサイズの大判ポスターなどが封入されるなど気合が入ったものとなっていたし、更にジャケにはJohn Fischbach(五輪真弓のファーストアルバム、少女のプロデューサー)のコーディネーションによってロス・エンジェルのキャピトル・レコードのBill Smithなる人物がラッカー盤のカッティングしたって記載されている。

ただ新人バンドとしては割とお金を使った破格のプロモーションを行ったにも関わらず、レコード・セールスは不発。また続くセカンド・アルバムもイマイチの売り上げだった。

そのため福岡に逆戻りかと追い詰められた彼らだったが、最後のトライとして出したシングル、心の旅が起死回生の大ヒットし全国区のバンドへと躍進。

1972年といえばアリスや赤い鳥などフォーク・ロック・バンドがプロとして活動をスタートさせたニューミュージック到来の時期でこのアルバムもそこそこ売れそうに思ったのだけれどね…

イエロー・シューズのマジックの効果が即効性ではなかったのか?

確かに後でじんわり来る作品だったとは思う。


ポップなスーパートランプ

2025年04月28日 | JAPANESE

本日はイギリス出身のプログレ・バンド、スーパートランプの7枚目のスタジオ・アルバム、Famous Last Wordsでも。

1979年の大ヒット・アルバム、Breakfast In Americaの次作にあたり、1980年のライブ・アルバムを挟んで1982年にようやく発売された。前作の作風を踏襲しポップな好アルバムに仕上がり楽しめたものの、前作が余りに売れ過ぎてちょっと影が薄く感じられたかな?

因みにスーパートランプはバンドの2枚看板でもあるバンド創設者のリック・デイビスとギター担当のロジャー・ホジソンの両者がそれそれの作品をバンドに提供し、作風としてはリックがプログレ系、ロジャーがポップ志向の強い作風だった。

ただ前作でシングル・カットされ大ヒットしたポップな作品、The Logical Song、Breakfast In AmericaやTake The Long Way Homeなどがすべてロジャーの作品だった事からロジャーにそれまで以上により注目が集まりバンド内でのパワー・バランスが崩れた。

よって本作の制作過程においてバンド内がギクシャクしたのか、発売までに時間がより多くかかったのと、音楽の方向性が異なる事からバンドは解散せずに結局ロジャー一人が本作をもってバンドから脱退することに。

ところで、1992年にイエスがニュー・アルバム、Talkを制作する少し前、トレバー・ラビンがロジャー・ホジソンとコラボ・アルバムの制作をしていたと言う話を伝え聞いた。

もしロジャーがジョン・アンダーソンの代わりに新生イエスに加入していたならよりイエス史上最大のポップな作品が産まれていたかも知れない。


日本語でのロック

2025年04月09日 | JAPANESE

本日は1990年に出た佐野元春のコンピ・アルバム、Moto Singles 1980-1989でも。

1980年のデビュー・アルバム、Back To The Streetから1989年の6枚目のアルバム、ナポレオン・フィッシュと泳ぐを制作した期間に発売されたシングル盤を集めたもので、彼の作風がいかに変遷を遂げてきたのかよくわかるコンピ・アルバムである。

70年代の初め頃、内田裕也や彼の率いるフラワー・トラベリン・バンドは日本画の歌詞はロック・サウンドに乗っかりにくいということで英語の歌詞で勝負、かたやはっぴぃえんどらを中心に日本語とロックを融合させる試みようとする勢力もあり、当時ロックにおける日本語の歌詞に関する論争が局地的に勃発。

それから10年ほどが経って日本語の歌詞でのロックはかなり熟れてきて、佐野元春の作品を聴いていくとどこの言語で歌われようともロックはロックであると言う事が十二分に証明されている。

特に日本語でのラップ・ミュージック、コンプリケーション・ブレイクダウンを初めて聴いた時は、あまりに日本語が曲にマッチしていてその自由な発想に度肝を抜かれた。


一期一会

2025年03月09日 | JAPANESE

本日はギターと三線とが掛け合わさって誕生した一五一会なる楽器を使って簡単にビギンの代表曲を一緒に演奏してみようってことで企画されたCD、ビギンの一五一会でも。

そのため彼らのオリジナルの楽曲のアレンジをよりシンプルに変えあっさり目に仕上がっている。

沖縄らしさを感じる旋律を取り入れた彼らのハイブリッドな歌曲は聴いていてリラックス出来また何だか懐かしささえ感じる。

ところでCDのジャケを見ていると、2003年ってなっているのであれから既に20数年経っていることになる。

買った記憶は既に忘却の彼方に行ってしまってその時どんな経緯があったのか今では思い出すことは出来ないが、洋楽が中心のオイラにとっては和物のCDを買うことは今でもほとんどなくその時何か一期一会の出会いを感じこのCDを手に入れたのかな.....


アフター・サーヴィスも抜かりなく

2025年01月16日 | JAPANESE

本日はYMOの作品でも。

メンバー達が現状の活動於いて煮詰まってしまったのか1983年に突如バンドの散会宣言を出し、そして最後のスタジオ・アルバム、Serviceを制作する事に。それと同時に散会コンサート・ツアーをスタートさせ、翌年にその模様を収録した武道館ライブ、After Serviceが世に出ることに。

当時制作された最新作、Serviceからはシングル・カットされたSee-Throughのみで過去アルバムからのベスト物とでも言える選曲。

演奏もコンピューター・テクノロジーの進化のお陰で、YMO3人にゲスト・ドラマーのデビット・パーマーを加えた計4人だけの演者にも関わらずスタジオ・アルバムばりの分厚い演奏を聴かせている。

ServiceとAfter Service両方聴いてりゃ当面の欲求は満たされるってことで、彼らのファースト・フィナーレとして相応しかったと思う。

ただ個人的には、せっかくのライブ・アルバムなのでスタジオ録音的な予定調和を目指すのではなく初期ライブでの渡辺香津美が弾く様なフュージョン系ロック・ギターを加えて曲を派手に暴れさせても良かったかな…


J-Pop、旧時代はつらいよ

2024年12月24日 | JAPANESE

今のアーティストは、Cool JapanなるプラスのイメージとYouTubeやTikTokなどの画像メディアなる新たの武器に一気に海外でも成功できるチャンスがある恵まれた時代に生きている。

70年代のJ-Pop アーティストは海外進出となると余程の実力がないと中々難しい時代だった。MTVもまだ無く、日本のアーティストを売り出そうとするなら海外での公演が不可欠で実績のないアーティストにそんなセールス・プロモーションに割ける資金などなかった。

そんなこんなでちょっと1980年のサンディー(Sandii)のソロ・アルバムを引っ張り出してみた。

(初回盤は緑色の別ジャケだった)

(昔は日本なんて中国の一部って思っていた人もいたので、あえてこの図柄で勝負!)

(5曲目のAlive, Okinawanな旋律にロックが絡んできて心地よい)

プロデュースが細野晴臣。脇を固めるは久保田麻琴、高橋幸宏、教授、大村憲司、松武秀樹らイエロー・マジック系の実力派アーティストの面々。

そして、ジャケ表はピンクの色彩を基調とした背景にプラスティック製のようにピチッとしたサンディーのナイス・バディーがドドォーンと登場。そして裏は日本と言うよりは、アジアをイメージしたエキゾチックなイラスト。

更にテクノ・ポップに日米ハーフを生かした達者な英語で歌われているのがポイント。

てな事で当時の日本の先物買いのリスナーを狙っていたのと、海外でも特定のリスナーに少しは刺されば良いかなって感じのプロダクションだったかな?

あれから約45年経った今聴いてもそれほど古いって感じはしない中々の出来。もしあの時代にYouTubeやTikTokがあればそこそこ彼の地でも売れたんじゃないかと….


J-Pop 新時代

2024年12月23日 | JAPANESE

いや~ これほどまでにオイラがオジン過ぎたのを感じた事はない。

昨日、久々に点けた見たテレビでNHKスペシャル、J-Pop 新時代、熱狂は世界を駆けるという番組を観た。最近一番流行りのCreepy Nuts、Number_iと新しい学校のリーダーズなる3組のグループが登場し世界進出を果たしているという内容だった。

Number_iはジャニーズの会社が解散したことから新たに結成されたグループだったのはかろうじて知ってはいたが、それ以外の事は全く知らずにこれら3組の今流行のヒップホップをベースにした曲を初めて聴き、今やすごい事になっているのだと感じたね。

オイラが特に親しみを持っているその昔の日本ミュージック・シーンでは、60年代に洋楽のポップ、R &Bやロックが進出してきてコピーされ更にグループ・サウンズが登場。70年代になるとそれらをベースに日本的なオリジナリティーを更に高めていく事になる。

70年代初めの中心的な存在の一つがはっぴいえんどだったかな。バンドの活動自体は短命だったが、解散後70年代のJ-Popや歌謡界を牽引していく役割をそれぞれが果たしていく事になる。

本日は彼らの1974年に出たコンピ・アルバム、Singlesでも。とは言え当時バンド名義で出したシングルが3枚だけだったので、サイド−1は大瀧詠一の2枚のシングルと細野晴臣のシングル、A面・B面合わせて計6曲。サイドー2に彼らの3枚のシングルA面・B面合わせて計6曲が収録された変則的な内容となっている。

(2001年に再発されたレコード盤)

(巌窟王のエドモン・ダンテスをもじった作詞家、江戸門弾鉄には笑った)

(ヴァン・ダイク・パークスが何気に作曲に参加している)

フォークでもなく、また歌謡曲やグループ・サウンズ系でも無いあちらの影響を受けた不思議な感じで、なるほどこれがニュー・ミュージックなのかと当時じんわりと理解していったものだ。

ところが、21世紀になってJ-Pop 新時代を飾る高速ジャージー・クラブのビートに乗ってBling-Bang-Bang-Bornって歌われるとロートルなオイラにはそのスピードにはもう付いていけないね。

Bling-Bang-Bang-ボケ〜ってなる。


時代劇が少なくなったね

2024年12月22日 | JAPANESE

オアシスがデビューして早30年以上が経つ、昭和は遠くになりにけりってよく言われるけれど、平成の世もそろそろ一昔前の懐かしの時代に突入って思える今日この頃。ただオイラの音楽史における更なる発掘をするとなるとやっぱり二昔前の60ー70年代ですかね。

そこで本日は70年代末の岡林信康でも。

岡林信康と言えば60年代末から70年初期ごろ、山谷ブルース、友よとかチューリップのアップリケなんて深夜のラジオで掛かっていた記憶が…  ただ洋楽により親しみを感じていたオイラはそれほど関心を示さなかった。

ディランとザ・ホークス(後のザ・バンド)の如くはっぴい・えんどを従えてフォーク・ロックでブイブイ歌っていたが、活動を停止しその後田舎に籠って農業に勤しむ。その後更に活動再開するとフォークや演歌の方に流れたかと思いきや急にポップな芸風に路線変更と目まぐるしかった。

日本コロンビアからビクター系のインヴィテーション・レーベルに移籍し1979年に制作したアルバムが “街はステキなカーニバル” だった。

昔、フォークの神様と呼ばれていた岡林信康を知っている者としては、なんだかおちょくられている様なタイトルではあるが、フォーク、ポップそして歌謡曲が混ざり合い、歌詞に関してもポリティカルな要素が抜けたより時代に即したより身近なものとなった。またデビュー当時のフォーク・シンガーのイメージを覆すようにポップな曲を演奏する姿が、なんとなく今は自身が演りたい音楽を演るだけ!何か文句ある?と開き直っているかの様にも感じたね。

“君に捧げるラブ・ソング” がピカイチであるが、このCDにはボートラとして個人的に一押しの “Gの祈り” (服部半蔵、影の軍団のエンディング)が収録されていたのでつい買ってしまった。

そう言えば、最近は殆ど時代劇に新作テレビで見ないね。時代劇は現代劇と比べて制作にお金がより掛かるのと、視聴者がオイラの様な年配が多くスポンサーが重視するコア視聴率が取れないからですかね?

こんな時、更に昭和は遠くになりにけりって強く思っちゃいますね。


10円レコード、その3

2024年10月04日 | JAPANESE

またまた懲りずに近所のなんちゃらオフに行って10円レコードを発掘。税込110円の値引きされた小さなシールが貼ってあった中古レコード群に狙いを定め、いつも通り必殺の100円の割引クーポン提示しレジのキャッシュ・トレーに10円玉一枚しっかり置いてまいりました。

キリッ。

本日発掘したのは、60年代末ごろから関西フォークをリードした五つの赤い風船のアルバム。

会員制のレコード・クラブちょして発足した、URC(アングラ・レコード・クラブ)レーベルではなく、ビクターが当時 “フォークの殿堂シリーズ”と銘打って彼らの作品をフォーク・アルバム第一集として1969年に出したもの。

(この空気排気口からして、新宿駅前?)

当時はベトナム戦争真っ盛りで結構反戦歌的なものがアングラ系フォーク・バンドによって結構レコーディングされていたね。洋楽専門に聴いていたオイラは70年代になって彼らの存在を知ったが、当時はちょっと一歩引いた感じの距離感だった。

確か90年代頃に彼らのベスト物のCDを買った筈がいつの間にか見当たらなくなり、今回懐かしさのあまりつい買ってしまった。

改めてレコードに針を落とすと、前の持ち主が結構聴き込んでいる感があって音はそれほど宜しいわけではないが、あの時代の雰囲気が朧げながら記憶に蘇る。


オイラの個人的な愛重盤

2024年09月12日 | JAPANESE

本日は邦楽のLP。

チューリップのメジャー活動10周年を記念して1981年に出たアルバム、The 10th Odysseyでも。

プロになってからのオリジナル・メンバーだった吉田彰と上田雅利が脱退し新メンバーが加入しての2枚目のアルバムで、ますます財津和夫のバンド内での存在感が更に大きくなってきた。

実は心の旅だとかサボテンの花だとか彼らの数々ヒット曲は知っていたけれど、ずっと洋楽ばっかり聴いていたので、彼らのレコードを買ったのはこのアルバムが初めてだった。

ジャケ・アートの印象や宇宙がなんちゃらって歌っている曲が収録されているけれど、基本的にはそんなイメージ抜きでまったりとしたアルバム全体の雰囲気が妙に気に入り心地よく聴くことができた。

就職して見習い期間もすでに過ぎ3年目を迎えた当時、就職先が小さい会社こともあってすでに実戦投入され気の抜けない毎日を送っていた。そんな時、多分洋楽ではなく日本語で歌われる少々緩めのミュージックの方が心が癒されると思ったのか結構繰り返して聴いた記憶が…

他の人がどう思おうと、あれから40数年たった今でもたまに聴く個人的な愛重盤であります。


デッド・エンド

2024年07月16日 | JAPANESE

70年代、日本語のオリジナル曲プラスあちらの曲を英語でカバーする構成の和物ポップ・アルバムはちょくちょく見かけた。

1977年発売のゴダイゴのセカンド・オリジナル・アルバム、Dead End、これは全く違うコンセプト!

もちろん海外進出って考えは頭にはあったのだろうけれど、何しろ日本のリスナーに対しても全編英語の歌詞によるオリジナル曲をぶち込んでアルバムを制作。自らのスタイルを貫いていくその姿勢に共感したね。

ただ日本の一般的なリスナーに浸透するにはもうひと工夫の仕掛けが必要。それが翌年のNTVのテレビ・ドラマ、西遊記のテーマ・ソングに採用されたモンキー・マジック。

歌詞が英語で歌われようが、やっぱりゴールデン枠に放映された人気ドラマとのタイ・アップはすごい破壊力で、ゴダイゴの人気は一気に上昇。

その点でモンキー・マジックと比べれば派手さはないものの、このアルバム、高い演奏能力に裏打ちされたプレグレ感が心地よい。

ブレイクする前夜の袋小路を彷徨っていたゴダイゴであった。


110円のLPに想いを寄せる

2024年07月06日 | JAPANESE

昨日大人買いしたレコードの1枚を紹介したい。

1977年のハイファイ・セットのサード・アルバム、Love Collection。

このアルバム当時大ヒットしたそうで、調べてみるとオリコン11週連続で1位を獲得し、先行シングルのモーリス・アルバートのFeelingsのカバーもヒットした。また松任谷由実の雨のステイションと中央フリーウェイを本家を超える歌唱力でカバー。もちろん本家の特徴のある声質での歌いっぷりは、それはそれで悪くはない。

帯付きジャケは一般的な中古のレベルで、また盤面もキズなしでこの値段であれば問題はない。

少し前であれば邦楽のレコードは大体100円程度だったが最近はレコード再ブームの中アーティストによって300−500円の値付けとなっている。

ただいつかはこのブームも去り、またまた物置の肥やしに逆戻りか中古ショップへの流浪の旅に出るんだろうね。

オイラの場合は、オイラが長年にわたって集めたレコードのコレクションを家人の誰もが引き継ぐ意思はなく(まあ粗大ゴミですからね)、また鰻の寝床のような自宅にはさらなる収納スペースもなく中古ショップ行き確定。


Mannaのセカンド・アルバム

2024年06月19日 | JAPANESE

ここ最近80年代の日本発シティー・ポップスが再び注目を集め、なんとそれらの中古盤が発売当時の価格を上回るような結構な値段で取引されているそうな。

慢性金欠病に罹患しているオイラにはとっても手が出ない。てな事で本日は昔買った70年代末に登場したニュー・ミュージック系女性シンガー、Mannaのレコードでも。

1979年に細野晴臣らティン・パン・アレイ系のミュージシャンの洒落たアレンジのバックにデビュー・アルバム、Chabako Trickを制作。当時ラジオでオン・エヤーされていたYellow Magic Carnivalに登場するとぼけた感じに聞こえる柳昇さんのフレーズについ惹かれて買っちまった。

そして翌年にはセカンド・アルバム、Mannaを発売。当時局地的にオン・エヤーされていたTokio通信にこれまたハマってつい買っちまった。

アメリカン・ポップス調のふんわりとした歌いっぷりがこの人の特徴で、結構癒されます。

ただ彼女のソロ・アルバムはこれら2枚しか出なかって、もう少し続きが聴いてみたかったね。

ちなみに歌謡ポップの第一人者である筒美京平氏の作品が4曲入っている。

 


まあ肩の力を抜いて

2024年05月29日 | JAPANESE

本日は1992年5月に出た尾崎豊の最終アルバム、Confession Of Exitでも。何とこの作品が発売される直前にお亡くなりに…

名前は知っていたけれど、後追いで買ったのでその当時のことはよく知らないけれど、アルバムの副題に、“生きること、それは日々を告白して行くことだろう”って書いてあることから、人物像としてかなりセンシティブで自身のフィロソフィーで常々自身を律しないと前に進めない感じですかね。

三日坊主で無神経、都合の悪いことはすぐに無かったことにって感じで生きてきたオイラとは対極の存在。

まあ肩の力を抜いて彼の音楽を楽しみましょうって言ったら、尾崎豊を語る資格なし!て言われるかも…


オイラのアイドル

2024年05月13日 | JAPANESE

本日は70年代アイドルのシングル盤を取り上げてみる。

オイラがファンだった南沙織の1972年の4枚目のシングル、純潔でも。

この頃は今とは見違えるくらいの純情な少年だったわけで、彼女のような少し年上の憧れのおね~さんに、よく歌の文句じゃないけれど"好きよ”なんて言われたら卒倒してしまったのではないかと…

今年の初めにお亡くなりになった旦那の篠山紀信氏と結婚した時は、オイラのアイドルが行っちまった~と悲しんだけれど、個人的には篠山氏の週刊誌に掲載された激写シリーズをよく立ち読みさせてもらい大変お世話になったこともあって、まあ仕方ないのかと複雑な気分でもあった。

ところで、洋楽好きのオイラからしたら、この曲を聴くといつも思い出すのが北アイルランドのR&Bシンガーのヴァン·モリソンが出した1971年のアルバム、Tupelo Honey。そのアルバムからシングル·カットされたWild Nightのイントロにクリソッじゃねぇ!

まあそんなこんなで、この曲今でも結構印象に残っている。

私愛してる〜 彼も感じてる〜 恋は大事ね〜 🎶

本当、大事ですよ。