風に吹かれて旅ごころ

はんなり旅を楽しむはずが、気づけばいつも珍道中。

東京古墳巡り・古墳祭り 2

2020-02-06 | 東京

その1からの続きです。

● 古墳ガイドツアー

古代汁を食べ終わったところに、「古墳ガイドツアー希望の方は本部に集まってください」とのアナウンスがかかりました。

「気になるね!」と、さっそく参加してみることに。
予想外のいろいろなことが、とんとん拍子に進んでいきます。
「私たちって、すごく日頃の行いがいいのかも!」と、謎の自己肯定感に浸りました。

古墳ガイドツアー希望者は結構多く、30~40人ほど集まりました。
案内人は、世田谷区の古墳専門の学芸員さん。古墳のエキスパートと聞いて、ワクワクします。

● 野毛大塚古墳


まずは、この会場となっている「野毛大塚古墳」。
全長82メートル、直径66メートルの、帆立貝式前方後円墳です。
再び、高さ11メートルの円墳に上がりました。
結構足が億劫になってきています。

「王の棺」と呼ばれる箱型石棺がどのように埋蔵されていたかが、絵で表示されていました。


古墳時代のヤマト王権の首長は、「大王(おおきみ)」や「王」と呼ばれていました。
ガイドさんは「王」という呼び方をしますが、首長と呼ぶ人もいるそうです。(どちらも正解)

当時、日本では鉄がとれず、朝鮮半島から延べ棒を輸入していました。
国内の鉄は、全て大和朝廷が握っており、朝廷と関係がないともらえませんでした。
この辺りの古墳の埋蔵品に鉄製のものが出ているため、当時から遠い奈良の都との関連性があったことが証明されています。

● 等々力渓谷横穴群

次に、野毛大塚古墳のある公園から、行きに通ってきた道を戻ります。

隣の空き地は、元都営住宅跡地で、そのうち公園に整備され、古墳の資料館を作るかもしれないとのこと。楽しみです。

等々力渓谷に入りました。
ここで横穴墓が6基以上発掘され、「等々力渓谷横穴群」と呼ばれています。
そのひとつ、3号横穴を見学しました。

横穴群は古墳とは違います。
古墳は墳丘を持ちますが、横穴墓は持ちません。
ただ、広い意味ではどちらも古墳とされます。

 


3号横穴は、古墳時代後期(7世紀) のもの。
昭和48年に発掘され、ガイドさんも当時のクルーに加わっていたと、思い入れ熱く語っていただきました。
実際にここを掘ったご本人に解説してもらえるなんて、なんて贅沢!
崖に全長13メートルの横穴が掘られた形で、中を覗いてみましたが、今は石が積んであるだけ。

墓室には、この地域の有力な農民とされる人骨が3体以上埋葬されており、静岡産の土器や耳環(イヤリング)なども副葬されていたそうです。

● 古墳の上の家

発掘調査後の昭和50年には東京都指定史跡になりましたが、その後、遺跡の上にマンションが建ったため、もうこれ以上の発掘調査はできないとのことです。
先ほど、田園調布の豪邸エリアを通りながら、(あれ、ここに古墳があったはずなのに)とあちこちで思いました。
今の世は、古墳の上に普通に家が建てられるんですね。

考古学的には(本当にそれでいいの?)と思いますが、古墳は水害の起こらない、水はけのいい場所に作られるもの。
その条件は、たしかに人が家を建てたい場所と共通します。
土地が少ない日本では、古代の話なんてしていられないのでしょうか?
うーん、建築関係の人に、今度聞いてみたいものです。

● 大和に行った人がいた

古墳時代末期から奈良時代にかけて作られたとされる横穴は1号から3号まで発掘されましたが、1号横穴と2号横穴は、石碑しか立っていません。
2号横穴からは、大和(奈良)で使われていた土師器が出土しており、葬られた人物は、都(平城京)まで遥役(ようえき)で働きに行き、そこから持ち帰ったとされています。
そんな昔に、東京から奈良まで、徒歩で行って帰ってくるなんて、命を懸けた大きな旅だったでしょうね。
「防人歌」を思い出しました。

● 御嶽山古墳

等々力渓谷を抜けて、等々力不動尊明王院の通り向こうに渡りました。
小高い緑地が、次に訪れる「御嶽山古墳」。
等々力不動尊の管理下にあり、普通は入れないところです。 

うっそうとしている小藪の中の細道を通っていきます。
大型台風以降、初めて人が入るそうで、倒れている石仏もありました。

「実際、ほとんどの古墳はこんな状態です。人が手を入れないと、すぐに荒れてしまうんですよ」とガイドさん。
定期的に管理していかないと、古い古墳は、藪の中に埋もれて、所在さえわからなくなってしまうんですね。

「ふむふむ、なるほど」と重々しくうなずいて話を聞いていましたが、ヤブ蚊の攻撃を手足に受けて、痒さにもだえる私たち。

 

小高い丘の一番上には、蔵王大権現が彫られた石絵がありました。
今ではこの場所は、等々力不動尊の僧侶たちの修行場となっているそうです。

● 国分寺崖線

ここを出てからは、一般住宅エリアの道を通っていきますが、坂を上ったり下りたり、けっこうなアップダウン。
国分寺崖線がここまで続いているそうです。
国分寺崖線とは、多摩川が流れる過程で武蔵野台地を削り取ってできた、河岸段丘の連なり。
立川市から大田区まで約30キロメートルに広がる、武蔵野の代表的な地形です。
以前、国分寺市恋ヶ窪の辺りを崖線にそって散策しましたし、二子玉川にある静嘉堂文庫でも見たことがあります。

● 狐塚古墳

最後に訪れたのは、「狐塚古墳」。
塚と古墳という、お墓を意味する言葉がダブルで入っていますが、狐のお墓ではありません。
この場所に稲荷神社があり、狐も住んでいたからそう名付けられたそうです。

 

周りよりも小高い盛り土になっている墳丘は、ランドマークの役割を果たします。
そのため、戦時中にはサーチライト部隊により大砲が据え置かれたそう。
その後、昭和初期の土地区画整理によって、古墳の一部を削り取られました。
上の画像ではみ出た部分です。

● その後の災難

かつての立派なお墓も、時代を経て、結構さんざんな目に合ってきているんですね。
私たちは決してお墓を雑に扱う国民ではないと思いますが、後世の事情を最優先されて、古墳は削られてしまっていることに、心が痛みます。

 

発掘調査が行われた古墳の中に、もう人は埋葬されていません。
「かつてのお墓」というのが正しいのですが、それはもうお墓と見るものではないのでしょうか。
そして、遺跡として保存されるには、何かが足りないのでしょうか?

まあ、完全形ではないにせよ、こうして保存されているのは、まだいい方です。
人家の下に埋もれてしまった古墳がたくさんあることを、私は知っています。
この辺りには、古墳がたくさんあるので、その全てを保存してはいられないのでしょうね。
どこかで線引きをして、今の時代の生活を優先しているのだと思います。

● 荏原台古墳群

多摩川流域、国分寺崖線のエリアは広く、この辺り一帯は「荏原台(えばらだい)古墳群」と呼ばれています。
エジプト・ナイル川には「王家の谷」、東京・多摩川には「王家の丘」があるわけですね。
私たちがスタートした多摩川駅の辺りからずっと続いていますが、多摩川駅のある大田区の方は「田園調布古墳群(1650年ほど前)」、こちら側の世田谷区の方は「野毛古墳群(1600年~1500年ほど前)」と、分けられます。
つまりこういうことです。

  荏原台古墳群=田園調布古墳群(大田区)+野毛古墳群(世田谷区)

私たちは、午前中は田園調布古墳群、そして午後は野毛古墳群と、この日は荏原台古墳群をつぶさに巡っています。

しかし今回ガイドしてもらえるのは、この狐塚古墳まで。
ガイドさんは世田谷区の職員なので、ここから先の大田区は、管轄外になるのですね。
今の行政区画がうらめしいわ~。

ガイドしてもらった野毛古墳群の3つの古墳は、巡った順に古いものから新しいものになっています。
直径は、野毛大塚古墳82メートル、御嶽山古墳57メートル、狐塚古墳30メートル。
どんどん小さくなっているのは、時代とともに大王(おおきみ)の力が落ちたことを表しています。

● 参加者のコメント

最後に、参加者からの質疑応答コメントタイムになりました。
「野毛大塚古墳の隣に資料館ができるなら、大田区のよりいいものを作ってください!」
おお、ライバル心がめらめらと。

そもそも、バブル期にすでに展示室を作る計画があったそうですが、バブルが弾けたために中止となり、それきりだったのだそう。
古墳ファンは、ずっと待っていたんでしょうね。

ガイドさんは「あの古墳資料館(最初に見学した多摩川台公園古墳展示室です)は、もうできてから30年たつので、解説内容がけっこう古くなっているんです」と教えてくれました。
(古い古墳のことだから、いいんじゃない?)と思いますが、30年間で古墳の研究はかなり進み、新説や新発見も出ているのだそう。
なるほど~。古墳の世界も、日進月歩で解明されつつあるんですね。

● 私の質問

私は、「古墳があった場所に"元古墳"の表示板などは立てないんですか?」と質問しました。
先ほど、住宅地を巡った時に、何も手掛かりがなくて、かなり苦戦したからです。
するとガイドさんは「個人情報の問題などがいろいろあって、立てられないんです」と教えてくれました。
そうなんだ~。古墳のプライベート情報?
いえいえ、今そこに住んでる人の方ですね。

今の文化財保護法は弱く、指定されていないと、私有財産の方が価値が高いのだそうです。
うーむ、「現在」に「過去」をどう据え置くか、という話になりますね。
もちろん、「現在」が最重要ではありますが、「過去」なくして「現在」は成り立たない、と歴史好きは思うのですが・・・
いろいろな大人の事情があるんでしょうね。

住居を建てる際に、土台を削るため、上に個人宅が建った古墳は、もう削られてしまって見られないのだそう。
古墳としての価値は消滅したということかも。

また、公園は2方向が道路に面していないと整備できないということで、狐塚古墳は古墳を切り崩して公園にしたそうです。
古墳の形をそのまま保存するには、住宅街の中、そこだけ道路がゆがんでしまうためなのでしょう。やはり現在優先の措置ですね。
日本は土地が少ないから、仕方がないのかな・・・。

● 現地解散

ここで現地解散となりました。
うーん、ためになったなあ。2時間プロにじっくりとガイドしてもらい、とても詳しくなれた気分です。

時間は15時半になっていました。
「お昼まだ食べてないね」「おなかすいたね…」
もうおなかはクークーです。

とはいえ、住宅街のど真ん中での解散になったため、辺りにお店はありません。
そして、これから通っていく道にも、お店がある気配はありません。
しかたありませんが、休憩なしのまま、進み続けます。

● 東京都市大学

ほかの参加者たちが、野毛の古墳の方へ戻ったり、最寄りの尾山台駅の方へ向かう中、私たちだけ別方向の、多摩川に向かう下り坂を降りていきました。

途中で、東京都市大学世田谷キャンパスの前を通りました。


都市大学(通常時)

「都市大学と都立大学って、別なのね」
「なんか間違えちゃいそうね」
と言いながら前を通りましたが、とても閑散としています。
休日なので人がいないにしても、すべての機能が停まっているような雰囲気です。


浸水した都市大学(台風直後)

あとになって、このキャンパスは一週間前の台風による多摩川の増水で、一階と地下階が冠水し、全館停電したと知りました。Wi-Fiも電話も使えないとのこと。
大学内のPCサーバが浸水でダウンし、全面復旧を強いられているものの、今なお見通しが立っていないそうです。

通った時には水は引いていましたが、人の気配が完全になかったのは、そのためだったんですね。
地下階は図書館だそうです。なんて大変なことに・・・。
(図書館は、2020.2.6現在、閉館中です)

● 変わり果てた多摩川土手

行きは山の手の田園調布住宅地を抜けていきましたが、帰りは道を変えて多摩川の土手を超え、川沿いの遊歩道を通っていきます。

 

土手まで来ると、かつて見たこともない光景が広がっていました。
水につかった場所のすさまじい変わりように、驚きました。

普段は散歩やランニングをする人々が行き交う、気持ちの良い遊歩道が、歩きづらい、ぬかるんだ泥と化しています。

見渡す限り、誰もいません。
そこにいる生物は、水たまりにいるカラスとスズメだけ。

流れのはきだまりのようなところには、林を伐採したのかというほどの木の枝がうず高くたまっています。

枝溜まりの場所にはたくさんのペットボトルやクーラーボックスなどが引っ掛かっていました。

テニスコートのネットはビリビリに破け、流れてきた木の枝が引っかかっています。
サッカーゴールもひっくり返っています。

殺伐とした光景。ディストピア。

長らく地下で暮らし、地表に出たら核戦争終了後で人々は死に絶え、自分たちしか生き残っていなかった世界みたい。

荒れた景色と川の向こうに、小杉のタワマン群が見えるのが、『猿の惑星』のようでまたシュールです。

災害後、なによりもまず最優先すべきなのは、人の生活の安定。
優先度が低い多摩川の川沿いは、しばらくはこのままなのでしょう。

変わり果てた光景に圧倒され、衝撃的な光景に言葉を失いながら、そのまま川沿いを進んでいこうとしましたが、どんどんぬかるみが深くなっていきます。
途中で通行止めの黄色いテープが張られていたため、戻って多摩川駅前に戻り、そこから多摩川浅間神社へ向かいました。

● 多摩川浅間神社

源頼朝の妻、北条政子ゆかりの神社。
神社で参拝をしてから、見晴らし台に向かいました。


富士山が臨める見晴らし台には、遥拝するための水晶玉がありますが、この日は雲が多めで、霊峰の姿は見えませんでした。


多摩川と、川向こうの武蔵小杉を見下ろします。
ここは映画『シン・ゴジラ』で、斉藤工演じる自衛隊長が殉職をした場所のロケ地です。

 

野毛大古墳を出発してから、ろくに休憩もないままここまで歩きっぱなし。
休憩する場所がなかったためですが、もはや足の感覚が無くなってきています。

多摩川駅前はお店が少ないため、もうひと頑張りして、ふた駅先の武蔵小杉まで行ってみることにしました。

● 丸子橋を渡る

 

多摩川にかかる丸子橋を渡ります。
川の真ん中が県境。東京から川崎に入りました。

新丸子駅前に着き、そこからもうひと駅先の小杉へ。
着いた時には、もう4時半になってました。

● 夕方ランチ

「いい加減、ランチを食べよう!!!」


野毛大古墳でもらった「等々力カレーフェスティバル2019~古墳と渓谷~」のチラシを取り出します。
”カレー屋さんが一軒もない街で開催される、世界初のカレーフェスティバル"との触れ込みでしたが、今回のルートと逆方向だったので、あきらめたものです。

眺めていると、なんだかとってもカレーな気分になってきました。
武蔵小杉には飲食店がたくさんあり、その中でもカレー店に的を絞りました。

● 天馬カレー

向かったのが、東急スクエア内にある「咖喱&カレーパン 天馬」 
出店したばかりのお店です。


テイクアウトコーナーには、カレーコロッケ目当ての人たちの長蛇の列ができていました。
半端すぎる時間なので、レストランの方は並ばずにすんなり入れます。

メニューをチェック。普段なら、野菜カレー的なちょっとヘルシーなものも考えたりしますが、今や飢えたケモノと化した私たちは、迷わずカツカレーをチョイス。
揚げたてサクサクのぶ厚いカツが載ってきました。
カレー屋さんのカレーは、コクが深くておいしかったです!

 

万歩計は2万7千歩をカウント。
家に帰ると3万歩を越えます。さすがに脚がくたびれました。

10月とはいえ、汗ばむような暑い日で、行きも帰りも暑さを耐えながら歩いていました。
食事が終わったら、川崎側からの多摩川の様子を見ようかと話していましたが、ここまで長く歩きすぎたせいか、座って休憩したら、すっかり身体が休みたいモードになってしまいました。

この日は充分、散策しましたからね。
もうすぐ暗くなるので、今回はここで解散することに。
また会おうね~!!

● epilogue


帰りのルート

大型台風の爪痕は深く、当日までなにかとせわしなかった今回は、事前のプランニングがほぼできませんでした。
ただこの日、偶然開催されていた古墳祭りに参加できて、終わってみれば、本当に古墳づくしの一日になりました。

また思ったよりも、多摩川流域の台風の被害が大きく、自然の爪痕を目の当たりにして愕然としました。
一日も早く、人々が元通りの暮らしを送れるようになればいいと思います。

一日で集中して、古墳巡りができたのは、とても楽しくためになりました。
徳川家康が江戸をもらうまでは、関東はずっとなにもない暗黒時代だったようなイメージがありますが、太古の昔の古墳時代には、大きなドラマがあったのでしょう。
古墳にコーフン協会に入会しようかしら~?


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