DIARY yuutu

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大橋秀夫(1947-)「親鸞の煩悩とその『密意』」:親鸞の過剰な「自己非難(悲嘆)」「無限の許しと抱擁を期待できる母(法然)」を求めつつ「父親(法然)殺し」、ここから生じる「罪悪感」!

2022-04-13 16:41:12 | 日記
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収

(1)親鸞の過剰な「自己非難(悲嘆)」!
親鸞「愚禿悲嘆述懐和讃」は86歳の作だ。このような年にいたってなお、これほどわが身を責めるのは、どういうことか?「鬱病」か、「偽悪的な人」か、「欲望がよほど強い」のか、あるいは「良心の過敏な人」か?本論では、親鸞の過剰な「自己非難(悲嘆)」の意味を推定したい。(152頁)

(2)親鸞29歳、法然(源空、69歳)の浄土門下に入る!「綽空」(シャックウ)!
親鸞を懐妊した時、夢に如意輪観音が現れ、「優れた子の出生」を予告する夢を母親が見た。親鸞はそのことを母親から聞かされ育った。親鸞(1273-1263)は9歳の時出家し、比叡山に入る。僧としての名は「範宴」(ハンネン)だった。29歳の時、比叡山をくだり、夢告を得て、法然上人(源空、69歳)に面会。百か日通い詰めて、法然の浄土門下に入る。法然により「綽空」(シャックウ)の名を与えられた。1201年のことだ。(153-154頁)
(2)-2 親鸞(「善信」)35歳、越後配流!「非僧非俗」と自らを呼び、「愚禿親鸞」と名乗る!
その5年目、1205年、法然73歳の時、親鸞(33歳)は新たに「善信」の名を得る。法然に対して南都(興福寺)・北嶺(延暦寺)などから激しい攻撃があり、1207年専修念仏停止の院宣が下る。法然75歳は土佐へ、親鸞(善信)35歳は越後へ流される。越後流罪後、親鸞(「善信」)は自らを「非僧非俗」と呼び、「愚禿親鸞」と名乗った。この時すでに、9歳年下の恵信尼がいた。(154-155頁)
(2)-3 1211年、親鸞の流罪許される!1212年、法然80歳で寂滅(親鸞40歳)!親鸞、1214年関東・常陸国に移り、以後約20年過ごす!
1211年、親鸞の流罪が許される。すでに法然は1207年末に流罪が許されたが、帰洛は1211年だった。しかし法然は1212年に寂滅(80歳)。親鸞は40歳だった。親鸞は赦免後、京都にもどらず、1214年(親鸞42歳)、関東・常陸国に向かう。3年間下妻に滞在後、笠間郡稲田に移り、そこに庵を結び、以後約17年間過ごすことになった。(155-156頁)
(2)-4 親鸞62、63歳頃、京都に帰る!1256年親鸞84歳の時、子の善鸞を義絶!1262年親鸞死去(90歳)!
親鸞62、63歳頃、京都に帰る。親鸞は『教行信証』の推敲等、著作活動に没頭する。だが関東では門弟の教義に関する動揺対立が顕在化する。①諸神仏の軽蔑、②悪人こそ阿弥陀仏の正客であるとして、ことさらに悪を行う造悪無碍(ゾウアクムゲ)(悪を造ることに 碍サマタゲ無し)の邪義が広がった。異解を正そうと、親鸞は息子善鸞を関東に派遣する。ところが善鸞は、造悪無碍を正そうとして、他力よりも自力信仰を主張。混乱は一層拡大し、親鸞は善鸞を義絶(親子の縁を切る)。1256年、親鸞84歳だった。その6年後、1262年親鸞は90歳で亡くなった。(156-158頁)

(3)釈迦の教え(原始仏教)と大乗仏教!大乗の教えの一つが浄土思想!
釈迦の教え(原始仏教)は「自力の自己救済思想」だった。釈迦の入滅後、数百年たつと、「自己の悟り」だけでなく、「他者の救済」にも力点を置く大乗仏教運動が起こった。大乗の教えの一つが浄土思想である。浄土宗の開祖法然(源空)によって、これが一つの宗派として日本で確立した。(158-159頁)
(3)-2 法然の「自力を含む他力」の救済思想!
法然『選択(センチャク)本願念仏集』は、「南無阿弥陀仏(南無とは帰依の意)と念仏(称名)すれば西方極楽浄土に往生すると信じ、一心に専ら念仏に励め、そうすれば死に臨んで阿弥陀仏が来迎し、極楽浄土に往生する」と説く。つまり法然の思想は「他力・易行」であるが、念仏が「自力」の行である限り、「自力を含む他力」の救済思想だ。(160-162頁)
(3)-3 親鸞の「絶対他力」の救済思想!
親鸞によれば、「阿弥陀仏への真実信の獲得」、「浄土往生」(往相)、「現世回帰衆生済度の活動」(還相)は、阿弥陀仏の誓願力(阿弥陀仏の回向)によりなされ、自己のいかなる努力(計らい)にもよらない。それ故、この信心を「絶対他力」、「金剛の信心」という。(164頁)
(3)-4 法然(回向は可能)と親鸞(回向は不能)の救済思想の差違!
法然の「自力を含む他力」の救済思想と、親鸞の「絶対他力」の救済思想は対立する。つまり(a)親鸞は人間を回向(自己の修した善根功徳を浄土往生のため回し向けること)不能と断じる。人間は清浄心(真実心)が有り難く、善行を修めても煩悩(悪)の毒が雑るからだ。これに対して(b)法然は、己を煩悩具足の凡夫と自覚しつつも、善は、悪(煩悩)から分画できるので、回向が可能と解した。(167-169頁)

(4)「女犯の夢告」と法然への「惚れ込み」、「同性愛的感情」、「対象希求的な一体化欲求」!
親鸞は法然に対し「信頼」以上に、無意識下の「惚れ込み」、「同性愛的感情」(フロイト)、「対象希求的な一体化欲求」(土居建郎「甘え」)のもとにあった。親鸞(範宴)が法然門に入ったきっかけは、頂法寺六角堂の「女犯の夢告」だった。夢に観世音菩薩が現れ「我は玉女の身となりて犯せ被(ラ)れむ」と語った。夢で性の受容(これは心理的合一でもある)を観世音菩薩に保証され、皆にも伝えよとの一般性(合法性)を獲得した青年僧「範宴」(ハンネン)は、現実にも法然によってその支えを得たのだ。(171-173頁)
(4)-2 親鸞の法然排除、否定の行為における無意識の「父親殺しの欲動」!
だが親鸞は、法然からもらった名である「善信」から、越後流罪後、自ら「親鸞」と名乗る。親鸞は法然の影を払拭し、繋がりを断ったのだ。親鸞は「自力回向を保持する法然」との関係を断った。すなわち「自力を含む他力思想」「念仏至上主義」を排除した。親鸞の法然排除、否定の行為は「父親殺しの欲動」に駆られてのものだ。ただしこの「父親殺し」「法然排除」の欲動は親鸞の意識に上っていたわけでない。無意識下のものだ。隠された親鸞の「父親殺し」である。(174-176頁)
(4)-3 親鸞の「法然」に対するアンビバレンス:「排除すべき父」&「無限の許しと抱擁を期待できる母」!
親鸞は、あからさまに法然を否定せず、意識において最後まで忠実であった。親鸞は法然を必要としていた。破戒僧親鸞にとって、法然は暗黙裡に持戒を要求し、それゆえ「排除すべき父」であると同時に、「無限の許しと抱擁を期待できる母」でもあった。親鸞の「法然」に対するアンビバレンス!(177頁)
(4)-4 「無限の許しと抱擁を期待できる母」を求める親鸞の無意識下の欲求が「純粋受動、絶対他力の信仰」を生んだ!
法然を「無限の許しと抱擁を期待できる母」として求める親鸞の無意識下の「惚れ込み」、「同性愛的感情」(フロイト)、「対象希求的な一体化欲求」(「甘え」)が、「救い」に関する「純粋受動、絶対他力の信仰」となった。(177頁)

(5)親鸞の過剰な「自己非難(悲嘆)」:「無限の許しと抱擁を期待できる母(法然)」を求める無意識下の欲求の挫折から生じた「父親(法然)殺し」、ここから生じる「罪悪感」!強迫病者的だ!
(ア)親鸞の過剰な「自己非難(悲嘆)」は、一方で「無限の許しと抱擁を期待できる母(法然)」を求める無意識下の欲求、他方でその挫折から生じた「父親(法然)殺し」、ここから生じる「罪悪感」にもとづくと推定しうる。(178頁)
(イ)しかもこの「罪悪感」は、持続とその程度において病的であり、強迫病者のそれと言ってよい。(178頁)
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