[B]ロゴスの概念
(4)ロゴスとは「見えるようにする」ことだ!
I ギリシア語のロゴスの根本的意義は、「話」である。
I-2 ロゴスはその後、「理性、判断、概念、定義、根拠、関係」などの意味へと変様していった。
I-3 Ex. ロゴス(「話」)が「言明」と解され、かくて「判断」とされた。
J ロゴス(「話」)とは、話されているものごとを、話されているもの自体の方から、「あからさまにすること」(デェ―ルーン)、すなわち「見えるようにする」こと(ファイネスタイ)だ。
(4)-2 「綜合」としてのロゴス
J-2 このようにロゴスは「あるものを挙示的にみえるようにすること」なので、ロゴスは「綜合」(シュンテシス)という構造形式を持つ。「綜合」とは「なにかあるものとの『つながり』において、なにかをあるものとして見えるようにする」ことだ。
(4)-3 ロゴス(「見えるようにする」こと)は「真」もしくは「偽」でありうる
K ロゴスは「見えるようにする」ことなので、ロゴスは「真」もしくは「偽」でありうる。
K-2 「真」とは話題となっている存在者を「隠れから取りだし、それを隠れもないもの(アレーテス)として見えるようにすること」だ。
K-3 「偽」とは、何かを見えるように置いて、それをそれでない「べつのものだ」と言いたてること。つまり「蔽いかくす」という意味で「あざむく」ことだ。
(5)感性的な「覚知」(Vernehmen)(アイステーシス)は、ロゴスより根源的に「真」だ
L ロゴスは「見えるようにすること」だから、ロゴスは真理の第一義的な「ありか」でない。
L-2 「ロゴスよりもいっそう根源的に、あるものをそのまま感性的に覚知する」という意味でのアイステーシスこそ「真」である。
L-3 Ex. 見ることは、つねに色を発見し、聞くことは、つねに音を発見する。
(5)-2 純粋なノエイン(※思考スルコト)こそ「もっとも純粋で最も根源的な意味」において「真」だ!
M 「もっとも純粋で最も根源的な意味において『真』であり、すなわち、決して蔽いかくすことがありえないという意味でひたすら発見的でありうるのは、純粋なノエイン(※思考スルコト)である。」
M-2 「これ(純粋なノエイン)は、存在者たるかぎりの存在者のもっとも単純な存在規定をそのまま注目して覚知する働き」である。
《感想》純粋なノエイン(※思考スルコト)とは、超越論的主観性=モナド(=宇宙=世界)のことだ。それは、デカルトのコギトに当たる。これこそ「もっとも純粋で最も根源的な意味」において「真」だ!
(6) ロゴスは理性である:あるものを端的に見えるようにする、すなわち存在者を覚知させる!
N 「ロゴスの機能が、あるものを端的に見えるようにする、すなわち、存在者を覚知させる(Vernehmen-lassen)という点にある」ので、かくてロゴスは理性(Vernunft)という意義をもつ。
(6)-2 ロゴスは、「挙示されたもの」つまり「基体」である!&ロゴスは「根拠」である!&ロゴスは「関係」である!
O ロゴスは、レゲイン(語ルコト)であると同時に、レゴメノン(挙示されたものそのもの)という意味がある。かくてロゴスは、現存するものとして根底におかれるもの、つまりヒュポケイメノン(基体)である。ここからロゴスは、またラティオ(根拠)をも意味する。
O-3 レゴメノン(挙示されたものそのもの)としてのロゴスは、「あるもの『として』呼ばれるもの」をも意味するので、ロゴスは「関係」・「関わり」という意義を帯びる。
(4)ロゴスとは「見えるようにする」ことだ!
I ギリシア語のロゴスの根本的意義は、「話」である。
I-2 ロゴスはその後、「理性、判断、概念、定義、根拠、関係」などの意味へと変様していった。
I-3 Ex. ロゴス(「話」)が「言明」と解され、かくて「判断」とされた。
J ロゴス(「話」)とは、話されているものごとを、話されているもの自体の方から、「あからさまにすること」(デェ―ルーン)、すなわち「見えるようにする」こと(ファイネスタイ)だ。
(4)-2 「綜合」としてのロゴス
J-2 このようにロゴスは「あるものを挙示的にみえるようにすること」なので、ロゴスは「綜合」(シュンテシス)という構造形式を持つ。「綜合」とは「なにかあるものとの『つながり』において、なにかをあるものとして見えるようにする」ことだ。
(4)-3 ロゴス(「見えるようにする」こと)は「真」もしくは「偽」でありうる
K ロゴスは「見えるようにする」ことなので、ロゴスは「真」もしくは「偽」でありうる。
K-2 「真」とは話題となっている存在者を「隠れから取りだし、それを隠れもないもの(アレーテス)として見えるようにすること」だ。
K-3 「偽」とは、何かを見えるように置いて、それをそれでない「べつのものだ」と言いたてること。つまり「蔽いかくす」という意味で「あざむく」ことだ。
(5)感性的な「覚知」(Vernehmen)(アイステーシス)は、ロゴスより根源的に「真」だ
L ロゴスは「見えるようにすること」だから、ロゴスは真理の第一義的な「ありか」でない。
L-2 「ロゴスよりもいっそう根源的に、あるものをそのまま感性的に覚知する」という意味でのアイステーシスこそ「真」である。
L-3 Ex. 見ることは、つねに色を発見し、聞くことは、つねに音を発見する。
(5)-2 純粋なノエイン(※思考スルコト)こそ「もっとも純粋で最も根源的な意味」において「真」だ!
M 「もっとも純粋で最も根源的な意味において『真』であり、すなわち、決して蔽いかくすことがありえないという意味でひたすら発見的でありうるのは、純粋なノエイン(※思考スルコト)である。」
M-2 「これ(純粋なノエイン)は、存在者たるかぎりの存在者のもっとも単純な存在規定をそのまま注目して覚知する働き」である。
《感想》純粋なノエイン(※思考スルコト)とは、超越論的主観性=モナド(=宇宙=世界)のことだ。それは、デカルトのコギトに当たる。これこそ「もっとも純粋で最も根源的な意味」において「真」だ!
(6) ロゴスは理性である:あるものを端的に見えるようにする、すなわち存在者を覚知させる!
N 「ロゴスの機能が、あるものを端的に見えるようにする、すなわち、存在者を覚知させる(Vernehmen-lassen)という点にある」ので、かくてロゴスは理性(Vernunft)という意義をもつ。
(6)-2 ロゴスは、「挙示されたもの」つまり「基体」である!&ロゴスは「根拠」である!&ロゴスは「関係」である!
O ロゴスは、レゲイン(語ルコト)であると同時に、レゴメノン(挙示されたものそのもの)という意味がある。かくてロゴスは、現存するものとして根底におかれるもの、つまりヒュポケイメノン(基体)である。ここからロゴスは、またラティオ(根拠)をも意味する。
O-3 レゴメノン(挙示されたものそのもの)としてのロゴスは、「あるもの『として』呼ばれるもの」をも意味するので、ロゴスは「関係」・「関わり」という意義を帯びる。