King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

官能の自然ランと格差問題

2021年06月03日 10時08分51秒 | 珈琲

ジョージクルーニーが全然かっこよくなく描かれている

『ヘイルシーザー』にふれましたが、その後に展開しようとした

視点について全く抜けていましたので再度それに触れたいと思います。

 

それにはマックウィーンのパピオンが直ぐ思いつき思い出されたのです。

 

この映画が作られたのは当時映画界に吹き荒れた赤狩りの嵐で満足な映画製作が

できなくなりそれを打ち破るような形で真の自由を訴えて作られたのがパピオン

なのです。

 

 

いまみると最後のシーンなどダイバーの姿がばっちり映ってしまっていたり

色々と隙の多い映画となっています。その後リメイクもされよりリアルに

原作を映像化したものも作られています。

 

そしてフランス最後の植民地ジブチでの戦争映画『15ミニッツウォー』など

みてもう植民地とか戦争とか過去のことのようにしてしまっていますが、

戦争は今でも続いていて植民地もまだあるのです。

 

今回気になったのは映画界が侵された赤狩りですが、これは日本でもあった

ことと

共産主義が悪というレッテルとイスラム原理主義が同列なもののように

捉えられて処理されていることです。

ヘイルシーザーは赤狩りにはソ連がかかわっていたことや格差の保存が

資本主義にも共産主義にも共通に持っているものでこのままでは広がる

格差も貧困も解決できないことを知ります。

 

もともとトランプ政権ができたのも顧みられないラスタベルトと呼ばれる

貧困白人層が熱烈に支持しているからだといいます。トランプみたいに

その格差の象徴のような人が誤って支持されているというのは如何に庶民や

搾取されている下層市民がバカにされていいように利用されているかという

典型です。資本家もトランプなら御し易いとその擁立や政権をみとめて

イランの核合意離脱やイスラエルのエルサレムの首都容認やゴラン高原の

実行支配支持など娘婿のためのような報道でしたが、今から見ればこれらは

中東で戦争を続けるための政策でそれと同じで南北朝鮮が統一や終戦に

至らなかったのもできたのにやればアパルトヘイトやベトナム終戦をやり遂げた

ケネディのように暗殺されていたかもしれません。

 

資本主義でも共産主義でも自由に語ることとまずはその本質を知ることだと

改めて思いました。

 

コロナはその格差について際立たせた現象です。

 

それについて昨日報道された尾身会長の政府や主催者はやる意味を

示すべきだという発言も子供を諭すようなものでただ騒ぎに拍車を

掛けるだけのようなものだと思いました。そもそもオリンピック憲章とか

世界平和とかお題目のようなものでできたものに理想と真実もなく

日本が金で買ったような開催権だとか不祥事のよる開催の意義など

今更問うたところでそのお題目をまた持ち出して無駄な時間とリソース

の消費になるだけです。

 

背景にはいつまでも終わらないエルサレムの紛争やアフガニスタンのテロの

ように格差容認を認める勢力が支配しているということを人々が知ること

だと思います。

 

中国では感染から抜け出し経済が動き出しているのでそれに乗り遅れないよう

企業も動いているといいます。

 

日本もそれに乗り遅れまいとしてワクチン接種の拡大がすすんでいます。

 

それ等が何を目指し何をなすことなのかと注視し考えていかねばなりません。

 

さて、この梅雨入り前のさわやかな季節も実は不安定な天候でしばしば

走り続けるのが困難な状況になったり、過去この時期によく走るのをやめて

蛍見物に寄ったりという記述がこのブログに出現していました。

 

雨上がりのテイカカズラの香りとか昨日嗅いだ様々な花の香りとか夏草の

香りは実に色々な想念をはらみ実に官能的な色合いを浮かべます。昨日は

栗の花の開花を知りその刺激的なにおいにまた色々と思い出したりしたところ

昨年は中止になったホタル観賞を促すホタルの看板が立っていました。

 

それをみると色々とまたホタルに関する思いでなどが浮かぶのでした。

 

旅行でずっと行きたかった湯布院に泊まったときに夜散歩にでると

今まで見たこともないようなでかいホタルの光の幻想的な風景とか

子供の頃に出会ったホタルのこととかいくつも次々に浮かぶのでした。

 

不思議なのは一般の人にはなかなか見ることのできないホタルに抱く

郷愁のような感情が私にはなく、なぜ秩父の人など見ようと思えば

いたるところにいるのにそれを知らず現実に見た経験も少ないという

不思議な現況があります。

 

実際には簡単に見ることができるのに夜はそんなことをするより

家でテレビでも見ているのが現実的で普通なのでしょう。なんとも

もったいないことです。私には毎日夜ランニングに出るという習慣

から月を見ることとか季節の花々に触れるとか自然を肌で感じることに

より感じる様々な経験がどう生活に影響するかを実感してそれが

珈琲を焼くことに大いに影響を与え季節と珈琲を考える元となっていると

思います。

 

選挙で候補が訴えるマニュフェストが何から起草したかの明示がない

ように元の経験が薄弱なのは毎度のことですが、人の話の本質も話してみると

意外と簡単に顕わになるものてす。そんな人たちに格差の保存については

どう感じているのか問うてみたいこの頃です。

コメント
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