「英語教育」という前に、言葉の教育ということを考えたいです
斉藤博のことを書いてきて、問題は、狭い意味での「英語教育」でなく、「言葉」なのだと思います。
「言葉」の難しさ、面白さ、重要さが、「外国語」を学ぶ時、とりわけ、明らかになります。正確に伝える強い意志、 正確に理解したいとという情熱、そのことの涵養なくしては、英語教育は、うすっぺらなものになってしまうでしょう。
教育には、社会の必要に習う人を合わせるという、「上からの教育」の面だけでなく、習う人が大きく育つのを助けるという「下からの教育」という面がありま す。英語教育も、国際化の時代だからという「社会の必要」に合わせる側面だけでなく、外国語という他者を理解し、外国語という他者を鏡として自分を理解す る力を養うという側面に眼を向けていただきたいと思います。
educateは「~から引き出す」という意味です。ですから、teachと違って目的語には「人」しか来ません。英語や数学を目的語にすることはできま せん。習う側が育つきっかけを見つけ、引き出すという過程が、英語教育の現場でどのように可能なのか、一緒に考えませんか。
英語の先生たちへ。
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