『瓜のつるには茄子はならぬ』
職人ならばだ。
「こんな材料でマトモな物ができるかっ!」
と、仕事もちゃぶ台もひっくり返すこともゆるされる。
だがしかし教師の場合。
「こんなガキを教育できるかぁっ!」
と、心の底から心底そう思っても、口に出すことすらちゃぶ台をひっくり返す事だって許されない。教師はつらいよ。
その隠れた思いが『遺伝』という言葉に、ギュウギュウに詰められていると俺は読む。
俺の名前は内山憲久。木村実ではない。
前の記事の文章を書いた内山憲尚の孫だ。
内山憲尚は、幼稚園の園長先生で、幼児教育に生涯をかけ飯には卵をかけた。ようするに、俺は亡き祖父の文章に孫の義務で突っ込みを入れているのだ。
さぁ、突っ込みの始まりだ!
ちゅ~か、うちのジジィはなんか「遺伝」を正しく理解していないような気がする。
家庭の教育環境と、親からの遺伝をごっちゃにしている。
ダウィン、メンデル、ワイズマン、ゴルトン、ピヤーソン、フリース、ネグリーとか学者の名前を書き並べてはいるけれど、あんたソレただ書き並べているだけでしょとまず突っ込みたい。
文章も、こなれているようでありながらどこかタドタドしく、一般な人にはなんか読みにくい。
なんだけれども、何故だか俺の脳には自然に浸透していく文章なのだ。
書き写していても、なんの違和感もなく自然にタイピングできてしまう。「もの言わず」ってなんだよ、ふつうなら「無口」って言うぜ。ぜってーソレあんたの造語か地方の流通語だろうとか思いつつも、指は自然にキーボードをタイピングしている。
一般のお母さまの話から、唐突に自分の情けない話に飛ぶあたりのリズムも、なんとなく俺の文章が内包しているリズムで、タドタドしさすらも指は自然に受け入れてしまう。
どうも、うちのジジィの口調は「元祖 内山節」であるらしい。なにもかもありのまま自然にタイピングできる。
これって遺伝なのかもってなんとなく思う。
俺の文章が、勘違いで唐突なのはどうやら遺伝のせいらしい。