諒闇の年ばかり、あはれなることはあらじ。
倚廬の御所のさまなど、板敷を下げ、葦の御簾を掛けて、布の帽額あらあらしく、御調度どもおろそかに、皆人の装束・太刀・平緒まで、異様なるぞゆゆしき。
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<口語訳>
諒闇の年ばかり、哀れな事はあるまい。
倚廬の御所の様子など、板敷を下げ、葦の御簾をかけて、布の帽額あらあらしく、御調度どもおろそかに、みな人の装束・太刀・平緒まで、異様であるのがゆゆしい。
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<意訳>
天皇が喪に服せられる諒闇の年ほど、哀れな事もあるまい。
天皇が籠られる「倚廬の御所」の様子など、床板を下げ、葦の御簾かけ、布の帽額は荒々しく、家具などもおろそかで、仕える人間の着物から太刀や平緒に至るまで、異様でおごそかである。
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<感想>
諒闇とは、父母などの大事な人が亡くなった時に天皇が喪に服す事で、その期間は1年とされていた。
最初にまず、天皇は倚廬の御所でお過ごしになられる。古くは13ヶ月であったが、後に13日間に短縮されたとテキストに書いてあるので、古くは喪があけるまでずっと天皇は倚廬の御所に居たのだろう。
倚廬の御所は、地下にいる死者に少しでも近づく為にわざわざ床を低く造ってある。その御所にかけられる御簾も薄墨色の粗末なもので、調度なども簡素なものばかりであったそうだ。
倚廬の御所では天皇のお側にお仕えする者達すら、薄墨色と黒の装束に身を包んでいたようである。その倚廬の御所の異様な様子を「ゆゆしき」と、兼好はこの段で語っている。
さて。
この段で、大事な人を無くして諒闇しちゃった天皇とは誰の事であろうか?
驚くなかれ、いや驚け!
なんと、前の27段で即位したばかりの後醍醐天皇である!
この第28段は、後醍醐天皇の産みの母である藤原忠子が亡くなって、後醍醐がゴダイゴと諒闇しちゃている様子をゆゆしく書いているのだとほぼ本命で推測されている。
前の27段では、先代の引退した天皇のさびしい隠居生活に哀れを感じ、この28段では、時の天皇の喪に服す様子に哀れを感じている。
どうやら、いまの兼好はなんだって哀れで悲しいらしい。
ちなみに、後醍醐天皇の母が亡くなられたのは、1319年。
この年の兼好の推定年齢は37歳である。
この段を書いた時の兼好はなにがなんでも悲しかったらしい。
だけど、しかし、たった1段で推定年齢がひとつ上がっているけど、兼好はいったい幾つの時に、最近の『徒然草』を書いたのだろう?
そんな事は、学者だって分からない。だが、なにがなんでも悲しんだよという胸の内だけは読めば分かる。
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<解説>
『諒闇』(りゃうあん)
父母などの大事な人の喪に天皇が服す期間。
この段で書かれているのは、全段の繋がりなどからして1319年11月15日に、後醍醐天皇の母が亡くならた時のものと推定されている。その期間は1年。
『倚廬の御所』(いろのごしょ)
父母の死から13日間、天皇が喪に服し過ごす仮の御所。
『葦の御簾』
御簾はすだれで、たいてい高貴なお方がその陰に潜んでいる。
通常、高貴なお方は竹のすだれを使った。
葦のすだれは貧乏臭いのである。
『布の帽額』(ぬののもかう)
御簾の外側、潜んでいる高貴なお方の反対側の一般大衆から見上げる側の上部に横長にはった布が「布の帽額」。
それが、諒闇の時は荒々しい濃いねずみ色であったそうだ。
『御調度』
家具などのこと。
『皆人の装束』
天皇にお仕えする人達の装束。
諒闇しちゃている時は、薄墨色がメインの装束だったらしい。
『太刀』
諒闇している時は、黒うるし塗りのさやにおさめられた。
『平緒』
太刀をぶら下げる飾りひも、これも諒闇してる時は薄墨色であったらしい。
『ゆゆしき』
神々しいほどになんだかすごいという意味の言葉。
現代語にすると、「あまりに神々しく、なんだかとにかくものすごい。だから、それが、恐ろしくてなんだか怖くもあり、不吉な感じさえするけど、とにかくその神々しさだけはただごとではなくて、美しくすらある」という意味の言葉。