『兎の眼』灰谷健次郎著 理論社
五月蠅・・・今の子は読める子少ないんじゃないでしょうか。
谷戸にある家の周りには時々うっとりするくらいきれいな蠅がいてびっくりすることがあります。思わず眺めちゃう。背中のところが光沢のあるブルーで輝いているの。けれど、ほーんと蠅自体を見なくなったなあ。生態系が変化してるんだな、って身に沁みます。
以前養老孟司さんもお話の中でおっしゃっていたけれど(このときです)、旧暦の五月(つまり今の六月)はブンブン蠅でいっぱいだったから、「五月蠅」と書いて「うるさい」と読ませていた、ところが今の人にはこの感覚が分からない、と。・・・はい、分かりません。
自然がいっぱい残ってるという鎌倉でも養老さんの小さい頃とはもう全然違うんだとか。確かに、蠅はあまり見ません。6月になってもね。
そんな蠅、個人的にはあまり歓迎したくないお客さんではあるのだけれど、それでも蠅に対して少し嫌悪感が減ったのはあきらかにこの物語のおかげ。
初めて読んだのは小学4年生のときでした。いやあ、衝撃的でした。一つは被差別のこと。全く知らずに生きてきたので。もう一つは蠅がここまで面白いんだってこと、に。
≪『兎の眼』あらすじ≫
大学を出たばかりの新任教師・小谷芙美先生が受け持ったのは、学校では一言も口をきこうとしない一年生・鉄三。決して心を開かない鉄三に打ちのめされる小谷先生だったが、鉄三の祖父・バクじいさんや同僚の「教員ヤクザ」足立先生、そして学校の子どもたちとのふれ合いの中で、苦しみながらも鉄三と向き合おうと決意する。そして小谷先生は次第に、鉄三の中に隠された可能性の豊かさに気付いていくのだった…。学校と家庭の荒廃が叫ばれる現在、真の教育の意味を改めて問いかける。すべての人の魂に、生涯消えない圧倒的な感動を刻みつける、灰谷健次郎の代表作。(「BOOK]データベースよりそのまま転載)
大人になってから、この文学に色々な批判があることを知りました。社会派だと余計に好き嫌いが分かれるのかな。兵庫出身の人が、灰谷文学は苦手で手に取る気がしない。場所柄気持ちが分かり過ぎて読めない、近すぎて読めない、と言っていました。批判を読むと、ナルホドと思うところもいっぱい。『灰谷文学の是非を問う』というコチラのサイト、興味深いです。
でも、私自身のことを思い返してみるとすごく感動して何度も読んでいました。まず、被差別のことを全く知らなかった自分にショックで、知ろうと思うきっかけになりました。そして、自分の目にはどうしようもないと思える子(鉄三)でも、ちゃんと知りあってみれば実は魅力的なんだということがあるんだなあ、って。自分の目に見えてることだけがすべてじゃない、ってことをこの物語から学んだ気がします。
ところで、批判の中に小谷先生が夫に対しては優しくない(夫が悪く描かれ過ぎている)というものがありますが、これに関しては個人的にはそりゃそうでしょー、って思います。一番大事なところ分かってくれない旦那さんなんて冷めますよ、正直。切り捨てたくなる気持ち、分かるわ~。聖母じゃないんだから、同じレベルじゃなければ一緒にいるのキツイと思います。分かってくれない旦那さんから卒業して、次のステップに行きたい小谷先生の気持ち、よーく分かるので、この批判には賛同しかねるかな。
多分ね、大人になってから読めば私も色々モノ申したくなったのかもしれません。でも、小学生のころ純粋に感動したという記憶が強すぎて、どんな批判も「考えすぎじゃないかな~」なんて思ってしまうのです。これ読んで蠅の奥深さにも開眼したし。あんまり大人たち、文句つけないでほしいな・・・なんて思います。
ひとつのきっかけとなる物語があってもいいと思う。必ずしも完璧でなくても、その物語に批判、矛盾を感じたのならば、なぜ自分がそう感じたのを“個人的に”掘り下げて行けばいいのかな。な~んて自分は『ワンダーWonder』で感動した人に水をさすようなこと書いておいて、思う現金な私なのでした。
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