『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ作 ロスヴィタ・クヴァートフリーク画 上田真而子・佐藤真理子訳 岩波書店
『モモ』に続いた課題図書は『はてしない物語』でした。
ネ~バ~エンディングストォ~~リィ~~♪タララ~ラララ~ラララ~♪ですね。
ええ、あの映画は私の中でワースト1位でございましたよ。原作をよくもぶち壊してくれたな、と!大人になってから知りましたが、エンデも訴訟を起こしてたんですね。私がこの物語を初めて読んだのは中学2年のときだったので、なぜこの映画がよくなかったのかというところまでは深く考えることなく、ただイメージとあまりにも違っていてガッカリしただけでした。が、大人のための児童文化講座の講義を受けて、色々と謎がとけ、スッキリ!しかしね、今回読み返してみてまた映画への怒りがフツフツと沸いてきましたよ。だってね、自分の中で最初に読んだときに出会ったバスチアンやアトレーユを思い出そうとしても、映画の映像が邪魔をしてくるんです。映画のイメージがどうしても出てきてしまう。映像は強烈。自分のイメージを奪い去ってしまう。
ところで、私はドキドキハラハラが実は苦手なので、冒険物語ってあんまり読んでこなかったんですよねー。ドキドキハラハラが苦手なので遊園地苦手、スポーツ観戦も苦手。そんな私がアメフト部のマネージャーをやっていたという、どうでもいい黒歴史(←)は秘密です。
そんな私が読んだ数少ない冒険物語の一つがこの『はてしない物語』だったわけです。冒険物語にこんなに夢中になれたことも自分では驚きでした。この本は、“何か”が違う、と。あらすじは多分ほとんどの人が知っていると思うので省略します。
そしてね、我が家にあったのは、愛蔵版(ハードカバー)だったので、読み始めてびっくりしました。だって、物語に書かれている本の装丁がまさに自分が手にして読んでいる本の装丁と同じだったんですもの。赤がね色の絹張りの表紙に輪になった二匹の蛇(アウリン)。え?え?まさか自分もこの物語の中に入っちゃう???って当時ドキドキ心配しながら読んだなあ(←妄想力ありすぎ)。主人公バスチアンがいる現実世界が赤銅色の文字、本の中の世界(ファンタジーエン)は緑色の文字、と二色刷りだったのもすごく印象的で。ちなみに岩波少年文庫版では二色刷りになってないそうです。これはね~、もうぜひぜひ愛蔵版のほうを!重いけれどね、この重さもまたこの物語の深さの重さでもあるのです。自分が今手にしている本がバスチアンと同じものなのでは?というこの何とも言えない感覚・・・友だちとは共有しにくい、でもバスチアンとなら共有できるこの感覚。魂をゆさぶる一冊です。
子どもの頃読んだときと大人になったから読むとでは気になるところも変わってくる。大人になった私が気になったところは・・・
・幼ごころの君が、支配することも攻めることも守ることもなく、ただ存在するだけであること。
・幼ごころの君の前では悪も善も、愚も賢も、すべて区別がないということ。
・アトレーユの使命は求め、たずねることのみで、アトレーユ自身の意見にもとづいて判断をくだしてはならないこと。
・人狼グモルクの存在。
・虚無に飛び込んでいったファンタジーエンの生き物たちが人間の頭の中で不安や絶望という妄想に変化し、虚偽となること。
・バスチアンが望みを手に入れるたびに現実世界での記憶を亡くしていくこと。
・一見素晴らしい調和の共同体に見えるイスカールナリには個人の感情がなく物足りないこと。
・まっすぐではなく、大きなまわり道をしてもそれが自分の望みの道であり、結局はどれも正しい道であったこと。
・アイゥオーラおばさまの与えたものは愛ではなくバスチアンが望んでいたものだったこと。
・ファンタジーエンに自分の作った物語に結末をつけてくれる友だちを持つバスチアンからはその後も心の悦びが消え去ることがなかったのに対し、同じくファンタジーエンに行った経験を持つものの友だちを持てなかったコレアンダー氏は偏屈で不機嫌な大人になっていること。
・そして、何よりもバスチアンの見つけた真の望みが「愛されたい」ではなく、「愛したい」であったこと。
・愛することと悦びは一つ、同じものであったこと。
どうですか、これ!?深いです。ひじょ~に深い。色々な経験を経て大人になった今だからこそ分かること、また忘れていたことがたくさんあります。子どもの問題が色々と叫ばれている現代ですが、そんな今の子どもには「物語」が足りないと言われます。でも、大人も同じ。大人にも物語が必要。
ちなみにエンデは晩年この本の翻訳者でもある佐藤真理子さんと再婚してるんですね~。なので、エンデの資料のほとんどは実は日本にあって、黒姫山童話館にあるんですよ(マメ知識)。
大人になってからも読み返したい一冊です。