皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

『質』を下げずに『出力』をさげることは可能か

2010-06-21 18:43:39 | 認知の歪み
ワタシのもっかのモンダイは、『出力の調整』にあったりする。
何を言っても、まずは『体力』があるかないか、が前提条件にあるのだが、ワタシは『他人様的無駄な労力』を思考ルーチンの中に組み込んでしまっている。
一般的というものがどういうものなのかは、一生解らないだろうが、随分と労力を使用するやりかたが板についている。

これ、まずヒト様的には、『自分のキャパに応じて限界ラインの半分程度で線引きする』、とかいうやり方を人生を通して経験するらしい。
もうちっと突っ込んでいうと、『集団的快』の方向へ、何事も持っていこうとする習性があるらしい。

らしい、と言うのは、ワタシのデフォルトが『不快』の中でいかにして生きていくか、というものが前提にあることを言って置かなければいけないのだろう。

こういうのは、実際に体験してみないと解らないものであり、できることなら体験しないほうが良い。

ヒトは錯覚でも何でも、思い込んだものは自分にとっては『正』であり、なかなか別の角度からは切り込めないものなんだろうな、と思う。

言いたいことがだいぶズレてきたが、ヒトっつうのは、『無駄な努力』はやっぱり避けたい。
ワタシは何度も書いてるが、ワタシ自身がそう思う。
だが『その思いの枠』を共有出来ていないと、他人目線的に『ちょー無駄な努力』をしていたりするわけである。

だいたい、『手を抜く』とか『ペース配分を考える』とかは、まるで縁のない世界で生きてきたわけで、ワタシの世界を『形成してきたのは、巨人の星』の様な世界感なわけである。

自分自身のエネルギーは有限である、ということや、どんなに力を注ごうが、『無理』な線というものがある、という事実を知る事も大切なことだと思う。

ワタシは未だに、『限界超えてやっていたら、何でも可能だろう』と、思っている節がある。
こういうのが、マジで二次的なものの引き金になる、と思う。

他人のことはよくは知らないが、ワタシにとっては『出力』をわざと落とす、という生活スタイルが必要である。

今のところ、『出力』を落とすと『質』まで落ちてしまう、と言うのが大きなモンダイである。

だいたい、そういう経験をしたことがない、というのが現実であり、出力を落としても、『ある程度の品質を維持』する、ということが『一般的社会生活』だったりするわけである。

4年に一度のワールドカップが、毎日であれば、体力が持たないか、慣れてしまって怠惰になる、くらいのものなんだろうが、そういうふうには作動しないヒトもいる、ということ。

死ぬまで勉強だよな、とつくづく思う。

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