皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

喋りすぎた反省

2011-12-08 23:13:34 | 認知の歪み

腑抜けた日々が続くここ最近。

過去を想起し続けるのは、今日を生きていない証拠だなあ、とつくづく思う。

何も語りたくないというのは、考えがまとまっていない。自分の言葉に責任以上に自信が持てない。というところもあるんだろうな。

そういう中で、定期的にカウンセリングを受ける、というのは、結構苦痛ではあるのだが、以前にも増して極端に口数の少なくなったリアルな世界において、会話をするという場は、貴重なモノでもある。こんなワタシに時間を割いて頂きまして、ありがとうございます。

今日は話の筋道も何も考えず、ただたらたらと書いてみようと思います。

 

今、ワタシはなんの目的でセーシン科に通っているんだろう?
3分診療の診察に何かを期待しているわけではない。投薬が効くかどうか?と問われれば限りなく効かないだろうという方に舵が傾く。
突っ込んで言ってしまえば、一時的な楽を得るための補助剤。栄養学的観点からの食に投資したほうが効果的だろうな、とも思う。(関係者の皆様ごめんなさい)

十数年も通っている、という自分自身にもどうなのかな? と、とてもクエスチョンマーク。ワタシの意志で行っており、やはり何かを期待している部分もある。


ああ、カウンセリングの話だった。
今の方とはざっと300時間くらい話をしてきている訳なのですが、“齟齬”というのが浮き彫りになる。
毎度のように、向こうサイドから「会話がきちんと成立しているのか、話を理解できているのか自信がないし、悩んでいる」と言われている。

それはワタシも同様のこと。ワタシが意図した言葉は、意図のとおりには伝わっていないことを感じ、それは逆も同じこと。
ワタシの側からすれば、それが“アタリマエ”、前提条件だとも思っている。
では相手の立場に立ったとき、どうだろう。

大人の世界の様々な事情をおいておいたとして、一臨床心理士という職業人として患者という相手に接するとき、その思考形態、心身の状態、行動様式、仕草、発言の内容と一貫性・関係性等々、情報を集積して想像するだろう。
その想像は、自己の範疇から抜け出すことは難しい。

こと、専門職としてそういう場に来る人と接し続けてきているヒトにとっては、ある意味その接してきた人々から得た情報に頼る部分は大きいだろう。専門知識というのもそうである。専門的な知識を持てば持つほど、その専門性の幅に縛られる。ワタシもそうだし、それがヒトなんだと思う。


あらゆる情報を整理し、分別する。同種と思える共通点を見いだす作業は多く行われるだろう。

事実として、そういう場所では、ワタシは「発達障害者、時々精神障害者」という縛りの中で、何らかの解釈をされる。
何年前だろう?その方ははっきり言ったよ。「あなたが発達障害者だと診断を下すことに、私は心外です」とね。

でも今は、もう前提になっています。


たまにWAISの話がでます。(WAISとかWISCでの点数に一憂されている方ごめんなさい)。
ワタシに語りかけてこられる内容は、大抵「それほどの言語理解能力を有し、計算も情報処理能力も優れていて・・・どうしてなの?」

そのどうしてなの?は、それだけのものを持っておきながら、なぜうまく立ち回れないの?と言って下さってるのだと思います。

ワタシは過去にも言いましたよ。知能検査の持つ意味と、それの解釈にも大きな矛盾点があることも。
そしてそれこそが足かせの一部になっていることも。


発達障害ってほんとにあるの?“大人の事情を抜きにした”ワタシの今の考えは、少なくともそういう“障害”はないと思うよ。
と言っちゃいました(気分を害された方々、すみません)。


“フツウ”ってなんですか?
“フツウ”にしていちゃ通用しないんですよ、ワタシ。という、ワタシの勝手な経験の考えが、ワタシの首を絞め、こういう他人に対してドS的発言になり、また分不相応なほど強気な態度に出てしまう。


みんな違ってみんないい。

何もかもが異なる個々、それをそのまま認めあえればいい。認められなくてもそれでいい。
それでは駄目でしょうか?
ワタシ自身の不甲斐なさを棚に上げて、言えたもんじゃあないですが。


ああ、書きたいことと違ったかも。



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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ぴーまん)
2011-12-09 00:30:02
お久しぶりです。

素敵な文章だなぁ、と、久しぶりに響く文章を拝見することができました。ありがとうです。

わたしはと言いますと、結局、新たなところに行けず…で過ごしている毎日です。


>過去を想起し続けるのは、今日を生きていない証拠

まだ10歳前の息子に、「ママは過去と未来を生きている。」と言われたことを思い出し、あぁ、ヤベーよ自分!と再確認することができました。

>その想像は、自己の範疇から抜け出すことは難しい。

超同意です。看護という専門職である自分と医者一家で育った自分があるからこそ、そのところを感じることが多く、わたし自身はカウンセリングを専門職の方に受けることができません(笑&汗)

>認められなくてもそれでいい。
 それでは駄目でしょうか?

わたしは駄目と思わないです(^-^)
認められない、認められていないかもしれないという大前提の中で、どのように泳ぐのか?というのも、また在りのような気(=何の根拠もないですが…)がします。

って、何の役にも立たないかもしれない言葉を、久しぶりに送信してみます。
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Unknown (pluto)
2011-12-14 22:36:02
>ぴーまんさん
こんばんは。

ここでも結構言い過ぎたなあ、と反省しています。
もう少し言葉を選べればいいな、と言う意味でも。

>「ママは過去と未来を生きている。」
ワタシにとってもマズイな、と図星を指摘される言葉ですね。

>大前提の中で、どのように泳ぐのか?
悩みが泳ぎ方への動きを鈍磨させている、というか、思考の段階での躊躇いが今を生きることへの逃げの言い訳になっている。

なっさけないなあー。自分。
自分で書いた文章を読んで、ああー、またやっちまってるなあ、と。

コメント頂いて、十分ヒントを頂いてますよ。
このブログ「何の役にも立たないことを綴っていこうと思います」、と書いているワタシです。
ありがとうございます。
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心にうったえるもの (perman)
2011-12-18 17:45:02
>何もかもが異なる個々、それをそのまま認めあえればいい。認められなくてもそれでいい。

と、私も思って生きているのですが、それでは納得出来ない方々が世の中にはいる訳で・・・。

WAISは人の脳機能の一部を測っているだけで、それ以上ではない。
本当の人の機能を測る物差しは今はないしこれからもないのかも、と思います。

少なくとも、plutoさんの書いていることは、私には「うったえる」ものがあります。
返信する
Unknown (pluto)
2011-12-20 22:59:48
>permanさん
こんばんは。

組織とか、利害とか、損得とか、思惑とか、etc...混ざるとなかなか難しいですね。
前提は個を認め、様々な考え、役割、価値観の中で調和が取れればいいなあ、と思うんですが・・・

知能検査は・・・うーん。仕方がないのかなあ。

ワタシの文章から何かを感じて下さることを、嬉しく思います。
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