ヒトは信じることができる。
思いこみも信じるの産物。
信じることが出来るようになると、ヒトを信頼できるようになる。
信頼することは頼りにすること。
ヒトは一人では生きていない。
色んなモノと、色んなヒトと結ばれ、連続して生きている。
頼りにしたとき、されたとき、ヒトの放出するエネルギーは一段と輝く。
信頼することは、信用すること。
信じて用いることは、相手を無条件に受け入れること。
『信じる』は連鎖のはじまり。
“信じる”が“信頼”に。
“信頼”が“信用”に。
騙されるから、あてにならないから、信用できないから。
疑いのまなざしが芽生えるのは、自分の内面から。
それは合わせ鏡のように、池に投げかけた波紋のように、自らに端を発して生まれるもの。
信じることができなくなることは、哀しいこと。
ヒトは繋がっているのだから、信じよう。信頼しよう。信用しよう。
理由無く信じられるようになったとき、ヒトは万物を受け入れることができる。
信じる力は、大きな力。
思いこみも、こだわりも、ヒトが信じることの原点。
それが大きくなった一つの完成系は、今の日本ではある意味忌み嫌われている“信仰”というものに限りなく近いが、
観念をかなぐり捨てた時、ヒトは理屈抜きで『信じる』ことができるようになると思う。
木や草や、太陽や月や、雲や風や、大地や山や、海や川や。
森羅万象に裸体でくるまれるようなこと。
それはヒトに対しても同じこと。
信じることは大切なこと。
信じる事を自己責任で選択する。
大事ですね
観念を捨てないとクリスチャンは出来ません(苦笑)
こんばんは。
自己責任、大きな所ですね。
無心って大事だと思うんですね。
ワタシ仏教よりの神道者って感じでしょうか。