ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

悲田院 ~快慶所縁の地に伝わる阿弥陀如来~

2017-11-20 13:25:18 | 仏教彫刻探訪

東寺から電車で京都駅を経由し、東福寺駅で下車した我々は
その混雑ぶりに驚いた
京都に住んでいる知人から
「秋の東福寺は参拝者でごった返し、駅から行列ができる」
と伺っていたので、この日などは序の口なのだろう。
東福寺に向かう人々を見送り、裏道を泉涌寺の塔頭・悲田院へと向かう

東福寺駅から歩くこと約15分、悲田院に向かう階段を上がる。

階段を上がった突き当りを右に曲がれば、悲田院の三門が見えてくる。

三門の屋根瓦には、魔除けの桃の瓦が四隅に置かれており
鬼瓦との対比なのか、なぜか昔話の桃太郎を連想してしまう。

境内には弘法大師の像も。
こちらの悲田院は、江戸時代にこの地に移った泉涌寺の塔頭で
平安時代にはこの地一帯は法性寺(ほっしょうじ)の寺域であったとみられている。
快慶が活躍した鎌倉時代には、法性寺は荒廃して堂には四壁もない(『明月記』)状態であったが
九条兼実(1149-1207)が法性寺東方に月輪殿(後法性寺殿)を造り、1202年に出家している。
兼実の長男・良通や兼実の弟で天台座主の慈円と快慶の交流が確認されていることや
快慶について「法性寺安阿弥陀仏」との記載も残り
どうやら快慶は法性寺周辺に居所、あるいは工房を構えて活動していた可能性があるのだ。

っつーことは、ここに、ここに、ここに快慶がいたのかも(興奮)

逸る気持ちを抑えつつ、予約の15時ちょうどに玄関のチャイムを押す。

玄関右手の事務所の窓が開き、若い僧が顔を出した。
「こんにちは。本日15時に参拝の予約をしたぴすけと申します」
と告げて暫し待つと、玄関の障子が開いて別の僧が現れ、堂内に上がるよう促してくれた。
ここ悲田院は、一般に開放されておらず、参拝の際には電話予約が必要。
法要や僧が不在の時は参拝できないので、ぴすけも祈るような気持ちで電話でご都合を伺った。
11月の三連休の最終日、無理かなと思いつつ、帰ってきた返事は意外や意外
「11月5日ですね。よろしいですよ。お時間は15時ですか。それも大丈夫です」
とのことだった。

よっしゃー

電話を切った後で思わず口から漏れてしまったが
もしかすると電話が切れておらず、筒抜けだったのではないかと不安に駆られ
この僧が電話の相手だったらと思うと、なんとも面映ゆくばつが悪かった


まず、拝観料500円を納め、案内されたのは毘沙門天様だった。
お前立だったが、奥まっていることと御簾の影になってよく見えない。
それでも僧の丁寧な説明を聞きながら本堂に進み、ご本尊の阿弥陀様の前へ案内される。
ご本尊の阿弥陀様、簡素ですっきりした佇まいだが
珍しいことに通常の阿弥陀像と両手の上げ下げが逆で「逆手の阿弥陀様」と呼ばれているらしい。
このタイプの阿弥陀様が造像されたのは、鎌倉初期~中期にほぼ限定されており
現存例が全国でも十数例しかないのだとか。
そして、本堂から次の間に向かう片隅に安置されていたのが
快慶作の阿弥陀如来坐像(宝冠阿弥陀)なのだ。
最初、安置されている場所があまりに狭く、通路かと思ったほどだ。
その狭さのお蔭で、阿弥陀様と我々は鼻先を突き合わすかのようで
贅沢と言えば贅沢なのだが、あまりに近すぎて全体像がつかめない。
しかし、そのお顔の美しさ、眼差しの柔らかさ、気品溢れるお姿に
「さすが快慶
と、唸らずにはいられなかった。

実はこの阿弥陀様、今年春に奈良国立博物館で開催された特別展『快慶』でお目にかかっている。
しかし、阿弥陀様には申し訳ないが、よく覚えていないのだ。
いらしたにはいらしたが、おぼろげな記憶しか残っていない。
そこで、この日、なんとしてももう一度お目にかかりたいと考えたのだ。
特別展『快慶』の時は、上の写真のように阿弥陀様だけが出陳された。

しかし、実際にお堂で安置されている阿弥陀様は台座に載せられ、光背がある。
余りに近くて台座を余すところなく見るのは難しかったが
それでも、台座の精巧な装飾は見事で、瀟洒な光背は圧倒的であり
衣の襞も流麗で、残った截金文様は目にも鮮やかだ。
快慶が作った崇高オーラ降り注ぐ仏様が、展示ケースの隔たりもなく、いま、目の前に
800年の年月を経て、そのお姿を拝めることは
なんと贅沢なことであるかと感じずにはいられなかった。
阿弥陀様のお顔を眺めていたら、思わず涙がこぼれた


ああ、ぴすけは、ぴすけは今ここで
快慶が見たのと同じ仏様を拝しているのじゃあああ~~~っ(変態)

もうここからは、またしてもぽわ~んとなり
襖絵や高槻藩永井家の説明も頭に入ってこない。
覚えているのは、襖絵が土佐派のものであることくらい。
ひととおり説明を受けながら参拝すること20分。
僧にお礼を述べて、気持ちばかりのお布施をお渡しすると
「守っていくのが私たちの務めですので、ありがたくお受けします」
と言ってくれた。

外に出てみると、ベンチが置かれてテラス状になっている北に開けた場所からは
京都市街地が一望できる。
鎌倉時代と屋並みは全く異なるが、快慶もこの高台から京の街と山々を眺めたのだろうか。
感慨無量である。

仏像の写真は『快慶』図録及び『運慶と快慶』から転載しました



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