ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

私たちは変われるか

2020-05-09 12:06:36 | 日常

公衆衛生政策と自由権は綱引きの関係にある。
公衆衛生政策で自由が制約可能なものとして位置づけられているのは
伝染病の流行や差別・デマによって
個人の生命はもとより、共同体の存続が危ぶまれる事態に陥ることを
可能な限り阻止するためである。
もちろん、自由の制限については
科学的根拠に基づいた合理的判断と法的根拠が必要だ。
それがなければ、「公衆衛生のため」という理由で権力の濫用を招きかねない。
また、憲法を改正しなければ満足な感染症対策ができないなどというのもまやかしで
現行憲法下においても個別の法律の整備・充実で十分対応できる。


その悪しき例が、1996年までらい予防法を法的な根拠として
科学的な知見を無視し、人権侵害であるとの国際社会の勧告に聞く耳を持たず
「公共の福祉」の名目のもとに警察権力まで動員し
ハンセン病絶対隔離政策を現行憲法下において行ったことである。
このことを、私たちはけっして忘れてはならない。


らい予防法を根拠として行われた人権侵害に代表されるように
公衆衛生政策における「公共の福祉」を名目にした自由権の制限は
その時の政権の性格如何で、非常に危険な事態を引き起こすのだ。
私たちが自由権の制限を権力側に委ねることができるのは
一時的に自由権の一部を譲ることができる信頼に値する政府であること
そして、制限の内容や方法が私たちの信頼を損ねた場合に
政権交代が実現可能な制度設計や社会構造であることが重要なのだ。
さて、今の政府は信頼に値するか。
自民党・公明党の連立政権は信用できるか。
政府は情報の透明性を保ち、虚偽・隠蔽・改竄を行っていないか。
それらが担保されない場合、容易に政権交代が可能なのか。


大切なことなので再度書く。
憲法を改正しなければ満足な感染症対策ができない
万が一の事態に対応できない、などというのはまやかしである。
国会が国権の最高機関であるのは
立法府であるから、つまりはルールを決めているからだ。
私たちが選んでいる国会議員は
私たちに嘘をついていないだろうか
隠し事をしていないだろうか
悪意のあるなしに関係なく、事実を捻じ曲げていないだろうか。
政治は、私たちを映し出す鏡である。


自民党の衆議院議員だった渡辺美智雄(故人)は、生前
「この程度の国民にこの程度の政治家」
といって物議を醸した。
国政選挙においてほぼ死票を投じている私個人としては怒りを覚える言葉だが
総体としての市民の目で考えれば、間違っていないと思う。
それは選挙結果に如実に表れていることからわかる。
この言葉に対し、「私たちを政治家と一緒にするな」と感じるのなら
今以上に私たちも変わらなければならないし
この言葉を肯定するとしても、現状を「こんなはずでは」と感じるのなら
やはり私たちが、政治家に求める程度まで変わらなければならないのだ。
政治を変えるということは、私たちが変わるということなのである。



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