ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

母の一周忌

2023-07-02 23:12:20 | 日常

母が自宅で倒れたのは、2021年7月7日でした。
朝、デイサービスからの電話に母が出なかったため
担当者が地域包括センターのケアマネージャーに連絡。
ケアマネージャーから私に電話があり
私が車で駆け付けたところ、リビングで母が倒れていました。
今でも、母の胸骨を圧迫したときの体温や骨がたわむ感触
母が息を吹き返したときの音、部屋の臭いまで生々しく覚えています。
なんとか一命をとりとめた母でしたが
約1年の入院期間を経て、2022年7月3日に90歳で他界しました。


今日は菩提寺で、母の一周忌を行いました。
菩提寺までの道すがら、夫と母の話をしながら
いろいろなことが思い出されました。


母は入院後意識が戻り、会話もできる状態になったのですが
そのことは救急病院から知らされませんでした。
COVID-19対策として面会は禁止されており
こちらから1週間に一度、病棟の看護師に電話での確認と
病院から二度呼ばれ、医師から経過説明を受けましたが
母に経鼻経管栄養を開始したことと
転院先として療養病院を探すようにいわれただけだったのです。
療養病院は数が少なく、ベッドに空きがなければ受け入れてもらえません。
かといって、空きがあればどこでもよいわけではなく、遠方では困ります。
転院先を探すのはかなり難航しましたが
やっと自宅近の療養病院に転院できることになりました。


転院は8月31日。
ストレッチャーの上で大きく手足を動かしている母を見て
母の意識が戻っていたことを初めて知りました。
「お母さん安心して。今日は私の家の近くの療養病院に転院するんだよ」
側に近づいてそう説明すると、母は
「どこかに連れて行かれちゃうと思った」
と、心配そうにいいました。
救急病院から母の意識が戻ったことや、手足が動かせることを知らされていれば
転院先としてリハビリ病院を選択していたかもしれません。
しかし、母が救急病院にいた間は、ちょうどCOVID-19第5波のど真ん中。
リハビリ病院を探すのも、難しかったかもしれません。


私は事前にPCR検査を受けて、COVID-19の陰性を確認していたので
母を移動させる介護タクシーに一緒に乗せてもらうことができました。
移動中の約1時間、母は会話も難なくでき、記憶障害もないようでしたが
「倒れた日のことだけがどうしても思い出せない
目が覚めたら知らないところで寝ていて、そこは病院だった」
と話していました。
療養病院では1か月に一度の面会が可能ということでしたが
第5波から第6波にかけては半年間面会ができませんでした。
面会できないのであれば、せめて手紙くらいは、と思い
週に一度は手紙に写真を添えて送り
病院のスタッフにお願いして、母に読んでもらっていました。
母の義弟妹や姪からも写真や手紙が届き
母はそれらをうれしそうに眺めたり
うんうんと頷きながら聞いていたそうです。
4月14日の母の誕生日までは、母は目も開けられて
送ったバースデーカードをうれしそうに眺めていたそうです。
スタッフがメッセージを読んでくださっている時に
主治医と看護師もちょうど病室にいらして
皆さんでハッピーバースデイを歌ってくださったとのこと。
母はうれしそうに
「皆さん、いつもありがとう」
と、いっていたそうです。


しかし、やっと面会がかなったのは
母が発熱して病院から呼びだされた2022年6月半ばでした。
その時母は、もう目が開かない状態になっていました。
血液検査の結果、母の肝臓に転移がんがあることがわかりました。
母の負担を考えて、原発巣を探す検査や積極的な治療は選択せず
痛みの除去や解熱などの対処療法を選択しました。
家族は1週間に一度の面会が許可され
近しい人にも声をかけるよういわれました。


亡くなる前日の7月2日に私と子で面会したとき
「お母さん、今日は○○(子の名前)と来たよ」
と声をかけると、苦しい息の中から
「はーい」
と返事をしてくれました。
母が亡くなった日は携帯電話の通信障害があった日で
仕事で出先にいた私に病院からの電話が通じず
夫が先に母の容体が急変したことを知って病院に駆けつけましたが
母は病院の皆さんに見送られて、あの世に旅立った後でした。
幸いにも痛みや黄疸は出ず、やせることもなく
元気だった時とほとんど変わらない、母の姿でした。

母は9人きょうだいの5番目、秋田県の荒川鉱山で生まれました。
母が生後8か月の時、子どもの教育のために祖父母は秋田を離れ
一家で東京に移り住んだそうです。
母の母(私から見ると祖母)は体が弱く
母は今でいう「ヤングケアラ―」でした。
第二次世界大戦中はすぐ下の弟を連れて疎開し
戦後は高校生活を送りながら、いちばん下の妹の世話をしたそうです。
そして、晩年は上のきょうだいも下のきょうだいも皆見送って
母がいちばん最後に亡くなりました。
父が2010年に亡くなってから11年
ヘルパーさんや私が手助けをした部分もありますが
一人で頑張って暮らしていた母の人生は
救急搬送された病院で先生が掛けてくれた
「お母さん、立派だよ!」
という言葉にふさわしい一生だったと思います。


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