ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

『天心』 岡倉天心生誕150周年 没後100周年記念

2015-08-08 23:45:13 | 映画

この映画の存在を知ったのは、久喜市図書館に貼ってあったポスターからだった。

なんと、埼玉県で初の上映会が、久喜市で開催されるというではないか。
これを逃したら10月に館林か上野で観なければならないが、両方とも既に予定が入っている。
草創期の日本美術院にかねてから興味を持っていたぴすけは、迷わずに行くことを決めた。
ダーリンも、2006年に一緒に五浦へ行ったことがある。
きっと行きたいと言うだろう。
帰宅したダーリンを誘う。
「ねえ、8月8日に天心の映画を文化会館で上映するけれど、一緒に行かない?」
「行く行く―テンシンって、春巻きや焼売の映画なの?」
「どわーんテンシンは、点心じゃないよ。オカクラテンシン。」
「オカクラテンシン?誰、それ。」
「うわーん一緒に五浦に行ったでしょ。六角堂を建てた人だよ。」
「ああ、六角堂の人
誤解が解けてよかった~

そして本日8月8日、久喜市文化会館・小ホールで
11時・14時30分・18時の3回、上映会が催された。
我々が行ったのは、初回の11時。

各回先着300名なので、入れなかった場合のことも考えて、初回に行ったが
開場前に待っていた人もいたものの、好みの席に座ることができた。

小ホールのエントランスロビーには、場面パネルと、ロケ地の紹介パネルが展示してあった。

本編で使用された絵画の模写。
模写といえども、迫力満点。


映画のあらすじを、チラシから引用させてもらう。
明治初期、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、寺が焼かれ、仏像が破壊される中
若き天心はフェノロサと共に伝統ある日本美術の保護に奔走していた。
その後、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の校長に就任。
横山大観、下村観山、菱田春草ら若き才能の育成に尽力するなど
美術界のエリートコースを歩んでいたが、西洋画派との対立により、辞任に追い込まれる。
天心は、彼を慕う大観ら弟子たちと共に新たな日本画の創造を目指し
日本美術院を立ち上げるが、彼らの画法に対する国内での評判は芳しくなく
経営難へと陥ってしまう。
新天地を求め、天心は茨城県五浦海岸に六角堂を建立。
その翌年、ここに日本美術院を移転し、大観、春草、観山、木村武山らと移り住み
壮絶な創作活動に没頭していくのであったが…


天心自身は筆を持たぬのに、天心を慕い、天心の言葉を信じて
弟子たちが五浦に移り住み、貧困状態に陥ってまでも創作活動に打ち込んだのは
天心が芸術の本質を知っていることを、理解していたからである。
原始人は、思いを寄せる乙女に初めて花束を捧げた時、獣でなくなった
自然界の粗野な本能性を脱して人間となったのであり
無用なものの微妙な有用性を知った時、彼は芸術家となった。
無用の用を知れと、天心は弟子たちに説く。
腹を満たすことの心配をしているようでは、芸術に殉ずる覚悟を持っているとは言えない
妻子を貧困状態に追い詰めることと、芸術の本質を究めることとは別のことだ
というようなことも言う。
それが、病魔に侵されてまでも絵を描き続ける菱田春草の姿と
五浦海岸の荒波とがオ-バーラップして、「修業」というより「修行」の姿を見せてくれる。
芸術とは、高い精神性を持ち合わせてこそ、作品に表出するものだと感じさせる映画だ。
そこで思い出したのが平櫛田中のことだ。
平櫛田中も、天心には深い尊敬の念を抱いていたと言われている。
田中も、ずいぶんと困窮したと聞いているが、その作品にぴすけは魅了されるのだ。
映画は、東日本大震災で被災した北茨城市五浦海岸にセットを造り
100年前に天心たちが見た景色のもとでロケを敢行した。
それもこの映画に大変良い影響を与えていると思う。
映画を観ながら、横山大観の「海山十題」のなかの絵を思い出した。
映画を観て大観の絵を思い出すのは、大観がすごいのか、それとも、映画がすごいのか。

横山大観「波騒ぐ」(「海山十題」展絵はがきより) 



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