道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

子ども手当と給食費未納問題

2010-01-30 22:18:05 | 政事
子ども手当を未納給食費に充当、首相が検討(読売新聞) - goo ニュース

確かに、給食費未納で開き直っている家庭に対しては何らかのペナルティーがあるべきだという、倫理的な意識は共感できる。
しかし、給食費を払っているかどうかを調べるのにどれだけの手間がかかるかをわかっているのだろうか。
実際問題として、この手法は現実的ではない。

財政赤字の改善のために、無駄の削減が叫ばれている。
このような状況下で、わざわざ役所の仕事を増やすようなことをするのは、逆行としか謂いようがない。
人件費がかさむか、行政サービスの質が落ちるか、どちらかであろう。
愚策としか言いようがない。

だいたい、智慧が感じられない。
各家庭が給食費を払っているかどうかをいちいち確認して、
その結果に応じて子ども手当支給額云々を計算するくらいだったら、
そもそも、公費をつぎこんで学校給食を無料化すれば良い。
もちろん、子ども手当はその分だけ減額する。
これなら給食費を納めたかどうかという問題は消滅するし、
子育てにかかる費用を減らすという趣旨を少しも損ねていない。

この場合の問題は、各学校で学校給食にかかる費用が異なるという点だろうが、
それは、子ども手当を、自治体経由で支給するようにして、
自治体から家庭に支給する際に、その家庭の属する学区の給食費を差し引けば良い。
少なくとも、一家庭毎に給食費納付の有無を調べるよりは遥かに簡明。


まずは学校給食の無料化から手をつけるべきである。
それは「全ての学童に栄養ある食事を」という給食の理念にも適う。

外国人参政権

2010-01-15 17:53:03 | 政事
古典的な法理としては、基本的人権と市民権を分けて考え、
参政権は明らかに後者に属する。
基本的人権は国籍に関わらず全ての人間に保障しなければならないが、
市民権については、どの人間を社会の責任ある構成員として認めるか、議論が必要となる。
(もっとも、私自身は自然権思想には懐疑的である。)

ここで、
「在日の人たちは戦時中に云々」とか「人種差別が云々」とかいう文脈で「だから選挙権を認めるべきだ」と論じるのは、
全く別の話だと思う。

しかし、日本できちんとした職業を持って、しっかり税金を払っている外国人を「社会の責任ある構成員」として認めるかどうかとなると、
有意義な議論なのではないかと思う。
少子高齢化による労働人口の減少に伴い、外国人労働者は今後更に増加する。(個人的意見だが、「産めよ増やせよ」で自然増加を図るよりも、既に外国で成人まで育ってくれた人間を引き抜く方が、社会的コストは低く済むし、地球資源の問題としても合理的だと思う。)
その善悪はともかくとして、彼らが社会に於いてウェイトを増していくのは現実に不可避なのであり、
その彼らをどうポジション付けるのかは大きな問題であろう。
塩野史観に拠れば、古のローマはこれで成功して巨大帝国を築き、これで失敗して衰退したという。

一つの考え方としては、「代表無くして課税無し」である。
税金をしっかり納めているのだから、その用途決定について一定の権利を持つべきだ、という考え方。

しかし、一方で、所謂「外国人」のどれだけの人間が長期的な視点で責任を持った行動を取れるかどうか、という問題はある。

もっとも、我々「日本人」自身も、責任感という点ではかなり不安。

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ところで、日本にいる外国人で多数を占めるのは、
韓国人・在日朝鮮人、中国人、日系中南米人、の三者だったと思う。
私の身の回りに、日系ブラジル人等の知り合いは皆無で、
韓国人の知り合いも10人いるかどうか分からない。

とりあえず中国人について言えば、
おそらく、彼らのほとんどにとって、
今回の問題はどうでも良いことなのだと思う。

所得税も住民税も消費税もしっかり払っているのに、
そのお金はというと、
一回あたり数百億円かかる国政選挙に使われ、
選ばれた議員に多額の給料を払い、
議会は政策議論に専念せず、個人献金だとかのスキャンダル追及で時間を潰す。
そういう現状に不満はあるかもしれないが、
だからと言って参政権を欲しいとは言わない。

むしろ、「参政権はいらないから、その分、税金を負けてくれ」と言うだろう。

そういえば、以前の日記で紹介したが、
自国でも参政権は不要、と言う中国人もいた。



そうなると、外国人参政権を認めるのではなく、
外国人については、参政権の代わりに多少の免税措置を設ける、
という選択肢もアリなのではないかと思う。
もちろん、この措置は、「外国人労働者は市民の一員として認めない」という理念を固めるものであり、ややもすれば「一億総田舎者社会」とも言われかねないが、
少なくとも金銭勘定の理屈は今よりも通る。

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「代表無くして課税無し」で思い出したが、
皇族には参政権どころか発言権も全くなかった。
所得税や固定資産税は払ってないだろうが、
相続税は間違いなく数億円単位で払っている。

そして、市民権どころか基本的人権も保障されていない。
まぁ、現人神は人でなし、故に人権は不要ということなのだろう。


私は皇室の事情に疎いが、
生まれながらにして週刊誌に私生活ネタを提供し続ける終身アイドルを務め、
高い教養を披露しながら、政治的に危ない発言は一切しない慎重さを有し、
(少なくとも表面では)常に上品な振る舞いを崩さないあの忍耐強さ、
本当に凄い方々だと思う。

――ニンゲンワザではないと常々思っていたのだが、やはり人間ではなかった。



象徴天皇というのは曖昧な制度であるが、
日本人のほとんどは、賛否は分かれるが、皇室についてある程度の関心と意見を持っている。
謂わば皇族というのは、共通の話題を提供することによって、
国民に(少なくともこの話題に関しては)「日本人」としての意識を持たせ、
精神的なまとまりを持たせているような気がする。
それは、天皇を崇拝する人たちの謂うような「精神的支柱」ではなく、
おそらく、巨大なる「内輪ネタ」としてではあるが。

そして、そういった話題や意図のダシにされることに耐えうる精神力を持った彼らは、
やはり只者ではないと思う。

リン

2009-09-21 16:36:34 | 政事
昨年末に、こんなものができたらしい。


化学肥料で育てた農産物は栄養価が低いという話はよく聞くし、
それに対して、人工的な窒素固定によってこそ、今のこれだけの農業生産が可能になった、という話もよく聞く。

しかし、化学肥料の本当の問題点というのは、リンなのではないか、と思う。

かつて高校時代の授業でATPとかADPというのを習ったが、
リンは、およそ生物は全て必要とする元素で、
従って、生物がいるところには必ずある。
残飯・死体はもちろん、老廃物にも排泄物にも含まれる。
しかし、今の農業は、一般に、リン鉱石から取り出されたリン分を、田畑に撒く。
伝統的農業では糞尿から補充していた窒素とリンを、
近代農業では、人工的に窒素固定したものとリン鉱石由来のものに替え、
それによって、安価で大量の生産を可能にした。

その結果、鉱石としてのリン資源は、枯渇して来ている。

まぁ、当然の結末であろう。
窒素は空気中からいくらでも取り出してアンモニアに固定できるが、
リン鉱石は地球上に限られている。



先日、『モーニング』を読んだら、
「ドラゴン桜」の作者が今連載している作品で、
やたらと近代農法を称賛していた。

有機農業への信仰に疑問を投げかけること自体は良いのだが、
リン資源枯渇について触れていないのは、
アンフェアのような気がする。

政策討論番組

2009-08-04 00:06:48 | 政事
政治家同士が討論する番組って、それ自体は必要なことだし、聴いていて面白いけれど、
ヒートアップすると、それぞれが言いたいことをしゃべり続けて、
言葉がかぶさって、よくわからなくなる。
こうなると、議論もかみ合わない。

田原君なんかはよく頑張って仕切っているけれど(ただし、こいつも言いたい放題言う)、
深夜のなんかは、とにかくヒドイ。
いい年した大人が、
「人が喋っている時は、話をよく聞く」
というマナーを守れない。

テレビ番組は、時間が限られているから仕方ない、とも言えるけれど。


討論番組は、司会にもっと権限を持たせるべきだと思う。
司会の判断で、イエローカードを出せる。
「言葉をかぶせたからイエローカード」とか、
「司会が制したのに喋り続けたからイエローカード」とか。
それで、イエローカード○枚でレッドカード退場、累積○枚で次回出場停止みたいなルールにする。

それで自民党や民主党の人間がいなくなったら、議論がつまらなくなってしまうから、
レッドカードでの退場者にも、補欠との交代を認めてもいいけれど。


とにかく、他の人間よりでかい声で喋り続けた者勝ち、という現状はやめて欲しい。

群己権界

2009-07-13 00:27:32 | 政事
家の近く、最寄り駅の近くで、まったく候補者を見かけないまま、都議選投票日。
まぁ、今日は学会があったから、期日前投票だったのだけれど。


昔、飲み会で、とある中国人に言われたことがある。
「中国は一党独裁だ、自由がない自由がない、と君達はよく言うが、
 私は、今の状態で十分自由だと思う。不自由だとは思わない」
と。


参政権と言われ、
自民党と民主党と公明党と社民党と共産党と、ついでに最近は幸福実現党なんてのもあるけれど、
個々の候補者はさておき、少なくとも政党レベルでは、
選挙の際に、選ぶ権利を実感できるような党や、政策論争はあまりない。

もしかしたら、
一党独裁で、国政選挙がない中国と変わらないのかもしれない、
と思うこともある。

しかし、論理としては、そういう時に、我々には、
政治家や政党をダメだと思ったら、それらを公の場で批判する自由が認められているし、
自分のして欲しい政策を主張するものがいなかったら、自分が立候補する権利だってある。
これは、中国と違う。

ただ、通常、時の政治に対してどんなに文句を言っていても、
自分で政党を立ち上げたり、立候補したりする人は、あまりいない。
丸山っぽく言えば「権利を行使することを怠っている」のである。


権利を行使し、保持する努力を怠った際に、
権利そのものが失われる、と言われる。

そう言われても、私のような、平凡でおとなしい一庶民は、
自分で発言したり、立候補したりしてまで政治を変えようとは思わない。
そういう力がない、ということを言い訳にできるのかもしれないけれど、
そういう力を持とうと努力したとは言えない。


中国人でも、民主主義推進、反共産党独裁、の運動をする人は、
「日本は何と恵まれた国なのだ」
と言うだろう。

しかし、私のように、そして、恐らく冒頭の中国人もそうなのだが、
政治の現状について不満があっても、自分で動いてまで変えようとは思わない人間にとっては、
やはり日本も中国も、参政権という点については、あまり変わらないのかもしれない。
自由の幅は狭くても、自分が自由に動きたい範囲がその枠の内側だったら、不自由は感じない。






自由というのは、ある点について、
何かしたい時にそれをできることである。
しかし、そこには責任が生じる。

現状に満足していれば、自由でなくても問題はない。
現状に不満でも、それを改善するために行動しなければ、自由である必要はない。
現状を変えるために行動しても、結果に責任を持てなければ、自由である資格はない。


要するに、
自分は、何の自由を行使すべきなのだろう。
と、少し思ったのだ。

http://blog.goo.ne.jp/pingzebu/e/4766978dc06e73a695ab5063d9142fc5

「国民の皆様に誤解を与えたことを反省し……」

2007-07-10 00:15:39 | 政事
ほぼ一週間前、久間氏が辞任した。
辞任の理由は、アメリカによる広島・長崎への原爆使用について「しょうがない」と発言し、「国民の皆様に誤解を与え」たためという。

そういえば、柳沢氏の「産む機械」発言も、やはり、「不適切な表現」によって「誤解を与えた」というような説明がなされていた気がする。

「誤解を与えた」のならば、
何故自分の本意をきっちり説明しないのか、
正々堂々国民の「誤解」を解いたらどうなのか、
我々をしてこのように思わせることは多い。
しかし、彼らが「誤解を与えたことを反省」したのみで済ませてしまうのは、そういった「失言」を問題化する意識構造の問題でもあると思う。


この手の「失言」が問題になる際、通常、発言の文脈や全体的な主旨は無視されて、ある部分のみが取り上げられる。
何故なら、不適切なのはその「失言」だけであり、彼らの言おうとした本旨ではないからである。
しかし、ある表現の意図というのは、文脈と論旨によって捉えられるべきであり、
仮に文脈や論旨から切り離して、それだけを取り出せば、180度異なる解釈も可能である。
それなのに、彼らの「失言」は、「失言」の箇所だけが取り出され、問題化する。

それは何故か。
思うにそれは、「失言」が問題となるのは、その文意ではなく、その表現が社会的な禁止コードに引っかかるからではないだろうか。
文意に関わらず、言ってはいけない言葉というものがあり、それを口に出すこと自体に問題があるということである。
TV放送に例えてみれば、ある番組の内容がまっとうな性教育や犯罪の抑止を目的としたものでも、ヌードや過激な暴力映像を映してはいけないようなものである。

社会通念として、各個人で理由付けは異なるが、とにかく結論は共有されている倫理的了解がある。
どんな文脈であれ、如何に断りを入れようと、それに反する言葉を公的な場で言うと、その発言の論旨ではなく、本人の品格が問題視される。
それは、議論を超越した共通了解を崩しかねないものとして、危機感混じりに嫌悪されるからかもしれない。

「原爆投下容認」発言についての非難も、「広島・長崎」という個別的問題、「原爆使用」一般の問題など、いろんな視点から集中砲火を浴びせてるが、問題とする論理は統一されていない。
それは、論理を超えて共有されるべき「原爆使用を容認してはいけない」という社会通念があって、彼の発言がその通念に抵触したことを問題視して、その道義的異分子を排除するための運動なのである。
ゆえに、反論不可能である。
用いた言葉が禁止コードに触れたことが問題なのだから、如何に本意を「誤解」なく伝えたところで、彼の道義的信用は回復しない。
どんな文脈であれ、
あの発言をすることができる発想自体、
そのようなことに思考が及ぶ内心自体、
が許されないのだから。

このような様々な理屈付けによる非難の集合体に直面する時、反論も説明も無意味である。
反論すればするほど、その言葉は社会通念としての禁止コードに触れ、問題は広がる。そもそも、こうしたことをテーマにして話し合うこと自体、自明とされている社会通念をラディカルに問い直すことになる危険性があり、通念としての自明の共有性を破壊する行為として、生理的に嫌悪される。

故に、禁止コードに触れる「失言」をしまった時は、ただ自分の人格を否定するか、内心の問題に触れずに「不本意ながら誤解を招く表現をした」として事態を収めるしかないのである。

護憲・改憲を越えて

2007-05-07 21:11:11 | 政事
NHKの特集で、憲法改正についての何人かの意見が紹介されていた。
中立的な立場を取らなければならないNHKらしく、
全体的に護憲的雰囲気を思わせる構成ではあったが、
番組としてどちらかを支持するようなことは言わず、
最後に憲法学者小林節氏の話を持って来て、
「護憲・改憲の立場を越え、互いに議論を交え、考えを深めるべき」
という趣旨のまとめ方をしていた。
――全くもって同感である。

小林氏は、自己の経験から、
護憲派・改憲派が互いに自分たちのシンパ同士で群れるだけで、
異なる主張と正面から議論していない現状を指摘していた。
すなわち、自分の言いたいことを言うだけであり、
相手の意見を受け止め、議論を戦わせ、
互いによりよい結論へ昇華するというプロセスが欠如しているということである。
自分が自分なりの意見を持つように、相手にも相応の根拠があって異論を唱えるのであり、
互いの根拠・考えを交換しあい、反論に耐えうる論を組み立てることで、
独りよがりでない、多くの人の賛同を得られる主張に成長するのではないか。
こういったプロセスが欠如した中で、改憲案が提出され、
国民それぞれが議論を踏まず、それぞれの思いだけで投票を行ったのでは、
結果がどちらになろうとも、危険である。

小林氏は改憲派であるため、番組の中では、
自分が以前参加していた改憲派の集会について言及するのみであったが、
護憲派も同様である。
私は、以前、とある経緯から、左翼団体の中にいたことがあったが、
3ヶ月でやめた。
主張が合わなかったからではない。
彼らが、自分の言いたいことを声高に主張するのみで、
異なる意見を聞こうとしなかったからである。
何かの案件に対して異論が出た時に、十分な反論もせずに、
多数決で結論を下してしまう。
その手法に疑問を覚えたからである。

また、憲法論議のみならず、
議論が国民的に熱っぽく盛り上がるということが、
最近はほとんどないように思われる。
あるいは、日常でも、
他者と意見をぶつけあうということが避けられ、
互いと衝突しないようにする曖昧な話術ばかりが向上している。

これは、危険な現状であると思う。

近代的思考というのは、
様々な異論や反証可能性を受け付け、それを考慮し、組み入れ、
より高い次元の、多角的かつ正確な判断へ至るあり方であり、
批判精神を自らにまで向けることによって、
迷信や権威への盲信を超越して来たのである。
こういったプロセス、思考がなされなくなってきているとすれば、
前近代に逆戻りである。

近代を非とし、前近代を是とするのであれば、これで良いのかもしれないが、
少なくとも、近代社会の一市民を自負するのであれば、
他者の異論には目を通し、機会があれば果敢に論争を挑みたいものである。

愛国心と食糧自給

2006-07-08 21:58:13 | 政事
先日、ロシアから来た友人が、3ヶ月の語学研修を終えて帰国した。
素直で明るくアクティブなナイスガイで、たまに会っては一緒に騒いで、ここ3ヶ月はとても楽しかった。

そんな彼は非常に日本贔屓で、日本の食べ物なら何でも食べ、酒は日本酒を好み、
ワールドカップは日本を応援し、K-1でも日本人選手に声援を送る。
なぜそんなに日本が好きかと訊くと、寿司を片手に「日本のメンタリティ」、
すなわち「武士道」であると答えた。

ロシアでずっと暮らして、周りの人のマナーが悪く、治安もよろしくなく、
官憲のモラルも低いのにうんざりしていた頃に上海に留学し、
そこで出会った日本人たちの親切さと礼儀正しさに感激したという。

日本を好きだというのはありがたいが、
自分の祖国について「ロシアさいてー」と言いながら、
日本のものについては何でも手放しで誉めるのには、
若干の危うさも感じた。
何かきっかけがあった時に、「日本さいてー」ということになってしまうのが少し恐い。
もっとも、彼はまだ20歳前であり、バランス感覚はこれから身に付くものと考えれば、
それほど危惧することでもないかもしれない。


ところで、帰国数日前に、彼を我が家に招待した。
寿司を出前に取って、肉じゃがとから揚げは自前で、
ビールを山ほど買って、宴会である。
その時に、母が日本の食糧自給率についての話題を出した。
つまり、日本で日常口にするもののほとんどは、
外国から輸入したものであるということである。
また、彼は納豆を好んで食べ、「そんなもの食べられない」というアメリカ人に対して
「チーズもワインも同じ醗酵食品だろ。何故、食べもせずに「食べられない」というんだ!」と反論したこともあるが、
その納豆の原料である大豆も、95%は輸入である。
これには、彼は少しショックを受けた様子であった。
悲しませてしまって悪いことをしたが、しかし事実である。


全ての食糧を自給するというのは非現実的であり、輸入は必要であるし、
我々の食卓はそれによって大分豊かなものとなっている。
しかし、食糧輸入というのは、生産国の環境や水問題、輸送にかかる燃料など、
様々な問題を抱えている。

そして、彼のように、日本の食文化を愛してくれる人もいる中で、
その伝統食の原料が、日本の土壌で育たないわけでもなく、
ただ単に安さのためだけに、多くを輸入に頼っているというのは、
恥ずべきことかもしれない。

私は外国産品を排するべきとも言わないし、ナショナリストでもない。
しかし、「伝統文化を尊重し、郷土と国を愛する」のであれば、
伝統の食文化を外国に支えてもらっているというのは、不健全とするべきであろう。

君が代よ

2006-03-02 00:50:17 | 政事
そんな覚えめでたき君が代、最近国歌となったが、なかなか問題があるようである。

先日も、新宿東口で、
「君が代に対して起立を拒む教師に育てられた子供が、今、親を刺したりするのだ! 日教組は日本を解体しようとしているのだ!」
などと主張していた者がいた。

私は右派ではないが、教師が君が代斉唱に従わないのは問題だと思う。

まず、君が代を起立して歌わせること自体が思想良心の自由に反するという主張には理解を示したい。
そして、ガイドラインやら住民台帳やらと一緒で慌しかった法律制定の経緯にも不満がある。
私自身、こんな法律はくだらないと思う。「国歌斉唱」はいつも「国歌静聴」している。

しかし、決まってしまったことである。
「強制はしない」とはあったが、生徒に歌わない自由があっても、教育者たる教師にそれが認められるのだろうか。

学校の教師というのは、学問的知識以外に、生徒たちに社会の中で集団生活していく術を教える者でもある。
生徒個々人の自由が多少制限されても、クラス全体の安定とまとまりのために、決まり事を遵守させている。
そんな教師が、自らの理念に反するから、もしくは法律自体があまりにくだらないからといって、
その決まり事に従わない姿勢を見せたら、生徒はどう思うであろうか。

どさくさまぎれとはいえ、仮にも「国民の代表」機関たる国会が決めたことである。
決まりがイヤなら、法律改正案なり違憲立法審査なり、変えるために働きかけるのが参政権を持つ国民の権利かつ道義的義務である。
決まった内容がイヤだからといって従わないだけなら、駄々っ子と変わらない。
そして、実際に廃止のために努力している人間であっても、廃止されるまではその決まりに従うのがルールである。


自分の正義を貫くということは素晴らしい。

しかし、社会に出て生きていく際に、理不尽でも決まり事に屈服しなければならない時があるということを、
君が代という題材によって、生徒たちに身をもって教えるのも教育の一環ではないだろうか。

仮装的国

2006-02-19 00:47:33 | 政事
先日のブログにも少し書いた話だが、ロシアから来る友人のビザ申請のために「招へい人」となった。
しかし、身元保証人としての必要書類を揃えようとして、昨年度の課税証明書を発行してもらったら、
昨年度の年収……9万円。。実際の10分の一ほどであろうか。。

社長~~、給与をほとんど税務署に申告してないじゃん!
源泉徴収してないじゃんっ!!
脱税じゃんかよっ!!

……ということになり、所得の記録では、到底保証人として認められるものではない。
そこで、外務省に「預金証明ではダメですか?」と問い合わせると、
「ダメですねぇ。預金はいろいろ不正ができるので」とのお答え。。

身元保証人は別に立てるしかなさそうである。


ところで、外務省のHPにビザ申請について書いてあるのだが、
項目に、「中国、ロシア、NIS諸国籍以外」「中国籍」「ロシア、NIS諸国籍」の三種類がある。

まぁ、いろいろ違いはあるのだが、身元保証人の経済力に関しての項目が、
中国籍とロシア、NIS諸国籍の場合は「課税証明書、納税証明書、又は確定申告書控」であるのに対し
その他の国籍の場合は、「納税証明書、預金残高証明書、確定申告書控、所得証明書」。。。
……って、中国やロシア、NIS以外だったら、納税証明書じゃなくても預金残高証明書で許されている!

身元保証人はビザ申請人の国籍とは関係ない筈であるのに、この扱いの差は何なのであろうか。
中国人や旧ソ連圏の人と友人である者は、預金で不正をする確率が高いとでもいうのであろうか?!
……もっとも、私は不正をする気はあったが、それにしてもこの不平等は腑に落ちない。

そもそも、「中国」「ロシア、NIS諸国」「その他」で分ける理由が分からない。
中国やソ連が仮想敵国だからなのであろうか。