道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

遅筆

2010-04-27 00:49:06 | 精神文化
大学3年生になって最初のゼミの発表は、A4で20枚以上書いた。
卒業論文は、締切2週間前にようやくテーマが決まって書き出したが、結局10万字書いて提出。

知識・経験が増せば更に早く書けるようになる、と思っていたのだが、大間違い。

その後、修士1年で報告集の原稿を書いた時はなんとなくはかどらず、修士論文は執筆にかなりの時間がかかった。
そして、博士課程進学後は遅筆にどんどん拍車がかかり、現在では1時間かかって1行しか進んでいない、ということすらある。

恐らく、知識が増え、語彙が増え、表現できる事柄と表現する方法が広がったが故に、却ってその選別に時間がかかっているのであろう。
喩えればパソコンのようなものであろうか。保存データ量が増えるほど、出力の速度は遅くなるのである。


それでは、知識・経験が増せば増すほど、どんどん筆が遅くなって行くのであろうか。しかし、そうではないだろう。

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『淮南子』道応訓に次のような話がある。

秦の国に伯楽という、名馬を見抜く天才がいた。
自らの身を「滅するが若(ごと)く、失するが若く、其の一を亡なうが若く」して、馬を見極めたという。

そんな伯楽も老いたので、主君の穆公は後継者について相談した。
すると、伯楽は下働きの九方堙という人物を薦めた。そこで、穆公は九方堙を召し出し、名馬を探し出して来るように命じた。

三ヶ月後、九方堙が帰って来て、沙丘に名馬を見つけたと報告した。
穆公がその状について尋ねると、「牡馬で黄毛です」と答えた。

早速、沙丘に人を遣って馬を捕らえてみたのだが、それは牝馬で驪(黒毛)であった。

穆公は不愉快になり、伯楽を召し出して文句を言った。
「お前の薦めた男は、毛色も牝牡も判断できない輩であったぞ。馬のことなどまるで分かっていないではないか。」

伯楽は言った。
「あいつはついにこの域にまで達しましたか! その精を得てその粗を忘れ、内に在りてその外を忘れ、その見るべきを見てその見るべからざるを見ず、その視えるべきは視えてその視えるべからざるは視えず。彼が見つけて来た馬は、きっと群を抜いているはずです。」

果たして、その馬は、千里を行く名馬であった。


故に老子は言う。
「大直は屈するが若(ごと)く、大巧は拙なるが若し。」

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馬を見る者は、はじめのうちは、馬を知れば知るほど、多くのことが目に入るようになるのだろう。普通の人間が全く注意をしたことがないような細部まで、ありとあらゆることをよく観察し、それで馬の良し悪しを判断する。
しかし、そのうち、見るべきところのみを見るようになり、見る必要のないところは見ないようになる。そして、やがては毛色や牝牡の別すらも目に入らなくなる。この域に達すれば、何を見るかを迷うことはなくなり、一目見た瞬間に、その見るべきところを見て、名馬か否かを見極めることができるのである。
もはや、馬を見る時には、見るべき箇所のみを見ていて、その他の世界中の何もかもを忘れ、我が身の存在すら念頭から消え去る。これを「滅するが若(ごと)く、失するが若く、其の一を亡なうが若く」と謂ったのであろう。

凡そ芸事というのは、こういうものなのではないだろうか。
始めた直後はほとんど何も知らず、一つのことしかできない。
やがて、知識・経験が増えるに連れて、様々な選択肢が生まれ、どのようにすべきか迷いが生じる。
しかし、極めて行くと、どの瞬間に何を考え、何をすべきかがどんどん絞られて行き、しまいには、最善の進路を示す一筋の光明以外のものは全く見えなくなる。
この一筋の光明を、「道」と謂ったのであろう。

今日、指導教官が、悦に入りながらこんな話をしていた。
山は山である。しかし、修行を積むと、山は山でなくなる。
山が山ではないと分かったところで、更に修行を積むと、
山はやはり山であるということが分かる。
これもやはり伯楽の話に似ていると思う。
おそらく、分別知・無分別知、世界・認識の有・無というテーマではあるが、一度広がってから再度狭まり、そこで確固として見えて来るものが以前とは異なる見え方をする、というプロセスは同じである。




要するには、このモデルが正しければ、
拡散しつつある我が文章表現は、いつしか収縮へと向かい、
やがて以前のように素早く、しかし内容はより高度なる著作活動を行えるようになる――ハズなのであるが、見込みは薄い気がするなぁ。。

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2 コメント

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Unknown (hornpipe)
2010-04-28 21:43:13
たまたま読んでいるピアニストの本に、「芸術家の最終目標はシンプルということに到達することだ。それは信じられないほどの道のりの長さで、100%そこに到達するはるか手前で寿命が尽きる」と書いてあります。
私など早々と耄碌を「シンプル」と誤解して悦に入ってしまいそうなのが怖いのですが(すでに?)。
ところで、学者は知りませんが、作家やライター、作曲家などには遅筆というビョーキ持ちもいますね。遅筆堂さんはどうだったのでしょうか。
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Unknown (ping)
2010-04-29 16:12:24
それは至言ですね。憶えておきます。

遅筆というのは、かなりの人々に多大な迷惑をかけるもののようですね。しかし、その代わり、しっかり推敲がなされた文章というのは、その苦労の分だけ、後世に価値を輝かせるのではないでしょうか。
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