おじろく・おばさという風習が伊那の山村に昭和まで残っていたようです。(下添付参照) これは今村昌平の映画、楢山節考でも描かれていた、長男以外は嫁取りを許されず、一生独身で終わる一種の人口抑制制度の当事者を指します。一体何処の話かというと下図Aのあたり、諏訪湖を流れ出した天竜川が飯田を過ぎて山岳狭隘部分を流れる南アルプスと中央アルプスの接合するあたり、伊那谷での話です。
ここで興味深いのは、おじろく・おばさと呼ばれた人びとの精神状態です。
以下、引用
そんな奴隷的な状況が、ある種の精神障害をもたらすのだろう。おじろく・おばさは無感動のロボットのような人格となり、言いつけられたこと以外の行動は出来なくなってしまう。いつも無表情で、他人が話しかけても挨拶すら出来ない。将来の夢どころか趣味すらも持たず、ただただ家の仕事をして一生を終えるのである。 なにごとにも無関心で感情が鈍く、自発性が無くなった様子がうかがえる。
この「おじろく・おばさ」の取材に先立ち、近藤は二つの推論を持っていたようだ。一つは、もともと遺伝による精神障害が多い集落であり、そのような人々がおじろく・おばさになるのではという説。もう一つは、気概のある若者は村の外に出てしまい、結果、無気力な者だけが残ったという説。しかしこの二つともが間違いであり、長年の慣習に縛られた環境要因によって、人格が変化してしまったのではというのが近藤の結論だ。彼らの多くが子供時代には普通で、20代に入ってから性格が変わってしまうというのも、その裏づけとなるだろう。
ここで示される精神状態は決して当人のもつ異常性から発したものではなく、社会的状況がそのような精神状態を引き起こしたという事。そしてそこで示されるものは、意識の希薄なただ命令に従って動くロボットのような状態。これはジェイソン・ジェインズの言う 二分心(Bycameral mind)そのものです。
3000年前、古代における人類は全員この状態であったわけで、それが20世紀・昭和の日本にも存在したという事になります。以前私のブログでコメントしたとおり、ポル・ポト時代のカンボジア人も二分心モードにあったのではないかと思われるのですが、これもほんの30年前の話です。 (下の写真はポルポト政権下で虐殺されたカンボジア人の遺骨)
そう、ヒトは比較的簡単に二分心に退行する可能性がある。太平洋戦争、戦時下の日本人の精神構造も或いはこれに近かったのかもしれない。ヒトの意識というのは実に底が浅く、一皮剥けば 二分心=精神分裂状態 がすぐに姿を現す。 おじろく・おばさの話から、そのような思いを深くします。
近藤廉治「未分化社会のアウトサイダー」精神医学1964年6月号11頁以下
ため息というかなんというか