「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

大分県耶馬渓町 ・ 戦国武将 「 後藤又兵衛の墓 」

2014-10-26 05:34:41 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )











墓は一段高い場所に建てられている








「 後藤又兵衛の墓 」 の説明版







県道わきにある案内板













NHKの大河ドラマ 「 軍師官兵衛 」 の中で塚本高史さんが演じる後藤又兵衛。

後藤 基次 ( ごとう もとつぐ ) は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は又兵衞で、後藤 又兵衛 ( ごとう またべえ ) として広く知られる。
黒田如水、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、
江戸時代に、 「 黒田二十四騎 」 「 黒田八虎 」 「 大坂城五人衆 」 の一人に数えられた。
そんな後藤又兵衛の墓が大分県中津市耶馬渓にある。

大阪夏の陣で戦死した基次は影武者で、大坂城落城の前に豊臣秀頼を護衛し、
真田幸村と共に瀬戸内海から豊後国日出に上陸して、
薩摩国の島津氏を頼りに落ち延びるという計画を実行していた。
上陸後、秀頼一行との再会を誓い日田の地で別れた基次は、
かつて黒田氏が中津を領していた頃の知人である女性・お豊のいる伊福の里に向かう。
お豊や里の人々と平穏な日々を過ごしていたが、
やがて秀頼の病死を知った基次は、豊臣家再興の夢が断たれた悲しみから、
承応3年 ( 1654年 ) 1月29日、お豊の家で自刃した。
基次の死後しばらくしてから、村人が墓を建立したが年月を経て欠壊し、
現在残っている墓は、宝暦13年 ( 1763年 ) に伊福茂助が建て替えた物である。

岡山の戦いにおいて、真田幸村により家康の本陣が突き崩され、
逃げ回る家康が基次に討たれたとする有名な講談があり、
堺の南宗寺には 「 家康の墓 」 も遺されている。
類例に、基次戦死の翌日、従兄弟で娘婿であった配下の山中藤太夫が、家康を追い回した。
戦後、兵たちの赦免が行われ、藤太夫も徳川頼宣に召抱えられたが、家康により暗殺されたという。


後藤又兵衛の墓は、諸説があり、大分県中津市だけではなく、
鳥取県鳥取市新品治町の 「 景福寺 」 もそのひとつである。 
戦国時代の武将でもあり、槍の使い手の後藤又兵衛は大隈城1万6千石の領主だったが、
出奔し、豊臣秀頼に軍師として迎えられた。
さらに、徳川家康からも、寝返りの誘いがあったほどの名将。
その遺髪を埋めた墓と妻子の墓が景福寺にある。

その 『 景福寺 』 には石臼の形をした羽生郷右衛門の墓がある。
鳥取藩主・池田光仲に特技を聞かれ、
武士が武芸を心得るのは当たり前だと米粒で糊を作ってみせ、光仲を感銘させた強物。
石臼を毎日持ち上げて鍛練していたというエピソードにちなんだ墓が建てられた。


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