「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県朝倉市杷木町 ・ 後撰和歌集 「 秋の田のかりほの・・・ 」  天智天皇

2017-02-24 13:13:13 | 万葉歌碑















秋といえば山や野や田んぼから、野菜や果物がたくさん収穫される。
中でも収穫の秋を最も象徴するものは、金色にたなびく稲穂である。
  
日本の豊穣のイメージは米であった。
マルコポーロの 「 東方見聞録 」 に書かれているように、
たなびく黄金色の稲穂を見て、
” 黄金の国 ZIPANG ” と表現したのである。

一面に稲穂が揺れる秋の田圃の風景は牧歌的で、
フォスターの曲を連想させ、ある種の郷愁をそそるものである。
今回は、そんな秋の風景を思索的に描いた天智天皇の一首を紹介したい。











 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
       我が衣手は露にぬれつつ



秋の田の 仮庵 ( かりほ ) の庵 ( いほ ) の 
                    苫 ( とま ) をあらみ 
    わが衣手 ( ころもで ) は 露にぬれつつ

           天智天皇 ( 1番 )  『 後撰集 』 秋中 ・ 302
  


秋の田圃のほとりにある仮小屋の、
屋根を葺いた苫の編み目が粗いので、
私の衣の袖は露に濡れていくばかりだ。
 
「 仮庵 ( かりほ ) の庵 ( いお ) 」 とは、
「 かりほ 」 は 「 かりいお 」 が訛まったもので、
農作業のための粗末な仮小屋のことで、
今で言う、 「 見張り小屋 」 みたいな物であろう。

秋の稲の刈り入れの時期には臨時に小屋を立てて、
稲がケモノに荒らされないよう泊まって番をしたりするもので、
「 仮庵の庵 」 は同じ言葉を重ねて語調を整える用法である。

「 苫 ( とま ) をあらみ 」 とは、
「 苫 ( とま ) 」 はスゲやカヤで編んだ菰 ( こも=むしろ ) のことで、
ここの意味は 「 苫の編み目が粗いので 」 となる。

「 衣手 ( ころもで ) 」 とは、
和歌にだけ使われる 「 歌語 ( かご ) 」 で、衣の袖のことで、
「 ぬれつつ 」 とは、
「 つつ 」 は反復・継続の意味の接続助詞で、
ここでは、袖が次第に濡れていくことへの思いを表現している。
 


  天智天皇 ( てんじてんのう 。 626 ~ 671 )
舒明 ( じょめい ) 天皇の皇子で、
即位前の名前は中大兄皇子 ( なかのおおえのおうじ ) 。
藤原鎌足とともに蘇我氏を撃ち、大化改新を成し遂げ、天皇に即位した。

その後、飛鳥から近江に都を移した。
天智天皇は平安時代には、歴代天皇の祖として非常に尊敬されていた。
この歌は元々、万葉集の詠み人知らずの歌であったが、
天智天皇のそういうイメージから、口伝で伝えられるうちに、
天智天皇作とされるようになったと思われる。

この歌碑は 「 恵蘇八幡宮・木の丸公園内 」 に建立されている







恵蘇八幡宮社殿

天智天皇が斉明天皇の喪に服された 「 木の丸殿 」 は、
現社殿付近に営まれたといわれる。


恵蘇八幡宮の由来

昔、郡中33ヵ所 ( 上座郡 ) の総社として栄え、
現在は朝倉町の総社となっている。
応神天皇、斉明天皇、天智天皇を祭神として祀り、
毎年10月15日に御神幸が行われている。

由諸によると、斉明天皇は661年、
百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮 ( 朝倉町大字須川 ) に下られた。
この時随行の中大兄皇子 ( 後の天智天皇 ) は国家安泰と戦勝祈願のため、
宇佐神宮 ( 大分県 ) に奉幣使を遣わされた。
使の一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白幡が降り、
幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、天孫八幡なる宮社が創建された。
その後、天武天皇白凰元年 ( 673 ) に斉明天皇・天智天皇を合祀し、
この頃社名を恵蘇八幡宮に定めたといわれている。
現在の本殿は安永元年秋9月 ( 1772 ) の改築である。


≪ 恵蘇八幡宮・木の丸公園説明より ≫

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