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吉村昭『零式戦闘機(れいしきせんとうき)』 を読みました

2013-10-11 10:10:12 | 日記



 こんにちは。

 零戦シリーズ2回目です。

 今日は、吉村昭『零式戦闘機(れいしきせんとうき)』 (新潮文庫)です。

 さて、ジブリアニメ「風立ちぬ」が上映されています。

 「風立ちぬ」は、零戦の設計主任であった堀越二郎をモデルの半生を描いた作品で、その中には堀辰雄の小説『風立ちぬ』の内容を少し取り入れているらしいです。まだ見ていないのでよくわかりません。

 さて、有名な零戦開発の経緯はどのようなものであったのかを知りたいと思い、読んでみることにしました。

【内容紹介】
 昭和十五年=紀元二六〇〇年を記念し、その末尾の「0」をとって、零式艦上戦闘機と命名され、ゼロ戦とも通称される精鋭機が誕生した。だが、当時の航空機の概念を越えた画期的な戦闘機も、太平洋戦争の盛衰と軌を一にするように、外国機に対して性能の限界をみせてゆき・・・・・・。機体開発から戦場での悲運までを、設計者、技師、操縦者の奮闘と哀歓とともに綴った記録文学の大巨編。


【気になった箇所】
・「牛車は、名古屋航空機製作所の荷役を請負う大西組所属のもので、・・・〔中略〕完成された機は、大西組をはじめ、東山、柘、加藤の各荷役の組の手で、胴体、翼に分離されて例外なく四十八キロへだたった岐阜県各務原飛行場へはこばれるのが常だった」(5-6ページ)

 トラックで約2時間、馬車では12時間かかる道を、牛車で24時間かけて、大江から各務原飛行場まで運んでいたことが書かれています。トラックや馬を使わなかった理由は、悪路では機体に傷が付くおそれがあったからです。牛のゆっくりした歩みが安全に機体を運べたのだそうです。
 後、ぺルシュロン馬という、力が強くおとなしい馬が導入されることになります。

・「牛も、必死だった。運ぶ回数も増すにつれて、牛たちの疲労も積み重ねられてゆく。そのため機体の運搬作業が終了すると、牛をそれ以上疲労させぬように、帰路はトラックに乗せた。牛に飼料は、充分与えられていたが、さらにその疲労回復をはやめるため、運輸係長の田村誠一郎は、ビールの特配を切望し、それをトラック上で牛に飲ませたりしていた」(249ページ)

 戦争が進むにつれ零戦も量産体制になり、牛が酷使されたので体力回復のための苦労話が描かれています。
 この当時の人々はビールを飲むことはできたのでしょうか。


・「日米戦争の一特徴ともなった壮絶な航空機による体当たり攻撃は、その日の突入に端を発して、翌二十六、二十七日とつづき、さらにそれは規模を徐々に大きなものにさせて、多くの若い操縦士たちは、それぞれ自機とともにその生命をつぎつぎと投じていった。
 かれらの間には、体当たり攻撃がいつの間にか日常的なものとなり、それを稀有なものとは思わぬような雰囲気がかもし出されてきた。そして、その海軍航空隊で手をそめた特攻戦法は陸軍操縦士にも積極的に採用され、飛行機は若者をのせた一種の爆弾と化し、太平洋は、祖国の危機を救おうとねがう若者たちの壮大な自殺場と化した。かれらの死は、戦争指導者たちの無能さの犠牲とされたものであると同時に、戦争という巨大な怪物の不気味な口に痛ましくも呑み込まれていったものなのだ」(331ページ)

 この文が、この本で一番心に残った箇所です。「壮絶な航空機による体当たり攻撃」とは、もちろん「神風特別攻撃隊」のことです。

 この作品には、零式戦闘機の開発に堀越二郎たちが苦労している叙述があります。どうして零戦が強かったのかの説明もあります。名古屋の勤労学徒たちの悲劇も描かれています。

 しかし、この文が心に残りました。特に「飛行機は若者をのせた一種の爆弾と化し、太平洋は、祖国の危機を救おうとねがう若者たちの壮大な自殺場と化した。かれらの死は、戦争指導者たちの無能さの犠牲とされたものであると同時に、戦争という巨大な怪物の不気味な口に痛ましくも呑み込まれていったものなのだ」のところです。

 私は、この箇所を読んだとき、「自殺場」「戦争指導者たちの無能さ」「呑み込まれていった」というところに、著者の激しい怒りを感じました。開発の話はどうでもよくなってしまいました。

 こういうことがこれから起きないようにしたいとは思いますが、かりに日本が平和だったとしても、他国では大勢の人々が内紛や戦争で亡くなっています。その解決策はわかりません。

 
 今日もきてくださってありがとうございました。