モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3 の続きです。
少々話が先走りますが、横須賀製鉄所建設に、もっとも猛烈に反発したのはイギリスで、その結果、建設推進の中心になっていたフランス駐日公使レオン・ロッシュは、海軍伝習をイギリスに譲ります。
本来、海軍造船所である横須賀製鉄所と海軍伝習は、セットになってしかるべきものだったのですが、造船、つまり機関関係の伝習のみがフランスで、兵科は、イギリスとなったのです。
イギリス海軍伝習教師団の日本到着は、慶応3年(1867)の暮れで、年が明けてすぐに鳥羽伏見の戦いが起こりますので、実質、ほとんどなにもできませんでしたが、イギリスはなにも、幕府を見放していたわけではないですし、幕府はかならずしも、フランスのみに頼っていたわけでもありません。
当時のオランダは、すでに、イギリスのような世界の海軍強国ではありません。
したがって、イギリスのように、真正面から強引に、幕府に迫ることはできなかったでしょう。
しかし、自国に機材を買い付けにきていた肥田浜五郎が、不満を訴えたとしますならば、からめてからの手助けは、喜んでしただろうと思うのです。
さて、慶応元年(1865)7月、フランスに姿を現した柴田使節団です。vol2で書きましたが、この使節団の目的は、横須賀製鉄所に必要な技術者を雇い入れ、必要な機材を購入することです。
この本によりますと、柴田日向守剛中は、香港で、在日経験のあるドイツ人から、ベルギー政府が日本と通商条約を結ぶ用意をしていると、知らされています。
使節の派遣は、すでに前年の暮れに決まっていて、オーギュスト・トキント・ド・ローデンベークが全権公使に任命されていたのですが、実際に来日したのは、この年の暮れです。
このトキントが来日するにあたっては、以前に日本公使を務め、当時は中国公使だったイギリスのラザフォード・オールコックが幕府に斡旋し、また横浜に到着したトキントを江戸に案内して、幕府に条約提携を口添えしたのは、オランダ公使だったのです。
シャルル・ド・モンブラン伯爵の両親は、フランス人です。
そして、モンブラン自身も、この本によれば、生涯、フランス国籍であったようです。しかし、彼の弟二人はベルギー国籍をとっていますし、6000人の領民がいたという領地インゲルムンステルは、ベルギーにあります。
はっきりはしないのですが、モンブラン家は、南フランスの旧家だったようです。
モンブラン伯爵の父親は、1835年に、ベルギーのインゲルムンステル城と男爵の称号を譲りうけ、フランスにおいてはモンブラン伯爵、ベルギーにおいてはインゲルムンステル男爵という二つの称号を持ち、1861年(文久元年)死去。同時に、長男のシャルル・ド・モンブランが、双方を受け継いでいるのです。
ところで、ベルギー王国は新しい国です。
歴史的経緯はいろいろとあるのですが、成立は1831年。つまり、モンブラン家がインゲルムンステル城主となる、わずか4年前のことなのです。
それでいったい、シャルル・ド・モンブラン伯爵の帰属意識がどうであったのか、私にはちょっと想像がつき辛いのですが、モンブラン家の伯爵の称号は、あるいは、自由主義的な7月王制(オルレアン家。この当時、オルレアン家はイギリスに亡命)期に受けたものではないか、という情報をいただいたりもしていまして、だとするならば、ナポレオン三世の宮廷に帰属意識は薄かったのではないか、とも思ってみたりします。
宮廷はともかく、どちらの国に、ということなのですが、フランス人としての意識は、強かったでしょう。両親がフランス人で、パリで生まれたわけですし、もちろんパリに邸宅を持ち、おそらくは教育も、パリで受けているのですから。
しかし、国家となるとどうなんでしょうか。経済的な基盤はベルギーにあるわけです。
おそらく、国籍はほとんど意識していなかったのではないのでしょうか。
そしてまた、モンブランと親交のあったロニーが共和主義者で、父親を追放した帝政に反感をもっていたらしいことは、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!で見ました。
フランス人であるという意識と、時のフランス政府の対日政策を支持するかどうかは、また別の問題でしょう。
ともかく、柴田日向守に近づいたモンブランは、まず、ベルギーとの通商条約締結を勧めます。
この時点で、柴田がモンブランに怒りを覚えた様子はないのですが、9月22日(「仏英行」8月3日)になって、突然、柴田はモンブランに怒りを覚え、「このベルギー貴族は愚物でイカサマ師」であると思ったようなことを、日記に記しているのです。
この時期、五代友厚と薩摩藩家老・新納刑部などの一行は、すでにモンブランのベルギーの居城を訪れていて、引き続きブリュッセルに滞在し、ベルギーと薩摩の商社設立契約などを話あっています。
その一行を置いて、モンブランはパリの柴田のもとを訪れているわけで、柴田がいったい、なにを言われて激怒したのかわからないのですが、私にはどうしても、横須賀製鉄所に関係することだと思われてならないのです。
といいますのも、肥田浜五郎は当時、柴田のもとで技術者雇い入れ、機材買い入れの責任者となっていたフランス人のヴェルニーと、機材の選択や造船所の設置場所で、激しく言い争っていたのです。
横須賀製鉄所の所長がフランス人ではなく、日本人の肥田浜五郎であれば、技術者にしろ機材にしろ、オランダ、イギリスの食い込む余地は、出てくるでしょう。
日本人・肥田に指揮をとらせるべきである、そうでなければ、例えば横浜の英字紙が書いたように、「タイクンとその家臣たちとは今後フランスの臣下とみなされる」ようになる、と、モンブランが力説したのだとすれば、どうでしょうか。
五代や新納にしましても、とりあえずフランスの幕府支援がくずれるならば、果たしてオランダとイギリスが幕府の製鉄所建設にどれほどの援助をするかは未知数ですし、それにこしたことはなかったでしょう。
オランダ、イギリスの思惑は、あわよくば、フランスの融資をはずし、計画をのっとることも、視野に入っていた可能性があります。
しかし、両国が前面に出て邪魔をしたのでは、外交問題になります。これに、ベルギーも一枚かませるということで、モンブラン伯爵に交渉がもちかけられたのでは、なかったのでしょうか。
モンブラン伯爵はフランス人なのですから、いい隠れみのです。
しかし、ヴェルニーは非常に誠実な人柄の技術者であったらしく、柴田日向守は、深く信頼をよせていました。
さらに、フランス側では、銀行家で富豪のフリューリ・エラールが、対日貿易を取り仕切ることになり、全面的な金融協力を形で見せていたのですから、端からモンブランが口を出せば、詐欺師にも見えかねません。現実には、モンブランの陰にオランダ、イギリスがいて、融資が可能だったのだとしても、です。
またフランス政府が、モンブランの策動に気づいていたとすれば、当然、モンブランに対する非難を、柴田日向守の耳に入れるでしょう。
が、この問題にオランダとイギリスが噛んでいたのだとすれば、五代はもう一枚、したたかだったのではないでしょうか。
この時点で、グラバーやオリファントなど、イギリス人は個人として、薩摩藩に好意的な動きをしています。しかし、イギリス政府そのものが、交易相手として、幕府よりも薩摩藩に好意的だったわけではなく、フランスにいたっては、まったく相手にしていません。
ベルギー人にしてフランス人、というモンブラン伯爵は、薩摩にとって、願ってもない味方になりうる、と、五代は踏んだのでしょう。
2年の後、このとき五代が打った布石は見事に生き、パリで薩摩藩は独立国であるかのようにふるまうことに成功し、小栗上野介が企てた起債をつぶします。
ちなみに、明治新政府の最初の大仕事は、横須賀製鉄所の接収でした。
資金は結局、イギリス系のオリエンタルバンクからの融資でまかなわれますが、利子が高かったため、次いでオランダ系銀行の融資があてられます。
そして、所長には、長州からの密航イギリス留学生だった山尾庸三が、ただちに座るのです。
山尾は、伊藤博文や井上馨とともにイギリスへ渡った、いわゆる長州ファイブの一人です。四国連合艦隊が長州を攻撃するという話を聞き、伊藤と井上が慌てて帰国した後も、山尾を含む三人の長州人が残っていたのですが、馨薩摩藩留学生がイギリスに到着したことを知り、訪れて友好を暖めます。いまだ薩長連合はなっていませんが、密航ですし、異国の地で、心細い思いを噛みしめていたのでしょう。薩摩留学生たちとちがって、ろくに留学費をもらっていなかったのです。
やがて山尾は、グラスゴーへ造船を学びに行くことになります。旅費にも窮し、薩摩留学生のカンパによって、やっと旅立つことができました。
おそらくは、薩摩留学生とともに横須賀製鉄所設立の話を聞き、造船を実地に学ぶ決意をしただろう山尾にとって、横須賀製鉄所接収と所長就任は、宿願が実った瞬間では、なかったでしょうか。
しかし、ヴェルニーと技術者の多くは、当面、そのまま留まりましたし、そのおかげで、フランスの海軍造船学校へ、優秀な留学生を送り出すこともできました。
つまり、山尾が上にかぶさってみても、フランス人が主導した横須賀製鉄所の運営と伝習は見事で、口を出す余地は、あまりなかったのです。
横須賀鉄工所は、やがて横須賀海軍工廠となり、日本海軍の造船技術を育み、花咲かせたのです。
幕末、フランスの造船技術が体系的に伝えられたことは、近代日本の造船に多大な貢献をしたわけでして、小栗上野介の英断は称えられてしかるべきでしょう。
現在、横須賀にあるヴェルニー記念館には、ヴェルニーと小栗上野介の像が建てられているそうです。
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少々話が先走りますが、横須賀製鉄所建設に、もっとも猛烈に反発したのはイギリスで、その結果、建設推進の中心になっていたフランス駐日公使レオン・ロッシュは、海軍伝習をイギリスに譲ります。
本来、海軍造船所である横須賀製鉄所と海軍伝習は、セットになってしかるべきものだったのですが、造船、つまり機関関係の伝習のみがフランスで、兵科は、イギリスとなったのです。
イギリス海軍伝習教師団の日本到着は、慶応3年(1867)の暮れで、年が明けてすぐに鳥羽伏見の戦いが起こりますので、実質、ほとんどなにもできませんでしたが、イギリスはなにも、幕府を見放していたわけではないですし、幕府はかならずしも、フランスのみに頼っていたわけでもありません。
当時のオランダは、すでに、イギリスのような世界の海軍強国ではありません。
したがって、イギリスのように、真正面から強引に、幕府に迫ることはできなかったでしょう。
しかし、自国に機材を買い付けにきていた肥田浜五郎が、不満を訴えたとしますならば、からめてからの手助けは、喜んでしただろうと思うのです。
さて、慶応元年(1865)7月、フランスに姿を現した柴田使節団です。vol2で書きましたが、この使節団の目的は、横須賀製鉄所に必要な技術者を雇い入れ、必要な機材を購入することです。
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この本によりますと、柴田日向守剛中は、香港で、在日経験のあるドイツ人から、ベルギー政府が日本と通商条約を結ぶ用意をしていると、知らされています。
使節の派遣は、すでに前年の暮れに決まっていて、オーギュスト・トキント・ド・ローデンベークが全権公使に任命されていたのですが、実際に来日したのは、この年の暮れです。
このトキントが来日するにあたっては、以前に日本公使を務め、当時は中国公使だったイギリスのラザフォード・オールコックが幕府に斡旋し、また横浜に到着したトキントを江戸に案内して、幕府に条約提携を口添えしたのは、オランダ公使だったのです。
シャルル・ド・モンブラン伯爵の両親は、フランス人です。
そして、モンブラン自身も、この本によれば、生涯、フランス国籍であったようです。しかし、彼の弟二人はベルギー国籍をとっていますし、6000人の領民がいたという領地インゲルムンステルは、ベルギーにあります。
はっきりはしないのですが、モンブラン家は、南フランスの旧家だったようです。
モンブラン伯爵の父親は、1835年に、ベルギーのインゲルムンステル城と男爵の称号を譲りうけ、フランスにおいてはモンブラン伯爵、ベルギーにおいてはインゲルムンステル男爵という二つの称号を持ち、1861年(文久元年)死去。同時に、長男のシャルル・ド・モンブランが、双方を受け継いでいるのです。
ところで、ベルギー王国は新しい国です。
歴史的経緯はいろいろとあるのですが、成立は1831年。つまり、モンブラン家がインゲルムンステル城主となる、わずか4年前のことなのです。
それでいったい、シャルル・ド・モンブラン伯爵の帰属意識がどうであったのか、私にはちょっと想像がつき辛いのですが、モンブラン家の伯爵の称号は、あるいは、自由主義的な7月王制(オルレアン家。この当時、オルレアン家はイギリスに亡命)期に受けたものではないか、という情報をいただいたりもしていまして、だとするならば、ナポレオン三世の宮廷に帰属意識は薄かったのではないか、とも思ってみたりします。
宮廷はともかく、どちらの国に、ということなのですが、フランス人としての意識は、強かったでしょう。両親がフランス人で、パリで生まれたわけですし、もちろんパリに邸宅を持ち、おそらくは教育も、パリで受けているのですから。
しかし、国家となるとどうなんでしょうか。経済的な基盤はベルギーにあるわけです。
おそらく、国籍はほとんど意識していなかったのではないのでしょうか。
そしてまた、モンブランと親交のあったロニーが共和主義者で、父親を追放した帝政に反感をもっていたらしいことは、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!で見ました。
フランス人であるという意識と、時のフランス政府の対日政策を支持するかどうかは、また別の問題でしょう。
ともかく、柴田日向守に近づいたモンブランは、まず、ベルギーとの通商条約締結を勧めます。
この時点で、柴田がモンブランに怒りを覚えた様子はないのですが、9月22日(「仏英行」8月3日)になって、突然、柴田はモンブランに怒りを覚え、「このベルギー貴族は愚物でイカサマ師」であると思ったようなことを、日記に記しているのです。
この時期、五代友厚と薩摩藩家老・新納刑部などの一行は、すでにモンブランのベルギーの居城を訪れていて、引き続きブリュッセルに滞在し、ベルギーと薩摩の商社設立契約などを話あっています。
その一行を置いて、モンブランはパリの柴田のもとを訪れているわけで、柴田がいったい、なにを言われて激怒したのかわからないのですが、私にはどうしても、横須賀製鉄所に関係することだと思われてならないのです。
といいますのも、肥田浜五郎は当時、柴田のもとで技術者雇い入れ、機材買い入れの責任者となっていたフランス人のヴェルニーと、機材の選択や造船所の設置場所で、激しく言い争っていたのです。
横須賀製鉄所の所長がフランス人ではなく、日本人の肥田浜五郎であれば、技術者にしろ機材にしろ、オランダ、イギリスの食い込む余地は、出てくるでしょう。
日本人・肥田に指揮をとらせるべきである、そうでなければ、例えば横浜の英字紙が書いたように、「タイクンとその家臣たちとは今後フランスの臣下とみなされる」ようになる、と、モンブランが力説したのだとすれば、どうでしょうか。
五代や新納にしましても、とりあえずフランスの幕府支援がくずれるならば、果たしてオランダとイギリスが幕府の製鉄所建設にどれほどの援助をするかは未知数ですし、それにこしたことはなかったでしょう。
オランダ、イギリスの思惑は、あわよくば、フランスの融資をはずし、計画をのっとることも、視野に入っていた可能性があります。
しかし、両国が前面に出て邪魔をしたのでは、外交問題になります。これに、ベルギーも一枚かませるということで、モンブラン伯爵に交渉がもちかけられたのでは、なかったのでしょうか。
モンブラン伯爵はフランス人なのですから、いい隠れみのです。
しかし、ヴェルニーは非常に誠実な人柄の技術者であったらしく、柴田日向守は、深く信頼をよせていました。
さらに、フランス側では、銀行家で富豪のフリューリ・エラールが、対日貿易を取り仕切ることになり、全面的な金融協力を形で見せていたのですから、端からモンブランが口を出せば、詐欺師にも見えかねません。現実には、モンブランの陰にオランダ、イギリスがいて、融資が可能だったのだとしても、です。
またフランス政府が、モンブランの策動に気づいていたとすれば、当然、モンブランに対する非難を、柴田日向守の耳に入れるでしょう。
が、この問題にオランダとイギリスが噛んでいたのだとすれば、五代はもう一枚、したたかだったのではないでしょうか。
この時点で、グラバーやオリファントなど、イギリス人は個人として、薩摩藩に好意的な動きをしています。しかし、イギリス政府そのものが、交易相手として、幕府よりも薩摩藩に好意的だったわけではなく、フランスにいたっては、まったく相手にしていません。
ベルギー人にしてフランス人、というモンブラン伯爵は、薩摩にとって、願ってもない味方になりうる、と、五代は踏んだのでしょう。
2年の後、このとき五代が打った布石は見事に生き、パリで薩摩藩は独立国であるかのようにふるまうことに成功し、小栗上野介が企てた起債をつぶします。
ちなみに、明治新政府の最初の大仕事は、横須賀製鉄所の接収でした。
資金は結局、イギリス系のオリエンタルバンクからの融資でまかなわれますが、利子が高かったため、次いでオランダ系銀行の融資があてられます。
そして、所長には、長州からの密航イギリス留学生だった山尾庸三が、ただちに座るのです。
山尾は、伊藤博文や井上馨とともにイギリスへ渡った、いわゆる長州ファイブの一人です。四国連合艦隊が長州を攻撃するという話を聞き、伊藤と井上が慌てて帰国した後も、山尾を含む三人の長州人が残っていたのですが、馨薩摩藩留学生がイギリスに到着したことを知り、訪れて友好を暖めます。いまだ薩長連合はなっていませんが、密航ですし、異国の地で、心細い思いを噛みしめていたのでしょう。薩摩留学生たちとちがって、ろくに留学費をもらっていなかったのです。
やがて山尾は、グラスゴーへ造船を学びに行くことになります。旅費にも窮し、薩摩留学生のカンパによって、やっと旅立つことができました。
おそらくは、薩摩留学生とともに横須賀製鉄所設立の話を聞き、造船を実地に学ぶ決意をしただろう山尾にとって、横須賀製鉄所接収と所長就任は、宿願が実った瞬間では、なかったでしょうか。
しかし、ヴェルニーと技術者の多くは、当面、そのまま留まりましたし、そのおかげで、フランスの海軍造船学校へ、優秀な留学生を送り出すこともできました。
つまり、山尾が上にかぶさってみても、フランス人が主導した横須賀製鉄所の運営と伝習は見事で、口を出す余地は、あまりなかったのです。
横須賀鉄工所は、やがて横須賀海軍工廠となり、日本海軍の造船技術を育み、花咲かせたのです。
幕末、フランスの造船技術が体系的に伝えられたことは、近代日本の造船に多大な貢献をしたわけでして、小栗上野介の英断は称えられてしかるべきでしょう。
現在、横須賀にあるヴェルニー記念館には、ヴェルニーと小栗上野介の像が建てられているそうです。
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これにチャチャ入れるのは勇気が要りますなあ(笑
鎖国も海に囲まれ続けられたが、いまや海のほうからの危機感だったのですね。
海軍のほうはリクさんより新しい技術と産業の裾野も断然広い、カネもかかる。
列強の思惑とビジネスもからんでなのか...
ワタクシ的には、ビジネスも含めヴェネツィアの海軍と組みたかった(妄想!)
まあ結果的に明治の人たちの選択はよかったのですね、海はイギリス、リクは独逸と。
たいしたのもです。
(白山どのには申し訳ないが、ラテン系はイザという時カラキシ弱い!?)
以下、余談のことながら...
フランスおとなりベルギーあたりはフランドル、犬もフランドル語で吠える...
作家M.ユルスナールはあのあたりの出、お城持ってたが父親の代でほとんど失くし、
おかげで彼女は一生放浪者!?それがよかったのかも...
シャルル・ド・モンブラン伯爵は独身で、弟がモンブラン家を継ぎます。第2次大戦当時の当主は、ベルギー女王の義理の兄弟だったそうですが、対ナチス抵抗運動の中心になって戦ったそうです。
インゲルムンステル城がモンブラン家の手を離れたのは、1986年のようです。最後の城主は、モンブラン家の未亡人で、夏の間の別荘に使っていたそうなのですが。
英文だったので、読みまちがえいるかもしれませんが(笑)