郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編上

2010年10月02日 | モンブラン伯爵
明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編の続きです。

 まず、モンブラン伯爵が樺太問題に起用された証拠から、お話を進めたいと思います。
 wikiシャルル・ド・モンブランにも追記しておきましたが、国立公文書館 アジア歴史資料センター外務省外交史料館/ 柯太境界談判、レファレンスコードB03041106800、B03041106700、 B03041107200、B03041107300など、一連の書類がそれです。
 B03041106800をfhさまが全文読んでくださっていますので、下にあげます。

〔明治2年〕10月19日 弁官御中外務省 十月十九日達ス 此度佛国人モンフランを 皇国弁理職ニ被仰付候就ては樺太雑居之義ニ付同人エ周旋申付候処右地方境界凡先年徳川ノ頃五十度ニテ相定メ云々ノ談判モ 有之当事政府ノ論ニテハ境界之処 如何之庁議一決ニ候哉同人心得迄に承置度段申出候ニ付 其段当月八日外務卿殿より岩倉大納言殿エ被申入御返答承之上 同人出帆之都合ニて出立見合せ此程中より築地ホテルに旅宿いたし日々宿料相掛候下知を相待居候 右は過日も認メ上候通同人儀来夕給料等も不被下儀ニて御用向相勤候事故御沙汰以来滞在中之宿料丈ケハ相当ニ不被下候ては相成間敷 就ては御下知速緩ニ相成候得は一同ハ一日丈ケノ御失費も相懸かり候

 モンブランより樺太之策申出
 以手紙啓上いたし候。就は過日御引合申候節、御談有之候カラフト島於て魯人之所為並彼等此後之所置振篤と探索いたし候間、左之弐ケ条申進、且同島御所置振之見込をも申上候。右ニ付、左之三ケ条はいつれも肝要之事件ニ御座候。

第一条 カラフト島於て、魯西亜人之所為は兵隊を以て厳重ニ固メ、其兵卒之人数ハ小銃常備隊は四大隊農兵四大隊其他山砲隊守城砲隊ニ有之候。何れもカラフトにある弐ケ所之岬に台場を設け備へ居申候。右兵隊如此集め候義は、全ニコラエフ之地において、軍器製作所を設け、巳ニ同所エ四百人之職人を抱入、亦同所ニは、施条元込大砲五百挺貯置申候。右は何れも欧羅巴より取寄候ものに有之、亦カラフト之内にて三ヶ所之石炭山を開き、且鉄鉱山をも見出申候。其海岸には蒸気軍艦二艘、小形帆前軍艦等繋泊いたし居、其外端舟運送船等之用意も有之候。

第二ヶ条 魯人此後之所置振を左ニ申上候。此度魯人カラフトエ侵入いたし候は、元大望有之義ニて、同所を兵溜りといたし、夫よりニコラエフ其外之港々并シベリヤ国守衛之海陸軍を盛大ニ致さんと欲し、先手初ニカラフト南ノ方を掠奪いたし候事と被察申候。右之訳は、米利堅よりシベリヤ国え諸品物之運送を十分ニ行届かせ、亦各国と戦争を起し候時は、大なる利益と相成候間、欧羅巴ニ於て海陸軍之勢力ある国々に取り候てハ、大害を可生義眼前ニ御座候。其大害と申は、
則左ニ記述いたし候。

第三ヶ条 前文申述候儀ハ、能々御注意有之度、若し魯西亜人朝鮮国を掠奪する時ハ、魯国東方之海岸カラフト之地より長崎辺迄陸続と相成、右様之場合ニ至り候節ハ、大日本国之義も、今日之カラフト島に於る如く相成可申候。右ニ付同島之事件を取纏候は、唯日本国之為め而已ならす、欧州各国之大関係ニて、其国力之強弱に係り候儀ニ付、最重大之事件ニ有之候。

右ニ付ては、欧州海陸軍之盛なる国々に於てハ、各自国之利益を計り候より、自然日本国之危難を救ひ可申存候。此日本之危難を救ふ為め、必用之急務は英仏両都之外務局より魯国之都府迄掛合之書簡を送り、公法ニ依て議論を起すより無他事、右書簡を可送手筈は最急速に無之てハ、難相叶間、日本政府より直ニ英仏両国外務局え書簡を以て掛合およひ候方可然。
尤日本在留之各国人えは報告不致方宜敷候間、其辺も御含之上何れとも右之手続を以て、カラフトを御取静め之御仕法有之度存候。


不用「再ひカラフトを取戻す迄之間に設備可致義は、先土工兵并砲兵を取立るに如ことなりく、右ニ付ては、幸仏国大砲隊一等士官アントワンと申者有之、既ニ伊達民部卿殿えも申上置候人物ニて、支那ニ於て伝習教師をいたし、漸成業当時不勤之身と相成居候間、若日本政府ニて急速カラフト之固等も有之御用も候はヽ、御下命次第奉職可致存候。惣して」
右申上候廉々取縮め申上候時は、欧羅巴ニ於て之義は、御委任次第御都合ニ相成候様、私於て取斗可申候。亦御国ニてハ、カラフトを御取戻之御用意有之度との義ニ御座候。


 我十月十日 千八百六十九年第十一月十三日 日本公務弁理職コントデモンブラン 沢外務卿閣下ニ呈す

 「築地ホテルのモンブラン滞在費用がもったいないから早く政府方針を示せ」だの、モンブランが自分が連れてきた砲兵士官アントワンを売り込んでいる部分を不用としますなど(ちなみにアントワンくんはフランス兵式を採用しました土佐藩に傭われることになりました)、おもしろい文書なんですが、それは置いておきまして。
 最初にはっきりと、「佛国人モンフランを 皇国弁理職ニ被仰付候就ては樺太雑居之義ニ付同人エ周旋申付候」と書いています。周旋申し付けた、とは、ロシアとの交渉を依頼した、ということです。そして、モンブランが沢外務卿宛に意見書を提出した日付が、明治2年10月10日。モンブランは、どうやら樺太、函館まで足を運んだらしいのです。


開拓使と北海道
榎本 洋介
北海道出版企画センター


 榎本洋介氏の上の著作で見ますと、樺太問題の急浮上で、開拓使は、北海道開拓事業だけではなく、外交をくり広げなければならない、という認識が浮上したようなのですね。といいますのも、ロシアは、明治7年(1874)東京に公使館を置きますまで、日本における外交施設は函館の領事館のみで、これが事実上のロシア大使館だったんです。

 8月1日、寺島宗則外務大輔が、イギリス公使パークスから、樺太情報を聞きます。外務卿は沢宣嘉で、実質、薩摩出身の寺島が外交を取り仕切っていました。
 翌2日、杉浦元箱館奉行が、外務省出仕を要請されます。もちろん、樺太の件について事情聞き取りのためです。杉浦は、江戸帰着後、駿府(静岡)へ移住していましたが、実務能力を買われて藩の公義人となり、ちょうど東京へ出向いていたところでした。
 5日、杉浦は外務省の樺太地取調御用掛に任命され、以降、ロシアとの条約提携にかかわった元幕府関係者から、詳細に事情を聞き取ります。
 9日、外務省の沢と寺島、開拓使長官・鍋島閑叟。岩倉具視、大久保利通、大隈重信が、樺太問題について、パークスから話を聞きます。

 この後、鍋島閑叟が開拓使長官を退きます。おそらく、なんですが、ロシア領事と頻繁に接触するためには、開拓使長官が函館に常駐する必要があったから、ではないでしょうか。閑叟は高齢な上、病弱です。
 外務卿の沢を長官にして、黒田清隆を次官につけるとか、いろいろな案がいきかうのですが、そんな中、東久世通禧長官案が、浮上します。東久世は、鳥羽伏見直後の京都で、外国御用掛となり、元宇和島藩主・伊達宗城とともに、神戸事件、堺事件の解決にあたった人です。
 この東久世担ぎ出しについて、大久保利通日記8月24日条に「今朝東久世公開拓使長官、町田被遣候事共岩公へ建論一封を呈し候」とあって、最終的には、大久保が強く押したことがわかります。東久世を長官にして町田を遣わす、とは、町田久成を次官にするか、あるいは臨時に出張させるか、ということではなかったでしょうか。町田については、実現しませんでしたけれども。
 翌25日付け、大久保利通宛の岩倉具視書簡(「大久保利通関係文書1」収録)に、東久世に長官就任要請をした顛末が述べられています。結局、東久世は引き受けるのですが、最初はしぶり、次のように言ったというのです。

 「草莽徒西洋心酔説今日存候ヘハ尤ノ事ニテ、右様ノ者御登傭ハ実ニ不可然為朝廷御断申上候」

 榎本洋介氏は、この「右様ノ者」を東久世本人のこととされ、「草莽徒が私を西洋心酔者というのは、今にして思えばもっともなことで、このような私を登用するのはあってはならないことで、朝廷のためにお断りする」というように解釈されているのですが、私は、ちょっとちがうのではないか、と思うのです。
 だいたいこの書簡は、「昨日の朝密示ノ旨ヲ以三条公を訪ね、話したら同意してくれた」という文章にはじまっていまして、東久世を開拓使長官にすることが、「密示」なわけはありません。
 じゃあ「密示」とはなにかといえば、これが「樺太問題でモンブランに交渉してもらう」ことだったのではないでしょうか。ついては、顔なじみの東久世が長官を引き受けてくれないだろうか、と。
 小出大和守がロシアまで交渉に出かけましたとき、杉浦奉行は、頻繁にビュツォフ領事と連絡をとっていました。モンブラン伯爵と開拓使長官の間で、打ち合わせが必要になるだろう、ということだったのでしょう。
 したがいまして、「右様ノ者」とはモンブラン伯爵のことであり、「神戸事件の後、草莽徒が薩摩藩は西洋に心酔している、といったのは、今にして思えばもっともなことで、その元凶となったモンブランを登用するとはとんでもない。朝廷のためにお断りする」と解釈した方が、自然な気がするのです。

 薩摩藩は鳥羽伏見直前から大阪にモンブランを潜ませていまして、外交顧問としていました。神戸事件では、被害者がフランスの水兵でしたので、モンブランが解決に尽力したことが、薩摩藩の資料で確認できます。また、フランス公使ロッシュを説得して明治天皇謁見を実現。そのときには、京都の薩摩藩邸にいたことが、「フランス艦長の見た堺事件」に見えます。
 朝廷もその働きを認めて、モンブランを日本公務弁理職(総領事)に任じたのですし、東久世はいくどもモンブランと同席しています。
 しかし、ですね。神戸事件、堺事件が日本人の切腹で決着し、責任をとって切腹した者に同情が集まりましたことは、日本人として自然の心情ではあったでしょうし、モンブランと協力し、決着交渉を担当しました東久世にしてみましたら、心痛に堪えない出来事だったでしょう。

 町田久成は、ロンドン留学時代、弟の清蔵くんがモンブランのもとにいましたし、幾度も会っています。
 なぜ久成の派遣が実現しなかったのかはわかりませんが、大久保にしてみれば、モンブランにつける薩摩人としては恰好の人物、だったのでしょう。

 で、どうしてモンブラン起用が「密示」だったか、なのですが、「草莽徒」からの批判に対する憂慮も、あったかもしれません。ただ、榎本氏の解釈では、「草莽徒」イコール攘夷主義者で、対ロシア強硬論者というのは、ちがうでしょう。「草莽徒」イコール攘夷主義者としまして、モンブラン起用を嫌がる、というのはわかるのですが、そういう人々が、かならずしも対ロシア強硬論者とは限らないでしょう。
 そして、「密示」だったことの最大の理由は、対イギリス配慮、だったと思われます。
 これまで、このブログでずっと述べてきているのですが、幕府とフランスのシルク独占貿易は、イギリス商人の多大な反発を買い、イギリス公使館は、薩摩藩のモンブラン雇い入れをも、相当に警戒していました。

 幕府が倒れ、イギリス公使館は、これまで日本で勢力を張ってきましたフランスの追い落としをはかり、自国の影響力拡大を狙って動いています。
 モンブランは、維新直後の大阪、京都に滞在し、外交顧問として活躍しつつ、イギリスに対抗し、日本に対するフランスの影響力は保持しようとしていたことが、「フランス艦長の見た堺事件」でうかがえます。
 イギリスとフランスは、協力すべき場面では協力して日本に対し、しかし水面下で火花を散らしていまして、この時期にもちょうど、函館戦争にフランス軍事顧問団の一部が参加しましたことを問題にしていまして、寺島宗則は在日フランス公使ウートレーを相手に、やりあっていたりしました。
 これも、ずっと述べてきていることなのですが、海軍重視の薩摩はイギリス軍制、陸軍重視の長州はフランス軍制で、ちょうどぶつかりあっているところです。薩長もまた、水面下で火花を散らしていまして、薩摩閥としましては、イギリス公使館の意向は重視する必要がありました。

 樺太問題で、イギリスの協力は不可欠です。しかし、小出大和守がフランスの口利きもあってロシアへ交渉に出かけましたように、フランスのロシアに対する影響力は強く、フランス人のモンブランを起用しますことで、協力を得られる可能性もでてきます。
 とはいえ、イギリス公使館の手前、フランスに偏る姿勢を見せるわけにはいきませんから、モンブランが日本国内にいる間、樺太問題への助力は極秘にする必要があったのでしょう。
 いえ……、鳥羽伏見直後の京都におけるモンブランの活動には、すでにイギリス公使館からクレームがついていたのではないか、と、私は推測をしているのですが、これについては、確証がえられません。長州がフランス兵制を採用したについて、伊達宗城と大村益次郎の関係、五代友厚とモンブランの関係、宗城と五代の関係、を考えますと、モンブランが介在した可能性があると思うのです。

 さて、開拓使長官となりました東久世は、9月21日に出航し、25日に函館に到着しました。
 岡本監輔を中心としまして、樺太へ向かうメンバーは、それより早く、ヤンシー号にて9月13日に横浜を出航し、17日に函館入港。必要物資を買い入れまして、19日に出港し、22日に樺太のクシュコタンに到着しています。
 で、開拓使から二人、外務省から派遣の一人が、10月2日には再びヤンシー号に乗り樺太を出港。8日に函館へ到着して東久世に会った後、東京へ向かっているんです。
 モンブランは、これに同行していたのではないか、と、私は推測しています。
 意見書の日付が10月10日。樺太におけるロシアの備えが「二個所の岬に台場を設けて、小銃常備隊は四大隊、農兵四大隊、そのほか山砲隊と守城砲隊が常駐している。ニコラエフスク(尼港)が樺太の補給基地になっていて、武器製造工場があり、またヨーロッパからの武器もここに備蓄されている」などと細かく記されていますが、モンブランが実地に確かめたのでなければ、書く必要がないことでしょう。
 また、ロシア士官はフランス語をしゃべるでしょうから、日本人には話さないことも、フランス人であるモンブランは聞き出すことができたはずです。

 それにいたしましても、開拓使の記録から、なぜモンブランの名ががすっぽりとぬけ落ちているか、ということなのですけれども、それは開拓使の記録に限ったことではありませんで、「モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟」で書いたのですが、大久保と木戸の日記は、モンブランの名が当然出てくるべきところで、まったく出さず、東久世の日記も同じなのです。
 理由は、推測にしかなりませんが、やはり明治政府の初期外交の肝腎な場面で外国人であるモンブランに頼っていた……、といいますのは、明治の国民感情を考えますと、彼ら元勲のプライドの許すところではなかった、のではないでしょうか。まして堺事件は、切腹した土佐藩士たちが英雄となったのですし、仇であるフランス人に頼って事件を処理した事実は、政府の威信にかかわることであったのでしょう。
 その堺事件の後、今度は対ロシアという重大問題で、またもモンブランを起用。表立つ記録に残したくはなかったのだろうと思えます。
 それともう一つ、これも確証がつかめないことなのですが、私は、モンブランが山城屋和助事件にかかわっていたのではないか、とも憶測しています。

 今回また長くなりましたので、次回へ続きます。


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コメント (3)
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