荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』 黒川幸則

2016-08-08 04:05:25 | 映画
 現在の社会情勢、環境問題、放射線汚染に対する科学の無力を見るにつけ、人類文明はいつ終わりを告げても不思議ではないように思える。かつてのヒット作『マトリックス』の有名な台詞「人類は地球にとってのガン細胞だ」というのは非常なる卓見でり、地球におけるガンの増殖という観点から黒沢清の『回路』のおそろしいリアリティが、現在にずっと続いているのだと思う。
 徐々に人間が減っていき、ガン細胞へと変換されていく。生者と死者のしばしの邂逅を描いた黒沢の『岸辺の旅』、そしてモコモコ星人が人間と同居しながら文明のたそがれを一緒に観察している鈴木卓爾の『ジョギング渡り鳥』、これらの新しい日本映画の延長線上に、黒川幸則監督『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』はある。
 まず、多摩というロケーションがおもしろい。東京でありつつ東京が終わろうとしている空間、関東平野の限界空間、この風景から『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』はピタリと付いて離れない。以前、美術作家Tattakaさんが写した埼玉県朝霞市の風景写真を何枚か眺めながら、大都会の近郊ですでに自然による人類文明の再征服がもう始まっていると思ったことがある。『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』からも同じ予兆を感じた。メイン舞台となる、兄貴分役の鈴木卓爾が主人公の田中淳一郎を居候させる家屋が、すでにして危なっかしい。ちょっと目を離した隙に、今すぐにでも『岸辺の旅』よろしく廃墟に変身し、近くの雑木林に飲みこまれてしまいそうな怪しさが漂っている。
 そして労働から解放され(排除され?)、社会生活を諦めている人々。口では独自の行動規範が大きな声でもっともらしく主張されているが、現実の彼らの生活は無為そのもので、酒場の店番をつとめる柴田千紘以外は、いかなる社会生活からも隔離されている。落伍者としての惨めさはなく、むしろ朗らかでさえあるのだが、それはおそらくカラ元気であろう。カラ元気を出していないと、大きく開口している深淵に落ちていってしまいそうだからだ。
 『岸辺の旅』の幽霊、『ジョギング渡り鳥』のモコモコ星人と同じく、なんら人間と見分けのつかぬ異界の使者が入れ替わり立ち替わり現れて、人間を誘惑し、隙あらばあっちの世界に連れ出していこうと画策している。休業中の音楽家である主人公(田中淳一郎)は、異界の使者たちに特にマークされているらしい。
 ジャック・ロジエのバカンス映画のような登場人物たちのカラ元気とは裏腹に、この映画はぎりぎり文明の淵に留まっているに過ぎない。この映画の監督、黒川幸則は不完全なものに取り憑かれている。画面のつながりよりも暴力的な音響効果に重きの置かれたこの映画には、数多くの意味不明なカット、次へと繋がっていかない行方知れずのカットが散見される。誰かが歩いているカットが中途半端なデュレーションで挿入されるが、それは誰かがどこかへ向かっているという物語構造になんら貢献しないカットなのだ。不完全なものを取り込んで、アンバランスな状態を保っておかないと、映画自体が不明の催眠術によって消滅させられてしまうのかもしれない。
 登場人物たちは「竹林の七賢人」気取りで、アルコール漬けの田園生活を送る。アルコールで始終まどろみつつ、でも覚醒している。アルコールによる酩酊が、この世に踏み留まるための心構えであるとさえ考えているようだ。劇中、冷めたピザが何度も登場するが、冷めたピザをまずいとは誰も言わない。そうした言動が命取りになるためである。彼らの言動、カラ元気は、何かから逃れるための願掛けなのである。


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