荻野洋一 映画等覚書ブログ

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初夏某日、早大ベケット展のあと、高田馬場で買った久世光彦の遺著について

2014-08-13 08:34:16 | 
 “ドラマのTBS” 黄金期のディレクター久世光彦(1935-2006)の遺稿を再録した『死のある風景』(2012 新人物往来社 刊)。美術作家・北川健次の写真と装丁によって、ほろりとするほど美しい本に仕上がっている。新刊と言うには少し古いかもしれないが、店頭であらたに見つけて買った本である。早大の演劇博物館でサミュエル・ベケット展〈ドアはわからないくらいに開いている〉を見て、グランド坂のバーで少し昼酒をいただいたあと、高田馬場の芳林堂で立ち読みしながら発見したというわけである。大学時代はここの洋書売場でフランスの映画雑誌「Cahiers du cinéma」を立ち読みしたり、時に買ったりした。あれから何年も経たずして同誌の日本版刊行に携わることになるのだから、青春時代というのは予測が立たないものだ。
 そして今、本書のほか何冊かを買い込んで、そのまま同ビル内のロシア料理屋「チャイカ」に流れてシャシリクを喰らった以上、ひょっとするとこの日が今年で一番しあわせな日だったのではないか(ここのシャシリクは絶品だから)。

 久世光彦がこんなにタナトスをもてあそんだ人だったとは、迂闊にも知らなかった。向田邦子ドラマはじめ彼の演出作品は数えきれぬほど見ているし、彼の小説も少しは読んでいるのに、これは迂闊に過ぎる。向田邦子の青山のマンションで向田と飲んでいて、〈~死〉という言葉を思いつくままに挙げてみようという遊びに興じた思い出が、巻頭の文である。出てくる言葉──病死、急死からはじまり、爆死、戦死、犬死と向田邦子が鉛筆でいたずら書きをし──縊死、圧死、窒息死、轢死、水死、凍死、窮死、頓死、情死、変死、横死──「どうしてこんなにあるんだろう?」と向田が溜息する──客死、憤死、溺死、殉死エトセトラエトセトラ。
 曰く「しかし考えてみれば、小さなことを気に病んだり、ご飯を食べる箸を止めてぼんやりしたり、焦ったり苛立ったりした人生も、納まりがついてしまえば、たった三十ばかりの言葉に分類されておしまいである。少なくとも〈~死〉とおなじ数だけの〈~生〉がなければおかしいのに、そんな熟語を、私たちは一つも思い出すことができなかった。」(本書7ページ)
 最終章の一文を久世は「〈空舞台〉という芝居の用語が好きである」と書き出している。カラブタイ、ご存じですか、小津安二郎が得意とする、それまで人がいたのにその人たちが立ち去ったあとに提示される無人ショット…小津の遺作『秋刀魚の味』(1962)のラスト近く、祝言の用意ができた岩下志麻、笠智衆、岡田茉莉子ら一行が発ったあと、二階の部屋の薄暗い無人のカット(鏡、窓、文机など)が3発挿入される。あれデス。
 曰く「人はいつかいなくなる。あんなに息を弾ませて走っていた人たちも、胸がつぶれるほどの思いで男を愛した女たちも──みんないなくなって芝居は終わり、空舞台だけがそこに残る。芝居にしても映画にしても、あるいは詩や小説にしても、とどのつまりは〈そして誰もいなくなった〉ことを無残に確かめるものなのではないか。(中略)まずは顔のアップだったものが、次に等身大になり、それからカメラは引いて人の姿は次第に小さくなり、やがて表情はおろか、男女の性別さえわからないくらいの、小さな黒い点になってしまうのだ。──芸術と言われるものの〈感動〉は、そこにしかない。」(本書248ページ)

 ところで久世本人の死は、夫人のあとがきによれば、夜明けの自宅キッチンでの「急死」ということになるだろうか。向田邦子は旅客機の墜落で死んだから、「爆死」だろうか。むかしある異性が、私の死に方としては「客死がいい」と嬉しそうに言ってくれたことがある。そんな高級な死に方を実現する自信はまるでないが、仮に冗談だとしても、そんなふうに人からからかってもらえるだけで、私としても生き甲斐も死に甲斐もあるというものである、と思わねばなるまい。

草森紳一 著『その先は永代橋』

2014-08-10 17:42:34 | 
 こんなうっかりしたことを書いていいのか分からないが、私は草森紳一のエピゴーネンなのかもしれない。膨大な著書数を誇る大家と、どこぞの馬骨たる自分を比較するほど、夜郎自大ではない。そうではなく、自分の関心の持ち方、方向の順番などあらゆる点で、気づくと草森紳一がすでに踏破した地点に過ぎないのである。彼のニヒリズム、保守的傾向にはまったく同調できないし、たくさんある著書のうち読んだのは10冊に満たぬけれど、そのうち初期の『ナンセンスの練習』(1971 晶文社 刊)以外はすべてが中国文芸、近世日本についての本である。この分野では私淑と言っていい気分に勝手になっている。
 十年前に出た『荷風の永代橋』(2004 青土社 刊)は、すばらしい表紙に惹かれて刊行後すぐに買ったが、900ページ近いこの大著を私はまだ読了していない。拙宅の「積ん読」棚に10年間置いてある。他にも読みかけの本はたくさんあるのだが。そして、再び永代橋である。「文人」という言葉の薫りを残す数少ない一人だったこの評論家が没して6年。没後の新刊ラッシュにまったく乗りそびれた私も、何かの縁とばかりにこんどの『その先は永代橋』(幻戯書房 刊)は購入した。なんとこれが没後13冊目の新刊だそう。つまらぬ付言だが、購入場所は永代橋から遠からぬコレド室町のタロー書房である。

 草森紳一(1938-2008)が、元禄11年(1696)に架かった永代橋のたもとのマンションに住み始めたのは1988年。優雅な流線型を描く現在の鉄橋はもちろん、元禄のものではなく何代目かである。草森としては、小田原あたりで隠居するまでの腰かけ程度のつもりが、隅田川と永代橋に惹かれてしまい、移転できなくなった。亡くなるまで20年間住んだことになる。この大家が永代橋なら、私は、それより2つ上流に架かる清洲橋である。この対抗心は偶然の産物だが、私の中で手前勝手に奇遇と解釈している。永井荷風の有名なエピソード──発表を望まぬ過去の原稿を隅田川に投げ捨てた──はたしかに永代橋だそうだが、じつを言うと荷風のメインブリッジはどう考えても清洲橋であろう(拙ブログ「中洲病院」の記事を請参照)。でもまあいいのである。大国の中華思想にはヘドが出るが、狭隘なローカリズムから生ずる中華思想には、可憐がある。浅草の住民たちや、新宿の酔客たちが醸す中華思想に耳を傾けるのは、わが趣味のひとつだ。
 幕末の志士・清河八郎、小津安二郎の『一人息子』、七代目市川團十郎、河竹黙阿弥、志賀直哉、フランシス・ベーコン、阿部定、セルゲイ・M・エイゼンシュテインetc.…と直接間接に永代橋にかかわった人名が縦横無尽に語られる。縦横無尽と言うべきか、グダグダに垂れ流されていると言うべきか。特に本書後半は、著者自身の吐血についての描写がまことにしつこい。著者は完全にこの吐血という体験を、一生に一度しかない特権的な体験、はっきり言うとひとつの文芸的体験と受け取っており、うれしさのあまり筆が止まらなくなったのだろう。今となっては、晩年の稚気と言っても差し支えない。
 崩れる書物の山に埋もれて逝った現代の文人──草森紳一、それから田中眞澄も忘れまじ。
 

『私の男』 熊切和嘉

2014-08-07 00:28:51 | 映画
 7月16日付け「日刊スポーツ」で興味深い記事を読んだ。「『私の男』に近親相姦被害者が疑問」というタイトルの記事である(該当記事)。同映画の舞台挨拶で、近親相姦の被害者という50代の女性観客から次のような意見が出たそうである。
「私は被害者です。浅野さん演じるお父さんは加害者。二階堂さん演じる花さんは、未成年だから被害者。一般の人たちはアダルトビデオでしか認識はないと思いますが…あまり美化されてしまうと。私は50代なので恥ずかしくありません。勇気を持って言ってみました」
 それまで笑いにつつまれていた場内は静まりかえり、熊切和嘉監督は、美化して描いたつもりはないと釈明したとのこと。『私の男』は、北海道の津波災害で孤児になった10歳の少女(山田望叶 のち二階堂ふみ)を、遠縁を名乗る救助隊員(浅野忠信)が引き取って育てるうち、禁断の関係になっていくという物語。熊切監督が「質問のようなことを覚悟の上で撮った」と神妙に述べたまではいいけれど、「 “今日のことは、いろいろ持ち帰って考えたい” と、やや声を震わせながら思いを吐露した」などと記事を締めくくられてしまうと、なにやらひどく脆弱な精神で作られた映画のように思えてしまう。

 こういう脆弱なディスクールは日本の映画作家の最大の弱点と言ってもよく、故・相米慎二のあのヘソを曲げた態度は、彼を知っている周囲の人々にはよくても、世界のメディアのあいだでは幼稚と受け取られた。
 また、是枝裕和は『空気人形』(2009)出品のカンヌ映画祭のプレス・カンファレンスで、韓国女優ペ・ドゥナにメイド服を着せた上でラブドールを演じさせたことについて「これは従軍慰安婦の問題を想起させるが」という質問が記者から出た際、自分はそんなことは意識していなかった、自分は単にペ・ドゥナさんの大ファンで、彼女のメイド姿もヌードも撮りたかっただけだ、と答えた、という記事も読んだことがある。これも国際舞台では、ナイーヴな発言としか受け取られない可能性がある。
 最近では『渇き。』の中島哲也が、観客からネガティヴな感想が続出していることに関し、「うれしい」と発言したそうだが、こうなるともう単に愉快犯の言動で、いわば「俺は凡人には真似できないワルだよ」と開き直った自分に酔っている感じがする。世の中で、ワル自慢ほどナルシスティックなふるまいはない。
 映画作家は自作に対する理論武装をもっと綿密に骨太に練らねばならない、というのが私の結論である。世の道徳観念をぶっ飛ばす映画は大いに作ってもらいたい。ワルの映画を撮るなというのではない。しかし、娯楽映画であれ作家の映画であれ、理論武装なきところに作品の幹は立たない。

 ところでじつを言うと『私の男』は大好きな映画だ。浅野忠信と二階堂ふみの性的欲望には、孤独な精神の同志愛をじゅうぶんに感じさせられた。ジャン=クロード・ブリソーの諸作であるとか、奥田瑛二『少女 an adolescent』(2001)とか、中年男と少女のロリータ愛を扱ったうるわしい映画はいっぱいある(もちろん私自身はまったくロリコンではないけれど)が、そういう息吹が今作にもあった。浅野と二階堂の関係を怪しむ大人たち(モロ諸岡、藤竜也)の道徳心のほうがむしろ異常な妄執のごとく思えてくる展開がすごく効果的であるし、二階堂ふみが藤竜也を流氷で流してしまうシーンには、グリフィス的な映画臭さえ充満していたのである。

『マレフィセント』 ロバート・ストロンバーグ

2014-08-03 14:44:43 | 映画
※文中、物語に踏みこんだ箇所があります
 ヒロインの魔女マレフィセント(アンジェリーナ・ジョリー)が、初恋相手の青年(シャールト・コプリー)に睡眠薬で眠らされ、翼を切り取られてしまうというのは、なかなかに凄惨な展開である。あくまでディズニー製のファンタジー映画であるため、残虐な切断シーンが省略されているのが惜しまれる。
 フリッツ・ラングの大作『ニーゲルンゲン』の第1部『ジークフリート』(1924)のクライマックス、森の中で主人公ジークフリート(パウル・リヒター)の背中を投げ槍が貫通するシーンに息を呑んだことのあるシネフィルたちにとっては、ものの数にも入らぬ展開ではあるのは確かだけれども、しかし英雄的存在の去勢にはやはり、ある種の凄惨さの印象を抱かざるを得ない。
 恋人をあざむいて功を立てた青年は、次期王に推挙されるが、彼の部屋にずっと置かれたガラスケースのなかで、マレフィセントの背中から切り取った翼がホルマリン漬けのごとく保管されている。そしてクライマックスでは、この両翼がガラスケースの中でバサバサと激しく音を立てて、あるじの元に戻ろうとする。このシーンにはちょっとぞくぞくさせられた。ジェームズ・キャメロン、ティム・バートン、サム・ライミといった組でプロダクション・デザイナーを歴任したロバート・ストロンバーグ(『アバター』と『アリス・イン・ワンダーランド』でアカデミーの美術賞を2度受賞している)としては、あのガラスのなかの翼のバサバサは、この監督デビュー作において最も面目躍如の瞬間ではなかったか。

 マレフィセントらの住む妖精の国は、エコロジー、共生思想、素朴主義に貫かれている。いっぽう、妖精の国を滅ぼそうとする人間どもの王国は不毛の地であり、バベルの塔のごとく王城が居丈高にそびえ、好戦的、権威主義的である。このバカバカしいほど明確な対称性は、多くの無益な戦争をへて、より高次の総合へと達するのだが、この結論が非常に気味悪かった。
 つまり最終的に、二国の合併の宣言が、妖精側(つまり侵略された側)の長であるマレフィセントからなされるのである。合併は、侵略側の王女(エル・ファニング)が妖精国の女王も兼ねる形をとって実現する。エル・ファニングが可愛らしい博愛主義者であるため、妖精たちはディフェンスを解いたのである。しかしこれこそ、(慈悲深き)イギリス女王が諸国の君主も兼任するのと同じ、帝国というものの成立メカニズムにほかならない。帝国のメカニズムはかくのごとく、ファンタジー映画の甘く不可思議な魔力で近づいてくる、ということが暗に提示されているということであろうか?


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国で公開
http://ugc.disney.co.jp/blog/movie/category/maleficent

『GODGILLA ゴジラ』 ギャレス・エドワーズ

2014-08-01 00:26:24 | 映画
※文中、物語内容にふれている箇所があります
 いかにもカイル・クーパーがつくりそうな、しゃれたデザインのオープニングは、ゴジラ履歴のアーカイヴといった様子で、スタッフ・クレジットの文字列が国防総省の秘密文書のように一行一行塗りつぶされていく。だからこの映画は、怪獣の来襲による恐怖だけでなくて、過去の危機についての秘密事項を明るみにしていこうというサスペンスにも時間が費やされている。
 15年前、日本の地方都市でおきた原発事故で妻(ジュリエット・ビノシュ)を失った科学者(ブライアン・クランストン)は、日米両政府が隠蔽した事故原因の真相を解明するのに躍起になっている。もう一方の軸に日本人科学者の芹沢博士(渡辺謙)という登場人物がいて、この「芹沢」というのは言うまでもなく、60年前の初代ゴジラを倒した黒眼帯の博士(平田昭彦)の名前からとられているのだが、ゴジラという存在の意味を教訓的、あるいは神話的なレベルにまで拡大解釈していくその姿勢は、芹沢というより、志村喬が演じた山根博士を思い出させる。今作のなかで初めて怪獣の名前が発語されるのは、芹沢を演じる渡辺謙によってであり、このとき渡辺は日本語ネイティヴに忠実に「ゴジラ…」と発音する。今作の邦題は『GODGILLA ゴジラ』という並列タイトルであるが、「GODGILLA=ゴジラ」であるという等号と共に見るべきなのであろう。『パシフィック・リム』で登場人物たちが日本語の「カイジュウ」という単語を好んで使用していたのと繋がっている。
 この等号の不気味さ。映画の前半は、日本の東京および原子力発電所の所在都市がおもな舞台となっているが、ハリウッド映画がいつもやってしまう「ヘンな国」とのカルチャーギャップやディスコミュニケーションに時間を費やすことはもはやしない。日米はすでに密接な同盟関係にあり、東京──ハワイ──プレシディオの横断線は、前世紀の軍事的衝突のラインとしてではなく、怪獣たちの産卵の導線として、つまり集団的自衛ラインとして提示される。この隠れた意図はおのずとあきらかではないだろうか?


全国東宝系で上映中
http://www.godzilla-movie.jp