荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『限りなき追跡』 ラオール・ウォルシュ

2014-08-16 20:25:10 | 映画
 Apple TVにてラオール・ウォルシュ監督、ロック・ハドソン主演の西部劇『限りなき追跡』(Gun Fury 1953)を見て、いたく感銘を受けた。恥ずかしながら初見である。ロック・ハドソンが婚約者のドナ・リードと共にカリフォルニアの新居へむかう最中、駅馬車強盗に遭う。強盗一味は駅馬車で輸送中の金庫ばかりでなく、ついでに花嫁をも拉致して去っていく。
 追跡をはじめるロック・ハドソン。さらわれた花嫁なり妹なりを連れ戻すという旅は、これまで何度となく西部劇で見てきた光景だ。この追跡行為には、ある絶望感も滲み出る。ジョン・フォード『捜索者』で拉致されたナタリー・ウッドはコマンチ族に変相してしまっていたし、今回の『限りなき追跡』でもドナ・リードは結婚相手との初夜よりも先に、強盗団のリーダー、フィル・ケイリーに肉体を奪われてしまう。だが救いとなるのは、西部劇というジャンルそのものが、そのあたりの悲哀を「無かったことにする」ジャンル的精神みたいなものを強力に発揮してくれていることである。「それでも君は妻を許せるのか」などといったケチな葛藤は、少なくとも西部では無用なのである。

 いっぽう、大金を手にしたばかりか、好みのタイプの女をせしめたフィル・ケイリー。彼としては、ゲームを優位に進めているように見える。しかし、最もがんじがらめに囚われているのは、拉致された婚約者でも、追跡に執念を燃やすロック・ハドソンでもなくて、彼なのだ。『白熱』(1949)のジェームズ・キャグニーや『ハイ・シエラ』(1941)のハンフリー・ボガートのように。フィル・ケイリーがどんなに硬骨なタフガイを気取ってみせても、強盗団の部下たちはもう、リーダーの脳内が思春期の少年と化したことに呆れ果てている。かつて『ハイ・シエラ』のボギーもまた、強盗計画の当初こそアイダ・ルピノの帯同に反対したのに(プロのグループには女は無用だとかなんとかのたまって…)、最終的にはメロメロになってしまったのではなかったか(しかもボギーは、足の悪い少女との純愛エピソードの情けない結末をアイダ・ルピノに見られてしまうのだ)。
 ラオール・ウォルシュが仮にも「男性映画の巨匠」などと呼ばれることもあるのは、タフガイのヒロイズムのためではなくて、男たちが女と道行きを共にすることで思いもつかぬぬかるみにはまって破滅する一部始終を、臆面もなく描ききってみせるからではないか。フィル・ケイリーがドナ・リードの肉体に対して思いを遂げた翌日、追ってきたロック・ハドソン一派を相手にかんたんに退治されてしまう、その理由がなんだかわかるような気がする。