荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『私の男』 熊切和嘉

2014-08-07 00:28:51 | 映画
 7月16日付け「日刊スポーツ」で興味深い記事を読んだ。「『私の男』に近親相姦被害者が疑問」というタイトルの記事である(該当記事)。同映画の舞台挨拶で、近親相姦の被害者という50代の女性観客から次のような意見が出たそうである。
「私は被害者です。浅野さん演じるお父さんは加害者。二階堂さん演じる花さんは、未成年だから被害者。一般の人たちはアダルトビデオでしか認識はないと思いますが…あまり美化されてしまうと。私は50代なので恥ずかしくありません。勇気を持って言ってみました」
 それまで笑いにつつまれていた場内は静まりかえり、熊切和嘉監督は、美化して描いたつもりはないと釈明したとのこと。『私の男』は、北海道の津波災害で孤児になった10歳の少女(山田望叶 のち二階堂ふみ)を、遠縁を名乗る救助隊員(浅野忠信)が引き取って育てるうち、禁断の関係になっていくという物語。熊切監督が「質問のようなことを覚悟の上で撮った」と神妙に述べたまではいいけれど、「 “今日のことは、いろいろ持ち帰って考えたい” と、やや声を震わせながら思いを吐露した」などと記事を締めくくられてしまうと、なにやらひどく脆弱な精神で作られた映画のように思えてしまう。

 こういう脆弱なディスクールは日本の映画作家の最大の弱点と言ってもよく、故・相米慎二のあのヘソを曲げた態度は、彼を知っている周囲の人々にはよくても、世界のメディアのあいだでは幼稚と受け取られた。
 また、是枝裕和は『空気人形』(2009)出品のカンヌ映画祭のプレス・カンファレンスで、韓国女優ペ・ドゥナにメイド服を着せた上でラブドールを演じさせたことについて「これは従軍慰安婦の問題を想起させるが」という質問が記者から出た際、自分はそんなことは意識していなかった、自分は単にペ・ドゥナさんの大ファンで、彼女のメイド姿もヌードも撮りたかっただけだ、と答えた、という記事も読んだことがある。これも国際舞台では、ナイーヴな発言としか受け取られない可能性がある。
 最近では『渇き。』の中島哲也が、観客からネガティヴな感想が続出していることに関し、「うれしい」と発言したそうだが、こうなるともう単に愉快犯の言動で、いわば「俺は凡人には真似できないワルだよ」と開き直った自分に酔っている感じがする。世の中で、ワル自慢ほどナルシスティックなふるまいはない。
 映画作家は自作に対する理論武装をもっと綿密に骨太に練らねばならない、というのが私の結論である。世の道徳観念をぶっ飛ばす映画は大いに作ってもらいたい。ワルの映画を撮るなというのではない。しかし、娯楽映画であれ作家の映画であれ、理論武装なきところに作品の幹は立たない。

 ところでじつを言うと『私の男』は大好きな映画だ。浅野忠信と二階堂ふみの性的欲望には、孤独な精神の同志愛をじゅうぶんに感じさせられた。ジャン=クロード・ブリソーの諸作であるとか、奥田瑛二『少女 an adolescent』(2001)とか、中年男と少女のロリータ愛を扱ったうるわしい映画はいっぱいある(もちろん私自身はまったくロリコンではないけれど)が、そういう息吹が今作にもあった。浅野と二階堂の関係を怪しむ大人たち(モロ諸岡、藤竜也)の道徳心のほうがむしろ異常な妄執のごとく思えてくる展開がすごく効果的であるし、二階堂ふみが藤竜也を流氷で流してしまうシーンには、グリフィス的な映画臭さえ充満していたのである。