三谷幸喜という存在は、伊丹十三を思い出させる。
その作品はつねに話題作または大ヒット作となり、主軸の演劇のみならず、映画、文筆、タレント業と多方面の活躍で時代の文化リーダーとして振る舞いつつも、どこかそうした現代社会そのものを小馬鹿にしているような表情を見せる。これは、映画監督デビューした伊丹十三が1980~90年代に見せた表情と大きく重なるのである。
私は三谷幸喜の多くの作品を、雑誌などのワースト上位に投票しつつも、かつて伊丹十三の新作に目を爛々とさせつつ戦闘態勢で見に行ったのと同じような状態を求めて、三谷の新作を見に、劇場へ足を運び続けている。
三谷作品で例外的にいいと思ったのは、三谷の戯曲を市川準が監督した『竜馬の妻とその夫と愛人』(2002)である。三谷幸喜と並んで私は市川準という作り手も大嫌いであった(合掌)。ところが、「嫌い×嫌い」つまり「嫌いの2乗」がなんと転じて「好き」に変わった奇跡的な瞬間であった。それほどあの作品での鈴木京香が素晴らしかった。
そして今回の三谷幸喜の新作『清須会議』。前作『ステキな金縛り』(2011)の更科六兵衛(西田敏行)が楽屋落ちで登場するあたりは白けるほかはないが、総じてなぜか怒りを感じないのである。グランドホテル形式気取りで時空間を限定しつつ、登場人物たちを作者の言いなりの状態に拘束した上で、人形遊びに興じている点は依然として変わらない。合戦シーンを一回も見せず、武将が兜を着けることが一度もない戦国時代劇を披露してやろうという、いわば初期の『12人の優しい日本人』(1991)の戦国版とでも言うべき、得意の〈会議は踊る〉物である。
どうやら三谷幸喜が時代劇を作っている分には、私の眼鏡にかなうらしい。その訳をこれから何年かかけて考えよう。三谷は『12人の優しい日本人』に次いで、伊丹十三の結果的に遺作となった『マルタイの女』(1997)に企画協力という形で参加し、当時東京サンシャインボーイズの西村雅彦が同作に主演している。『マルタイの女』が封切られた1997年9月27日から約3ヶ月後の12月20日に伊丹十三が落命していることを思えば、日本におけるエンタメ映画の覇権が、神の手によって伊丹から三谷へと禅譲されていることが分かるだろう。その前月の11月8日には、三谷の映画監督デビュー作『ラヂオの時間』(1997)が公開初日を迎えているのである。
先日、私は梅本洋一の納骨式の後の精進落とし二次会の席上、敬愛してはばからぬ安井豊に対して「黒沢清から見た伊丹十三の暗黒の歴史」の物語を、盲目の琵琶法師のごとく長時間にわたり語ってみたのだが、同じく伊丹への関心を隠さない安井さんは相当喜んでくれた。私はこれを20年に一度の交感だと思った。そしてもうひとつ、私は「三谷幸喜から見た伊丹十三の権力簒奪史」というのも成立可能だと考えている。
ようするに結論を言わせていただこう。今回の新作『清須会議』における織田信長(篠井英介)は伊丹十三のアレゴリーであり、羽柴秀吉(大泉洋)は三谷自身のアレゴリーである。となると、本作に顔を見せない徳川家康は、黒沢清ということになるのかもしれない。
では伊丹十三も、マルボウだのマルタイだの新興宗教だのと事をかまえずに、父・万作の衣鉢を継いでナンセンスなチャンバラ時代劇コメディを撮っていれば、不慮の死を迎えずに済んだのだろうか? そして来月12月には、三谷はコクトーを演出することになっているらしい。果たしてその結果は?
TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国で公開
http://www.kiyosukaigi.com/
その作品はつねに話題作または大ヒット作となり、主軸の演劇のみならず、映画、文筆、タレント業と多方面の活躍で時代の文化リーダーとして振る舞いつつも、どこかそうした現代社会そのものを小馬鹿にしているような表情を見せる。これは、映画監督デビューした伊丹十三が1980~90年代に見せた表情と大きく重なるのである。
私は三谷幸喜の多くの作品を、雑誌などのワースト上位に投票しつつも、かつて伊丹十三の新作に目を爛々とさせつつ戦闘態勢で見に行ったのと同じような状態を求めて、三谷の新作を見に、劇場へ足を運び続けている。
三谷作品で例外的にいいと思ったのは、三谷の戯曲を市川準が監督した『竜馬の妻とその夫と愛人』(2002)である。三谷幸喜と並んで私は市川準という作り手も大嫌いであった(合掌)。ところが、「嫌い×嫌い」つまり「嫌いの2乗」がなんと転じて「好き」に変わった奇跡的な瞬間であった。それほどあの作品での鈴木京香が素晴らしかった。
そして今回の三谷幸喜の新作『清須会議』。前作『ステキな金縛り』(2011)の更科六兵衛(西田敏行)が楽屋落ちで登場するあたりは白けるほかはないが、総じてなぜか怒りを感じないのである。グランドホテル形式気取りで時空間を限定しつつ、登場人物たちを作者の言いなりの状態に拘束した上で、人形遊びに興じている点は依然として変わらない。合戦シーンを一回も見せず、武将が兜を着けることが一度もない戦国時代劇を披露してやろうという、いわば初期の『12人の優しい日本人』(1991)の戦国版とでも言うべき、得意の〈会議は踊る〉物である。
どうやら三谷幸喜が時代劇を作っている分には、私の眼鏡にかなうらしい。その訳をこれから何年かかけて考えよう。三谷は『12人の優しい日本人』に次いで、伊丹十三の結果的に遺作となった『マルタイの女』(1997)に企画協力という形で参加し、当時東京サンシャインボーイズの西村雅彦が同作に主演している。『マルタイの女』が封切られた1997年9月27日から約3ヶ月後の12月20日に伊丹十三が落命していることを思えば、日本におけるエンタメ映画の覇権が、神の手によって伊丹から三谷へと禅譲されていることが分かるだろう。その前月の11月8日には、三谷の映画監督デビュー作『ラヂオの時間』(1997)が公開初日を迎えているのである。
先日、私は梅本洋一の納骨式の後の精進落とし二次会の席上、敬愛してはばからぬ安井豊に対して「黒沢清から見た伊丹十三の暗黒の歴史」の物語を、盲目の琵琶法師のごとく長時間にわたり語ってみたのだが、同じく伊丹への関心を隠さない安井さんは相当喜んでくれた。私はこれを20年に一度の交感だと思った。そしてもうひとつ、私は「三谷幸喜から見た伊丹十三の権力簒奪史」というのも成立可能だと考えている。
ようするに結論を言わせていただこう。今回の新作『清須会議』における織田信長(篠井英介)は伊丹十三のアレゴリーであり、羽柴秀吉(大泉洋)は三谷自身のアレゴリーである。となると、本作に顔を見せない徳川家康は、黒沢清ということになるのかもしれない。
では伊丹十三も、マルボウだのマルタイだの新興宗教だのと事をかまえずに、父・万作の衣鉢を継いでナンセンスなチャンバラ時代劇コメディを撮っていれば、不慮の死を迎えずに済んだのだろうか? そして来月12月には、三谷はコクトーを演出することになっているらしい。果たしてその結果は?
TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国で公開
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