法華道の草刈りを、昨日は御所平峠から少し下った辺りから始めた。昨年も同じころにやったと記憶している。
刈ったばかりのクマササの葉や草をゴミ掻きで片付けていたら、たくさんの紅葉したカエデの葉が落ちている所に来た。それまで一生懸命古道を整備していたつもりだったが、これが自然な山の径であって、もしかしたら無粋なことをしているのではないかと気になって手を止めた。
それでも、人など滅多にしか通らないと分っていても、刈り散らかしたクマササの葉はやはり目障りである。落葉はまだまだ続くから、それから後は自然に任せればよいと思い直して作業を再開した。
左が旧道、右が新道
こっちは「旧法華道」とでも言ったらよいのか、近くにもう1本、消えかけた径
があった。わずか200㍍ほどだがこの径こそが旧来からの法華道の跡で、北原のお師匠が切り開いた径とほぼ並行していて、その先で二つは合流している。師もそのことを後になってだが知っていた。
古道の「山椒小屋跡」を過ぎ、樹林帯の中の曲がりくねった径を抜けると、材木運搬に使った古い林道に出る。現在は、ここから御所平まではこの林道を行くのだが、古道と林道がどのように重なるのか、あるいはそうでないのかについては、残念だがもう誰にも分からないだろう。
昨日は燃料が余ったのでこの径の草も刈ってみることにした。刈っていて気付いたことだが、この径が使われなくなったのはそれほど古い話ではないような気がした。クマササがまだ若く、他の場所のように密生しているというわけではなく、ただ落ち枝のあまりの多さ、そして倒木には閉口した。柔らかな表土を掘れば、別の古い土の層が出てくるかも知れない。(10月21日記)
近いところでは、田の肥料にするため刈敷きを馬に積んで老いた母と息子が夕暮れのあの径を歩いただろうと、なぜかそんな光景が目に浮かぶ。それよりか遥か遠い昔しに遡れば、北条高時の次男である時行が中先代の乱(1335年)を起こす以前にこの辺りに身を隠したと伝えられているから、当然彼も歩いただろう。
15世紀、日学、日朝両上人が時を変えて日蓮宗布教のために伊那との往還にこの径を利用したとあるし、その結果が、この古道の名の起こりとなった身延山詣での善男善女の姿に繋がったことは言うまでもない。(10月22日記)
あんな山の中に500年以上も前からあった山路を、わずかな距離でしかないが再び歩けるようにしようと始めたら、結構人を夢中にさせてしまうものだと分かった。師の思いが少し伝わってきた。
本年度の営業案内については下線部をクリックしてご覧ください。
小屋の電話が不通でご不便をおかけしてます。予約、問い合わせは何卒JA上伊那東部支所組合員課、電話0265-94-2473にお願いいたします。